その4 裏々交錯
テオドール教皇は夜更けに一人、自身の住まいである宮殿内で地下室への階段を降りていた。代々教皇になった者のみに存在が伝えられる部屋である。
階段を降りてすぐ、行き止まりになった箇所には煉瓦の壁がある。特定の煉瓦を順番に押すと機械仕掛けの扉が作動する仕組みだ。煉瓦の組み合わせは無数にあるため、知らない者に開けられることはまずないだろう。
中に入ると、そこには件の魔女がいた。聖餐式に用いる予定だった上質な葡萄酒を輸入物の華美なグラスに開け、優雅にくつろいでいる。
テオドールは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「勝手な行動はやめろとあれほど言ったのに、なぜあいつを逃がした」
「わたくしは誰の味方もしないように生まれつきましたから」
どうせ彼にも大した罪などないのでしょう?とラヴィーシアは肩をすくめながら葡萄酒をあおる。
「そんなことより、今は何年なのです?」
「⋯⋯1621年だ。逃がした後はどこにやったのだ?」
「あら、前回から600年も経ったのですね」
後半の質問を完全に無視してのんびりと呟く少女。
「ついこの前は王侯貴族の方々やら大衆の皆様やらに奇跡を見せてくれと言われて聖女扱いでしたのに、今度は魔女になれだなんて随分と急な方針転換ですこと」
「戯言は良い。私はお前と呑気にお喋りをしに来たのではないんだ、聞かれたことにだけ答えろ」
彼にとって、自分の予想外が起こるのは非常に不快なことだった。その予想外を引き起こした者が目の前でこうも気ままな行動をとっていては尚のことそうだ。テオドールの額に青筋が浮かぶのを見たラヴィーシアは小首をかしげる。
「思い通りにならなくて面倒だとでも思っていらっしゃるの?」
教皇は答えない。
「わたくしを起こしたのは他ならぬあなたなのに、おかしな方」
11世紀半ばのこと。教会は、国家単位で信徒を増やし、神の存在を絶対的なものにしたいと考えていた。そして目的を成就させる手段として凄腕の錬金術師にとある生命体を作らせることにした。
それが奇跡を起こせる少女、ラヴィーシアだった。
時の流れという概念は持ち合わせず、一度眠りにつけば長いこと目覚めない。眠っている間、彼女はこの地下室に保管されることになっていた。
何か世に異変があって、教会の力だけではどうにもならなければその時は彼女の力を借りよ、と地下室の存在と共にひそやかに伝えられてきた。
そうして約600年振りにラヴィーシアを目覚めさせたのがテオドールであった。
「その様子ではわたくしに意思があるなんて思ってもみなかったのでしょう?」
今度はテオドールが彼女の質問を無視する番だった。
「⋯⋯あいつを国外にやったのなら無駄だ、最近は周辺国でも魔女狩りが盛んだからな。急にやってきた余所者はまず告発されるだろう」
「どうしてもそれが気になるのですね」
物憂げにそう言うと、やわらかな髪をくるくると指に巻き付けるラヴィーシア。
「彼は国内の地方にある小さな村に置いてきました。故郷が疫病で滅んだ哀れな放浪者として」
「また余計なことを⋯⋯!」
幾度か深呼吸をするテオドール。怒りを必死に押し殺そうとしているのだろうが、まったく抑えきれていない。
「大勢に顔を見られている男だぞ。匿っていると知れたらその村全体に厄介が及ぶではないか!」
「異端審問と存在しない魔女の処刑は今後も継続なさる予定なのでしょう?なぜ今さらそのようなことを気に止めるのです?」
教皇は忌々しそうに舌打ちをした。彼女が相手ではまったく話にならない。もっと上手く扱えると期待して目覚めさせたのに、これでは意味がないではないか。
「魔女狩りは必要悪なのだ!杜撰なことをすれば一気に教会の信用は地に落ちる。これまで築き上げてきた秩序が崩壊することの恐ろしさを考えてもみろ」
「600年前から思っていましたがあなた方、ひどく変化を忌避なさいますね。なぜです?」
「⋯⋯お前には分かるまい」
大きくため息をついたテオドールは諦観交じりにそう言った。どう足掻いても暖簾に腕押しでしかないこの会話に疲弊を覚え始めたのだ。
「まあシャルルが見つかってしまったときには、誰も事情を知らずにいたと言えば良いではないですか」
そうなれば彼は今度こそあなたのせいで死ぬことになるわけですが、犠牲を厭わないのがあなたのやり方なのでしょうから、とラヴィーシアはまっすぐ教皇を見つめた。
「⋯⋯魔女と行動を共にした者は精神に影響を受け、そう遠くないうちに魔女になるとしている。つまりシャルルは魔女の定義に当てはまる。そして魔女を匿うことは知らなかったでは済まされない」
「なんというか⋯⋯その制度、あなたが考えたものなのですか?仕組みそのものが杜撰ではありませんか」
心底哀れむような目線を向ける少女。
「いや、異端審問は随分昔に教皇職に就いた者が計画したと聞いている。それが大衆の始めた魔女狩りと最近になって融合したのが現状だ」
「わたくしからすれば、制度の見直しをなさらないあなたもこれを考案された方と同等ですね。大体、なぜ異端審問など続けているのです?」
テオドールはしばし押し黙っていた。返答に困ったのではなく、彼にとってはただの道具でしかないラヴィーシアにそのようなことを教えて良いものかと逡巡したのだ。
結局、彼女の機嫌を損ねてこれ以上勝手な行動をされては面倒だと判断したので答えることにした。
