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喰うヤツ、喰われるヤツ、時々、トモダチ?

作者: くだきつね

白い息が、ダイヤモンドダストのようにキラキラと舞い、そして氷のように鋭く、絶対零度の空気を切り裂く。痛いほどの静寂が支配する、白と青だけの世界。

ヒョウアザラシのロンは、広大な氷盤の上で忌々しげに唸り声を上げた。ゴロゴロと喉を鳴らす音は、普段の威厳を示すものではなく、ただただ苦痛に満ちていた。鈍く、しかし容赦のない痛みが脇腹から全身へと波のように広がり、血で濡れた傷口に冷たい氷がじくじくと染みてくる。まるで氷の悪魔が傷口から入り込み、内側から凍らせようとしているかのようだ。

「チッ…あのクソガキめ…! 調子に乗りやがって!」

吐き捨てる言葉も、白い息となって虚空に消える。原因は、縄張りを巡る些細な衝突だった。最近やたらとちょっかいを出してくる、やけに筋肉質な若いオス。いつものように、その巨体と威圧的な唸り声で威嚇し、すごすごと退散させてやるつもりだった。百戦錬磨の自分に逆らう者など、この海域にはいないはずだった。だが、今回は違った。若造は怯むどころか、猛然と反撃してきたのだ。油断があったのかもしれない。いや、認めたくはないが、相手の勢いに一瞬、気圧されたのかもしれない。結果は、このザマだ。脇腹に深く刻まれた牙の跡。プライドの高いロンにとって、敗北は死よりも耐え難い屈辱だった。ましてや、手負いとなり、敵の多いこの氷の世界で動けずにいるなど、悪夢以外の何物でもない。

ロンは、生まれついての一匹狼だった。群れるのは性に合わない。仲間? 冗談じゃない。信じられるのは己の力のみ。その強靭な顎と牙、水中での圧倒的なスピード、そして何より、獲物を狩る冷徹な本能だけで、この白い荒野を生き抜いてきた。海に潜れば、皇帝ペンギンのような大物だろうが、すばしっこい魚だろうが、狙った獲物は決して逃さない。その獰猛さと孤高の生き様は、他のアザラシたちからも恐怖と、ほんの少しの敬意をもって一目置かれていた…はずだった。少なくとも、昨日までは。

(クソッ…腹が…減った…)

傷の疼きと共に、強烈な空腹感がロンの意識を苛む。腹が満たされなければ、傷の回復も遅れる。だが、この状態では…。海はすぐそこに見えている。豊かな恵みに満ちた、ロンの狩場。しかし、今はその海が、まるで死への入り口のように思えた。この傷では、満足に泳ぐことなどできそうにない。動きの鈍ったヒョウアザラシなど、海のギャング、シャチにとっては、氷の上に置かれたご馳走も同然だ。あるいは、シャチに見つかる前に、この冷たい氷の上で体力が尽き、カモメたちの餌食となるか。どちらにせよ、惨めな結末しか思い描けない。

孤独は、力ある者の特権だと思っていた。だが、弱った今、それは耐え難い重圧となってロンにのしかかる。誰も助けてはくれない。誰も心配してはくれない。それが、一匹狼の宿命。わかっていたはずなのに、今、初めてその厳しさを骨身に染みて感じていた。

その時だった。視界の端で、何かが動いた。白と黒の、小さな塊。ちょこまか、よちよちと、頼りなげな足取りで。

ペンギンだ。アデリーペンギンの、まだ羽毛に幼さが残る一羽。どう見ても、群れからはぐれた迷子のようだった。周囲を見回す仕草には、不安と心細さが滲んでいる。

(……ツイてるのか、いないのか。いや、この状況じゃ、どっちでもないか)

