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その3 上空で



 数日後、教会に隣接した宮殿の中庭。司教の身でありながら神を裏切ったという愚か者の処刑を見るために、数多の人々が集まっていた。




 これから殺される運命の男は手枷を嵌められ、牢から引き出された。何も告げられはしなかったが、今から自分の身に起こることは容易に察しがつく。

 ついにこのときが来たのか、とシャルルは他人事のように思った。


 外に出ると、長らく浴びていなかった陽の光が目に突き刺さってきた。長らくと言ってもせいぜい一週間だろうが、暗くじめじめとした牢の中で罵声と暴力を浴びせられる日々は永遠に続くような気さえしていた。




 右足が地面に着くたびおかしな方向にぐにゃりと曲がり、上手く力が入らない。数歩踏み出すうちにまったく使い物にならなくなっていることに気付いたが、執行人が構わず引き立てるので気にすることをやめた。


 明るさにだんだんと目が慣れるにつれ、自分を取り囲んでいる人々の輪郭がはっきりとしてくる。憎悪に満ちた面々。見渡す限り一人の例外もなく、皆一様に憤りと嘲りの表情を浮かべているのが見てとれた。


 宮殿の中庭中央、一段高くなったところに跪かされる。ふと、上座にいる教皇の姿が目に入った。一人だけ落ち着き払った顔をしている。不気味なくらいに普段通りだ。

 その瞬間、この数日で忘れかけていた様々な疑念や感情が呼び起こされ、脳裏を駆け巡った。




 なぜだ。自分は今まで何も曲がったことなどせず生きてきたはずなのに。一心に神に仕えてきたのに。


 教会で自分を慕ってくれた人々の顔が思い浮かぶ。彼らも今では侮蔑の眼差しを向けているのだろうか。


 一体、自分が何をしたと言うのだろう。

 こんな目に遭わなければならないようなことを何かしたか?


 なぜ、自分はこの場の皆と信仰心を同じくしていると信じてもらえない?


 なぜ、救いは訪れない?




