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第十話 髪を切る

 鏡の前に立つと、彼女は自分の顔を少しだけ長く見た。


 廊下の向こうで、テレビの音がしていた。

 音量は低く、言葉だけが断片的に流れてくる。


 長い黒髪が、肩から胸のあたりまで落ちている。

 丁寧に手入れされてきた髪だった。絡まりもなく、無駄な癖もない。


 家が好んだ形。

 もう一人と同じであるために、残されてきた形。


 彼女は、その髪を嫌いではなかった。


 ただ、それが自分の選択だったことは、一度もなかった。


 体が弱く、外に出られない時間が多かった。

 学校に行けなかった日々。

 名前を呼ばれないまま過ぎていく時間。


 誰にも見られないことは、思っていた以上につらかった。

 自分が存在しているという感覚が、少しずつ薄れていく。


 それでも彼女は、もう一人のことを思っていた。


 学校に通い、

 写真に写り、

 記録に残り続けた存在。


 見られることは、守られることではない。

 むしろ、逃げられなくなることもある。


 彼女は、それを知っていた。


 だからこそ、

 電子の海へ行ったのが、あちらの方だったのだと理解できてしまう。


 見られ続け、

 残され続け、

 更新され続ける場所。


 そこでは、人は軽くならない。

 重たいまま、沈まずに浮かび続ける。


 彼女は、そこへ行かない。


 行けば、同じ苦しさをなぞるだけだ。


 はさみを手に取る。


 音は小さかった。

 けれど、床に落ちた髪は、はっきりとそこにあった。


 長さが失われるたび、

 何かが剥がれていく感覚がした。


 同じでいる必要はない。

 選ばれる必要もない。


 見られなかった自分は、

 消えたのではない。


 ただ、別の場所にいただけだ。


 短くなった髪に触れる。

 首元が、少しだけ寒い。


 その冷たさは、現実だった。


 彼女は、鏡の中の自分から目を逸らさなかった。


 初めて、

 誰にも似ていない自分を見ている気がした。


 それで、十分だった。

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