ロンの口元が、無意識のうちに獰猛な笑みの形に歪む。普段であれば、絶好の獲物だ。特に、こんな経験の浅そうな若鳥は、警戒心も薄い。海に逃げ込む前に、この氷上で一瞬にして仕留めるのは造作もないこと。その柔らかい肉と豊富な脂肪は、今のロンにとって最高の栄養源となるはずだった。

だが、今は動けない。文字通り、指一本動かすのも億劫なほどに。

(…まあいい。回復したら、真っ先にコイツを食ってやる。せいぜい、それまでウロチョロしてろ)

ロンは、ペンギンから視線を外し、痛みに耐えるように再び瞼を閉じた。今はただ、体力を温存しなければ。幸い、あの小さなペンギンはまだ、氷上に横たわる巨大な捕食者の存在に気づいていないようだった。このまま気づかれずに通り過ぎてくれれば、それでいい。

しかし、ロンのささやかな期待は、あっけなく裏切られた。

ペタペタ、ペタペタ…

小さな足音が、雪を踏む乾いた音を立てて、徐々に、しかし確実に近づいてくる。

(おい…まさか、こっちに来る気か? アホなのか? 目が見えないのか? それとも、自殺願望でもあるのか?)

ロンは訝しげに薄目を開け、状況を窺った。ペンギンは、ロンの数メートル手前でぴたりと足を止め、小首をかしげてこちらをじっと見ている。その黒曜石のように丸く、つぶらな瞳。そこに映っているのは、恐怖や警戒心よりも、むしろ純粋な好奇心の色が濃いように見えた。

(……なんだ、コイツは? 普通、俺を見たら悲鳴を上げて逃げるか、慌てて海に飛び込むだろうが)

百戦錬磨のロンにとっても、こんなペンギンは初めてだった。ヒョウアザラシの威圧感は、本能レベルでペンギンに恐怖を植え付けているはずだ。だのに、このチビは、まるで珍しい氷の塊でも観察するかのように、ロンを眺めている。

ペンギンは、しばらくの間、ロンの巨体を無遠慮に観察していた。もしかしたら、ロンが怪我をしていることに気づいているのかもしれない。だが、それでも、普通なら距離を取るはずだ。やがて、ペンギンはおもむろに、さらに一歩、二歩とロンに近づいてきた。

(おいおいおい、マジかよ…! 来るな! それ以上近づいたら、いくら動けなくても、お前の頭くらい一噛みだぞ!)

ロンは無意識のうちに身構えた。牙はある。リーチは短いかもしれないが、至近距離まで来られれば、反撃は可能だ。だが、ペンギンはそんなロンの内心の警告など知る由もなく、ついにロンの鼻先、ほんの数十センチの距離で立ち止まった。そして、ロンの予想を遥かに超える、驚くべき行動に出たのだ。

その小さな、しかし鋭いクチバシで、ロンの分厚い脂肪に覆われた毛皮を、優しく、トントンと、つつき始めたのである。まるで、親鳥が雛にするように。あるいは、仲間同士で毛繕いでもするかのように。

「…………ッ!?」

ロンは、文字通り、思考がフリーズした。痛みと、驚きと、理解不能な状況に対する混乱で、声も出ない。何が起こっている?

(な、な、何なんだ、こいつは!? 俺を誰だと思ってるんだ!? 俺はヒョウアザラシだぞ!? ペンギンを主食にしてる、お前の天敵だぞ!? 食うぞ!? 今すぐじゃなくても、回復したら絶対食っちまうんだぞ!? わかってるのか!?)