「この数世紀で色々あってな。もともとは一派だった教派が些細なきっかけから二つに分裂し、今さらに分離が進もうとしているのだ。しかし、教義——というか、正義の形はひとつでなければならない」
「なぜです?」
「あちらも正しいこちらも正しい、そしてそれが相反するとなれば、国が回らないだろう。最も源流の教義に近いのは我々なのだ。他の教派は異端でしかない」
だから教義の統一を図るために異端審問をしているのだ。
ラヴィーシアは自発的に尋ねておきながら、さして興味もなさそうに自分の髪を弄び続ける。
「そして近年は数百年単位でずっと気候が厳しくてな。民は長い間、飢饉や流行り病などに苦しんでいる。だが、それらを引き起こす存在が呪術を使う魔女であると明確になれば、彼らの抱く不安も和らぐ」
それが魔女狩りの起こった所以である。テオドールはそこで一度言葉を切り、ラヴィーシアの方に向き直った。
「この二つの構図において共通することが何か分かるか?」
「⋯⋯公的に迫害しても良い人々を定めていることでしょうか」
「その通りだ。特定の者への敵対心を共有することで、集団の中には強い結束が生まれ、同時にその輪から外れることへの恐怖も芽生える」
ラヴィーシアはほんの少しだけ眉根を寄せた。
「そうして二つが合わさったことで、より信仰心は深まり、絶対的で唯一の正しさの尺度も広まる。民は厳しい環境下で溜まる鬱憤も晴らせる」
だから魔女の存在は必要なのだ、と。
「しかし最近では異端審問に異を唱える者がいたりと、魔女の存在が危うくなり始めていてな」
「それでわたくしに本物の魔女として振る舞えと?」
「ああ、そうだ」
ラヴィーシアはしばらく逡巡しているようだった。
「それらしき理由は一応あると言えど、それだけで無実の人間をたくさん間引くだなんて、本当にこの世に神はいないのですね」
たいそう感慨深そうな調子で言った。
「神を侮辱するな⋯⋯!」
「あら、あなただって本気で信じてはいないのでは?」
素直で純粋な皆様方と違って、と付け加える。再び顔を歪めて舌打ちをしたテオドールは、そんなわけないだろう、と低い声で呟いた。
しばらく無言の時間が続き、完全にラヴィーシアのペースに呑まれていたことを自覚する。ひとまず気を取り直し、今後の方針を伝えることにした。
「とにかく、お前は教会の所有物なのだから自由に動かれては困る」
目の前の少女は不服そうに唇をとがらせるが、いちいち気に止めていては負けだ。
「良いか、まずお前は魔女の恐ろしさ、不気味さを世に知らしめるべく行動しろ」
「先日と今日の一件では不十分とおっしゃいますか?」
たいそう気が進まないといった様子だ。
「大体そのやり方では非効率なように思えますが⋯⋯」
「良いから黙って私の指示に従え」
彼女とまともに議論していては埒が明かない。
「多少死人が出ても構わない」
とにかく人目につくところで破壊の限りを尽くせ、と言われたラヴィーシアはため息をついた。
「信仰心を深めたいのならば、以前のように奇跡を見せるだけでも良くはありませんか?」
「もう時代が違うのだ。この数世紀で科学は進歩し書物も普及した。そうやって人々はだんだんと奇跡を信じなくなっていき、神の恩寵もまた忘れ去られてゆく」
現代の大衆には、もう奇跡をありがたがる余地はないのだ。昔は確かにあったその間隙は、今やほとんど自然科学で埋め尽くされようとしていた。
「それでは困る」
「なぜ」
やや機械的に聞くラヴィーシア。
「人には人を裁くことができないからだ——表面上は可能ではあるが、本来は対等な立場であるはずの者に裁かれれば必ず怨恨が残る」
「そうなのですね」
「ああ。しかしそれでは争いが連鎖することになりかねん。そこで神が必要になる。神のように絶対的で不可侵なものによる裁きならば、余計な恨み辛みも残るまい」
ラヴィーシアは何か言いたげな表情だったが、黙って聞いていた。
「とは言え、お前が持つ奇跡とやらの力で民の不安や不幸の種が完全に取り除けるのであれば話は別だ」
「ああ、それは実現に乏しいですね。わたくしの力はその場を離れては持続しませんので」
「であればやはり、このまま計画を進めることにしよう」
なんとか予定調和に漕ぎつけたテオドールは機嫌が良かった。目の前の少女はそれと対照的な様子を見せているが、結局のところ指示自体は守るだろう。先日もそうだったのだから。
「ところでお前は不死身だと聞いたが、実際のところはどうなのだ?」
「⋯⋯まあ、傷を負うだけならばすぐに治りますし、蘇ることはできますよ。欠片が揃ってさえいれば死にはしません。焼かれて灰にされるとなると話は別ですが」
思いのほか具体的な返答が得られた。
「姿を変えることはできるか?」
「数日の間に限れば可能です」
それを聞いて、テオドールが満足そうに目を細める。
「そうか、まあ数日あれば十分だ」
ラヴィーシアに魔女を演じさせて殺し、魔女の持つ怪しげな力が薄れるたびそれを繰り返すことで魔女狩りに説得力を持たせる。それがテオドールの目論見だった。
「魔女の存在を印象付けてから、我々が神の力を以てして裁きを与える。民はますます神と教会を崇めるだろう——そして秩序は保たれる」
ラヴィーシアは諦めたように目を伏せた。
「⋯⋯そういうものなのですね」
「ああ。今度は目的から外れたことをするでないぞ」
世の平和という大義の前には、何ものもさして重要ではないのだから。