 ——例の魔女が現れなければこんなことにもならなかったのだろうか。


 ああ、そういえば彼女は、今まで魔女として火刑に処された人々は無実だったとも言っていたのだったか——教皇様は否定していたが。

 その魔女の発言が本当ならば、これは今までそうした人々を見殺しにした自分への罰なのかもしれない。


 そう考えれば、火刑でないだけまだましだとも思える。




 最後の審判のときに戻るべき肉体を残してもらえるのは、聖職者として人生を捧げてきた彼への唯一の温情だった。


 生きながらにして焼かれる苦痛を味わわずに済むのも幸いと言って良いだろう。


 それでもシャルルは、こんな形で終わりを迎えたくなどなかった。

 これではきっと神の御許にも行かれはしまい。




 見物客が何かを熱狂的に捲し立てている。

 その姿は見えるものの、何一つとして聞き取れない。自分一人だけ水の中にいるような感覚だ。

 だが、それらが自分への憎しみをぶつける声であることだけは明らかだった。




 執行人が群衆に何かを宣言し、それからこちらに向き直るとまた何か口を動かすのが見えた。

 依然として上手く聞き取れなかった。


 だが、その言葉が明らかになったとて自分のこの先はもう定められた一通りでしかない。考えることをやめ、ただ黙って頷いてみせた。


 やがて、首の横に鋭い刃が当たる感触があった。


 観客が熱気を増す。人というのは敵意に満ちるとこんなにも歪んだ表情をするのか、頭の片隅でそう思った。

 地面が小刻みに揺れているのが感じられた。いや、揺れているのは地面ではなく、自分の方か。


 この期に及んでまだ死を受け入れがたい己が滑稽に思えて、自嘲の念から口元には笑いすら浮かんだ。


 ——これでこの苦しみが終わるのならばもう、良いか。


 静かに目を閉じた時だった。疾風が顔の前を掠めたように感じた。


 人々のざわめきが、この時ばかりは不思議と耳に入ってきた。


「魔女だ⋯⋯」

「仲間を助けに来たのか?」

「気味が悪い⋯⋯」


 意を決して目を開けた先には、年の頃17ほどの少女が立っていた。白く透き通った肌に、太陽の光を受けて深い青に輝くふわふわとした黒髪。

 澄んだ緑の両目に慈しみを湛えてこちらを見るその様子は、とても魔女などという禍々しい呼び名をつけられるような存在には思えない。



 むしろ——。



 呆然としていたのも束の間、ほっそりとした指先がこちらに伸ばされたかと思うと、次の瞬間には体が宙に浮いていた。


「初めまして。わたくしはラヴィーシア、見ての通り魔女よ」

 春の陽だまりを思わせる笑顔を向けられる。半ば凍りついていた思考の端が、ほんの少しだけ溶かされたような気がした。


 地上からは矢が雨あられと降り注いできた。この事態を予測して準備されていたのかと思うほどの量である。しかし少女はそれらすべてを身軽にかわした。

 喧騒があっという間に遠ざかる。




「あなたを貶めた人が憎い?」

 上空で魔女にそう問われて、シャルルは咄嗟には答えられなかった。

「ああ、口を切っているから上手く喋れないのね」

 ラヴィーシアがひんやりとした手を頬に当ててきた。答えなかったのは別にそういう理由からではなかったのだが、その手が何となく心地良かったので否定はしなかった。


 しばらく経ってから少女が手を離した。気付くと、全身の傷が癒えている。

「君は、一体⋯⋯何なんだ?」

 礼より先に口をついて出たのは畏怖だった。

「さあね」

 とても軽やかな言い方。

「それに、何って失礼だとは思わない?一応あなたと同じ、人間の姿をしているのに」

 一応、とは何だ。それが引っかかって余計言葉に詰まる。

「あ⋯⋯ええと⋯⋯」

「あなた、立ち回りが下手ね」


 空中でラヴィーシアに身を委ねるしかないこの状況下、彼女の機嫌を損なうことは死を意味する。そう気付いてはいたが、如何せんシャルルは率直すぎる性分だった。


「失礼なこと言ってごめん⋯⋯」

 とりあえず謝ることにした。これも計算ではなく、素直に自分の非礼を詫びるべきだと思ったからだった。


「どうして僕を助けたんだ?」

 至極当然に抱いた疑問を投げかけると、魔女は小首をかしげてしばし考え込んでいた。

「ただの気まぐれよ」

 どこか含みのある物言いだった。しかし深く考えられる精神的余裕はなかったので、それ以上追求しようとは思わなかった。


 代わりに溢れた言葉。

「いっそあのまま死なせてくれれば良かったのに⋯⋯」

 ラヴィーシアの瞳孔がすっと細くなった。

「あら、死にたくないって顔をしていたけれど」


「だって、この国で背教者になってしまえば生きてたってひどい目にあうだけだ!職も失ってしまったし当てにできるような人もいない⋯⋯君には分からないだろうけど」

「どうしてわたくしには分からないと?」

「それは、君が⋯⋯」


 他の人とは違うから、自分の身を守れるだけの力があるから、何にも縛られず自由だから——脳裏を様々な言葉が渦巻く。どれを口に出してもまた失礼だと言われるような気がして、シャルルは途中で言葉を引っ込めた。



 その心境を知ってか知らずか、ラヴィーシアはそれ以上問いただしたりはしなかった。



「どうしても死にたければ、今ここから落としてあげることも可能よ」

 眼下には鬱蒼とした森が広がっていた。すぐ先には崖があり、ごつごつとした岩肌が見てとれる。


 あそこならまず間違いなく死ねるでしょうね、と魔女がそちらを指差す。と同時に、返事をする間も深く考える間もないまま、体が重力に引かれて落下するのを感じた。



「うわああああ!」



 聞こえてきた悲鳴が自分の口から出たものだと気付いたのは、落下が止まってからのことだった。

 ついでに言うと、無意識のうちにラヴィーシアの服の袖を握りしめていることに気付いたのも同じ折であった。力を込めすぎた指先は真っ白になっている。


 やや呆れ顔の魔女がこちらを見た。

「ほら、やっぱり死にたくなんてないんじゃない」

「違う⋯⋯そんなこと⋯⋯」

「何も違わないでしょう?」

「違う!」

 半ば意固地になってシャルルは叫んだ。ラヴィーシアに、というよりは自分に言い聞かせるように。

「僕はただ、臆病なだけだ⋯⋯」


 途端にラヴィーシアの眼差しが幼子に向けるようなものに変わった。

「臆病だって良いじゃない、自暴自棄になるよりは余程ましよ」

 ゆっくりと諭すような言い方だった。


「生きたいのなら生きれば良い」


「でももう、どうしたらいいのか分からない⋯⋯こんな状態で生きるのは怖い⋯⋯!」

 自分より明らかに年下の少女に向かってそんなことを口走るのはどうかと思いはしたが、冷静な判断を下すにはここ数日の災難続きで疲弊しすぎていた。


「あなた、きっと今まで実直に生きてきたのでしょう?その道が急に崩れれば迷走するのも無理はないわ」

 そういう人間は多いものね、と呟いてから、自分で自分の発言に同意するかのように何度か頷くラヴィーシア。

「そう、かもしれない⋯⋯」

 五歳のときに両親を流行り病で亡くし、親切な神父に引き取られて以来二十年間、自分が誠実でいさえすれば、それに見合うだけの結果が得られてきた人生だった。

 しかしそこから離れ、築き上げてきたものすべてが崩れた今、一体どうすれば良いと言うのだろう。


「大丈夫、また何か困ったことがあればわたしを呼べば良い」

 そんなこと気軽に言われても、どうやって、と思っていると、少女はすべてを見透かしたような微笑みを浮かべた。

「わたしは魔女のラヴィーシア。それだけ覚えていてくれればいつでも行って力になるわ」


 不思議な感覚だった。自分は今まで人生をかけて神に仕えてきて、人々にもそのありがたみを説いてきたはずだ。そして目の前の彼女はどう考えても神とは対極の存在だった。


 だというのに、彼女からは聖書に書かれている人物のような気高さ、崇高さが感じられる。それに自分を窮地から救ってくれたのは神ではなく、魔女を名乗る彼女だった。


「⋯⋯ありがとう」

 思考を巡らせた末、今度こそシャルルは礼を述べることにした。




「これから誰もあなたを知る者のないところへ連れて行こうかと思っているのだけれど、他に希望はある?」

 ラヴィーシアの言葉に黙って首を横に振る。行き先がどこであろうと、彼女の判断ならば悪いことにはならないような気がした。


 数日分の緊張が一気にほぐれてふわふわとした心地になる。まあ実際、物理的に宙に浮いているのだが。




「わたくしの生まれ故郷のような場所なのだけれど——あら」

 ふとシャルルの方を見ると、彼は眠りに落ちていた。

「人間とは不思議な生き物ですね⋯⋯かようなところで眠るなんて」

 そう小さく呟くと、魔女はそのまま飛び続けた。



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