内心の絶叫は、しかし、目の前のペンギンには届かない。ペンギンは、時折「クァ? クァ?」とでも言いたげな、可愛らしい(とロンは断じて思いたくなかったが)鳴き声を上げながら、健気にもロンの毛皮をつつき続ける。その仕草には、一片の敵意も感じられない。むしろ、心配しているかのような…いや、そんなはずはない。ペンギンがヒョウアザラシを心配するなど、ありえない。

ペンギンは、自分を「ペペ」とでも紹介するかのように(もちろん、ロンにはその意図は微塵も理解できなかったが)、しばらくの間、ロンのそばをうろつき、奇妙な毛繕い(?)を続けた。やがて、何か大事な用事を思い出したかのように、くるりと向きを変え、海の方へ向かってよちよちと歩き出した。

(ふう…やっと行ったか。ったく、肝が冷えたぜ…いや、違うな。意味がわからなすぎて頭が痛くなった。あんな変なペンギン、生まれて初めて見たわ)

ロンは、心の底から安堵の息をついた。あのまま居座られては、落ち着いて傷を癒すことすらできない。理解不能な存在が近くにいるストレスは、傷の痛みとはまた別の種類の苦痛だった。

だが、ロンの安堵は、またしても長くは続かなかった。しばらくして、あの小さなペンギン、ペペ(ロンは心の中で勝手にそう呼ぶことにした)が、氷の縁から戻ってきたのだ。そして、その口には、ピチピチと跳ねる小さな魚が一匹、しっかりと咥えられていた。

ペペは、再びロンの目の前までやってくると、あろうことか、その捕れたての魚を、ロンの鼻先に、ポンと丁寧に置いたのである。まるで、「さあ、どうぞ召し上がれ」とでも言うかのように。

「…………。」

ロンは、目の前に置かれた小魚と、なぜか得意げに小さな胸を張っているペペの姿を、交互に、何度も見比べた。

(……え? 俺に、これを、食えと? この、ヒョウアザラシ様に向かって、ペンギン風情が、獲物を分け与えると? …本気か?)

ありえない。これは自然界の法則に反している。ペンギンがヒョウアザラシに餌をやるなど、草食動物が肉食動物に草を分け与えるようなものだ。これは何かの巧妙な罠か? それとも、毒でも盛られているのか? いや、ペンギンにそんな知恵があるとは思えない。だとしたら、このペペというペンギンは、本当に、ただの、とてつもない「お人好し」…いや、「おペンギン好し」なのだろうか?

空腹は、もはや限界に近かった。胃袋が悲鳴を上げ、目の前の魚が輝いて見える。しかし、ペンギンから施しを受けるなど、孤高の一匹狼を自認するロンのプライドが、絶対に許さない。

…いや、プライドの問題以前に、この状況があまりにもシュールすぎて、現実感がなさすぎて、空腹感よりも猛烈な混乱が勝っていた。誰か、この状況を説明してくれ。

結局、ロンは目の前の魚に手を付けなかった。プライドと混乱が、食欲に打ち勝ったのだ。ペペは、ロンが魚を食べないのを不思議そうに首をかしげて見ていたが、やがて諦めたように、自分でその魚をパクッと食べてしまった。そして、満足げに喉を鳴らした(ようにロンには見えた)。

そんな奇妙な、そして緊張感の欠片もない(ロンにとっては、別の意味で緊張感があったが)やり取りが、数日間続いた。

ロンは依然として氷の上で動けず、回復に専念していた。そしてペペは、なぜかロンのそばをテリトリーと定めたかのように、離れようとしない。時折、海に潜っては魚を捕まえ、律儀にロンの前に供える。ロンはそれを頑なに無視し、ペペは「仕方ないなあ」とでもいうように自分で食べる。ロンが寝ている(ふりをしている)間は、ペペも隣で丸くなって眠っていることもあった。その無防備さには、呆れるやら、腹立たしいやら、そしてほんの少しだけ、何か別の感情が混じるやらで、ロンの心は常にざわついていた。

ロンの傷は、幸いなことに順調に回復へと向かっていた。若い頃ほどの回復力はないものの、ヒョウアザラシの生命力は侮れない。痛みはまだ残るが、体を起こしたり、少し這って移動したりするくらいはできるようになった。そろそろ、自分で狩りに出られるかもしれない。海に潜り、己の力で獲物を捕らえる時が近づいていた。

(…そうなれば、このチビとの奇妙な同居生活も終わりだ)

ロンは、隣で呑気に羽繕いをしているペペを横目で見ながら、冷徹な思考を巡らせた。数日間、餌(?)を運んできたからといって、情など微塵も移るはずがない。こいつは本来、食料だ。動けるようになったら、すぐにでも食ってやる。それが自然の摂理であり、俺が生き残るための当然の選択だ。変な情けは、この厳しい世界では命取りになる。

そう、改めて決意を固めた、まさにその矢先だった。

「ギャー! ギャー! ギャー!」

静寂を切り裂く、甲高く、獰猛な鳴き声。それと同時に、二つの黒い影が悪意を撒き散らしながら空から急降下してきた。厄介な空のハンター、ナンキョクオオトウゾクカモメだ。その狙いは、言うまでもなく、氷上で無防備に羽繕いをしていたペペだった。

「クァ!?」

突然の襲撃に、ペペは驚いて飛び退いたが、カモメたちは地上での動きが鈍いペンギンを嘲笑うかのように、執拗に襲いかかってくる。鋭いクチバシが、ペペの小さな体を何度も掠める。

「おい、ギザ! 見ろよ、うまそうなチビペンギンだぜ!」

「ああ、ブチ! しかも一羽だけだ。こりゃあ楽な仕事だぜ!」

カモメたちは、互いに声を掛け合いながら、巧みな連携でペペを追い詰めていく。空中からの波状攻撃に、地上しか移動手段のないペペはなすすべもなく、ただ逃げ惑うばかり。小さな体には、すでにいくつかの引っかき傷ができていた。

ロンは、その一部始終を、ただ黙って見ていた。

(……好都合だ。実に)

カモメたちがペペを弱らせてくれれば、自分が仕留める手間が省ける。それに、多少傷がついたところで、食う分には問題ない。あるいは、カモメたちがペペを食い殺してくれれば、それはそれで構わない。目障りな存在がいなくなり、自分は傷の最終的な回復に専念できる。

それが、最も合理的で、自然な判断のはずだった。弱肉強食。この南極の掟だ。感傷など、何の役にも立たない。

だが。

ペペの、恐怖に引きつった「クァアア!」という悲鳴が聞こえた。

いつも、ロンの目の前で魚を得意げに見せびらかしていた、あの黒曜石のような瞳が、今は絶望に濡れているのが遠目にもわかった。

毎日、律儀に魚を運んできた、あの小さな体。

ロンの毛皮を、なぜか優しくつついた、あのクチバシ。

(……クソッ!)

次の瞬間、ロンは、自分でも信じられない行動をとっていた。

「グオオオオオオオォォォォォッ!!!」

大地を揺るがすような、凄まじい咆哮。それは、若いオスとの喧嘩で見せた威嚇の声とは違う、腹の底からの怒りと、何か別の感情が入り混じった雄叫びだった。

そして、まだ完全とは言えない体を引きずるようにして、しかし驚くほどの速度で、ペペを襲うカモメたちに向かって突進したのだ。

「な、なんだ!?」

「うわっ! ヒョウアザラシ!?」

予期せぬ巨体の乱入に、カモメたちは驚愕し、慌てて空中に飛び上がった。まさか、ペンギンの天敵であるはずのヒョウアザラシが、ペンギンを庇うなど、彼らの貧弱な想像力を遥かに超えていたのだろう。

ロンは、氷上に半身を起こし、その巨大な口を開けて鋭い牙を剥き出しにした。爛々と光る瞳で、空中のカモメたちを睨めつける。

「消えろ、クソ鳥どもッ! こいつは…こいつはな…俺の……俺の獲物だッ!!」

苦し紛れに、咄嗟に出た言葉だった。ペンギンを助ける理由など、自分でもわからなかった。ただ、この小さなペンギンを、こいつらに好き勝手させるのが、無性に腹立たしかったのだ。獲物だと言えば、カモメたちも諦めるだろう、という打算もあったのかもしれない。

「チッ、なんだよ、ケチなやつめ!」

「覚えてろよ、デカブツ! そのペンギン、いつか横取りしてやるからな!」

ロンの本気の威嚇に、カモメたちは捨て台詞を残して、すごすごと飛び去っていった。彼らにとって、リスクを冒してまでヒョウアザラシに喧嘩を売るメリットはない。

後に残されたのは、翼を少し傷つけ、呆然と立ち尽くすペペと、突進の反動で脇腹の傷がズキリと痛み、荒い息をつくロンだけだった。

(……俺は、一体、何をやっているんだ…?)

ロンは、激しい自己嫌悪と混乱に襲われた。なぜ、助けた? なぜ、食料であるはずのペンギンを、みすみす他の捕食者から守ってしまった? 馬鹿げている。非合理的だ。一匹狼の流儀に反する。

ペペが、おずおずとした足取りで、再びロンに近づいてきた。そして、またしても、その小さなクチバシで、今度はロンの鼻先を優しく、トントンとつついた。それは、いつもの毛繕い(?)とは少し違う、まるで「ありがとう」とでも言っているかのような仕草に見えた。

その温かい、小さな感触。ロンの荒れすさんだ心の中に、これまで感じたことのない、奇妙な感情が、じんわりと芽生え始めていた。それは、苛立ちでもなく、空腹からくる殺意でもなく、もっと複雑で、戸惑いを伴いながらも、どこか少しだけ、温かい何か。

その、束の間の静寂を破るように、遠くの海面に、不吉な影が現れた。

黒く、巨大な背びれが、いくつも。水面を切り裂きながら、こちらへ向かってくる。

シャチだ。オルカ。この南極海における、絶対的な頂点捕食者。

彼らの前では、ヒョウアザラシですら、時には哀れな獲物となりうる。特に、群れで狩りをする彼らに囲まれれば、いかにロンとて逃れる術はない。

ロンは、背筋に氷柱を突き立てられたような、冷たい恐怖を感じた。

シャチの存在は、この白く美しい世界の、残酷な現実を改めて突きつけてくる。喰うか、喰われるか。情けも、友情も、感傷も通用しない。それが絶対のルールなのだ。

幸い、シャチの群れはまだ距離がある。だが、油断はできない。

ロンの傷は、もうほとんど癒えていた。カモメを追い払った時の動きで、そのことを確信した。いつでも海に潜り、狩りができる。本来の自分に戻れる時が来たのだ。

そして、それは同時に、ペペとの別れの時が来たことも意味していた。いつまでも、はぐれペンギンのまま、ヒョウアザラシのそばにいて生き延びられるはずがない。ペペは、自分の群れに戻らなければ、この過酷な環境で冬を越すことは難しいだろう。

ロンは、隣で呑気に(あるいは、まだ少しショックを受けているのか)毛繕いを再開しているペペを見た。

黒曜石の瞳。小さな体。健気な行動。そして、自分に向けられた、不可解なまでの信頼。

こいつを、食うべきか。

それが、自然の摂理だ。自分が生き延びるためには、それが最も確実な方法なのかもしれない。助けてやった恩を売るつもりなど毛頭ない。ただ、腹が、猛烈に減っているのだ。目の前に、手頃な大きさの、栄養満点の食料がある。

しかし、脳裏に浮かぶのは、カモメに襲われた時のペペの悲鳴と、助けた後に見せた、あの感謝を示すかのようなクチバシの感触。そして、あの曇りのない、まっすぐな瞳。それを思い出すと、どうしても、牙を立てることを躊躇してしまう自分がいた。

(…ああ、クソッたれ! 俺らしくもない!)

ロンは、心中で悪態をつきながら、ゆっくりと、しかし力強く体を起こした。そして、黙って海に向かって這い始めた。もう迷いはなかった。ある種の諦めにも似た決意が、ロンを突き動かしていた。

ペペが、その後ろを「クァ? クァ?」と不思議そうな声を上げながら、よちよちとついてくる。まるで、ロンがどこかへ遊びに行くのだとでも思っているかのように。

氷盤の縁まで来たロンは、動きを止め、一度だけ、ゆっくりと振り返った。

ペペが、数メートル後ろで立ち止まり、小首をかしげて、じっとこちらを見ている。その瞳には、別れを予感する寂しさ…などという感傷的なものは微塵もなく、ただ純粋な「どこ行くの?」という疑問符が浮かんでいるように見えた。

ロンは、何も言わなかった。言えるはずもなかった。ただ、ペペの目を、ほんの一瞬だけ見つめ返した。

そして、ザブンッ!という大きな水音と共に、冷たい、しかし慣れ親しんだ海水の中へと、その巨体を滑り込ませた。傷の癒えた体が、水を得た魚のように(いや、アザラシだが)躍動する。

海中から、ロンは氷の上のペペの姿を見上げた。

小さなペンギンは、氷の縁にちょこんと立ち、心配そうに(やはりロンの勝手な解釈だろうか)水面を見つめている。

(…行けよ、チビ。お前の仲間たちのところへ。達者でな)

ロンは心の中で、柄にもなく、そう呟いた。声に出すことは、最後までできなかった。

やがて、ペペも何かを決心したように、短い助走から、勢いよく海に向かって飛び込んだ。水中でのペンギンは、陸上のよちよち歩きが嘘のように、まるで黒い弾丸だ。しなやかな体で水を切り、あっという間に、その小さな姿は広大な青い世界の中へと消えていった。おそらく、仲間たちの匂いを追って。

ロンは、ペペの消えた方向を、しばらくの間、ただじっと見つめていた。

腹の虫が、ぐうぅぅ、と盛大な音を立てて鳴った。我に返ると、強烈な空腹感が再び襲ってきた。

さて、狩りだ。本来の自分に戻る時だ。

ペンギンを探そうか。それとも、手近な魚でまずは腹を満たすか。

シャチの気配は…遠のいたようだ。

今日の南極の海は、いつもと同じはずなのに、なぜかやけに広く、そして深く、そして、ひどく静かに感じられた。

空からは、先ほどのカモメ、ギザとブチの声が聞こえてくるような気がした。「おい、見たか? あのヒョウアザラシ、結局ペンギン食わなかったぞ」「さあな、何を考えてるんだか。デカブツの気まぐれだろ。次は俺たちの番だな、ヒヒヒ」…いや、気のせいだろう。

ロンは、大きく息を吸い込み、そして深く、深く、蒼い海の底へと潜っていった。

一匹狼の、孤独で、獰猛な日常が、また始まる。

だが、胸の奥深くには、あの小さなペンギンのクチバシの感触と、目の前に置かれた魚の記憶が、まるで古い傷跡のように、あるいは、予期せぬ場所に差し込んだ陽だまりのように、奇妙な温かさとして、確かに残っていた。

喰うヤツと、喰われるヤツ。その絶対的な関係性は、明日からも変わらないだろう。

それでも、あの白い氷の上で過ごした奇妙な数日間は、ロンの長いアザラシ人生において、決して忘れられない、不思議な挿話として刻まれたのだ。

白い息を、今度は力強く吐き出しながら、ロンは大海原を突き進む。己の力を証明するために。生きるために。

次にペンギンを見つけたら、どうするだろうか。躊躇なく襲いかかるだろうか。それとも、一瞬、あの黒い瞳がよぎるだろうか。

それは、その時になってみなければ、ロン自身にも、そしてこの広大な南極の自然にも、分からないことだった。

南極の空はどこまでも高く、海はどこまでも深く、そして生き物たちの予測不能な営みは、時に奇妙で、時に切なくて、そしてどうしようもなく、今日も明日も続いていくのだ。

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