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その1 暁



 17世紀初頭、ヨーロッパの小国ヴィザールでのこと。


 港町のとある広場には、今日も大きな十字架がそびえ立っていた。そこには少女が鎖で括り付けられている。日の出の時刻にそうされてからもう半日になるので、今ではぐったりとして身動き一つしない。


 額にかかった長い黒髪が時折かすかに揺れ、かろうじて呼吸はしていることが分かる。


 日が落ちるにつれ、広場で足を止める見物客が徐々に増えてきた。最初は少女めがけて石や泥を投げる者もいたが、今では彼らも無反応の彼女にもう飽きたのか、ただ取り囲んで嘲笑するに留まっていた。




 やがて松明を持った男が広場に入ってきた。広場に集まった群衆が途端に熱気を増す。


「殺せ!」

「火刑だ!」

「殺せ!」

「神に背いた愚かな魔女に死を!」


 飛び交う怒号に、それまでずっと俯いていた少女が顔を上げた。


 賑わっていた観衆に、一瞬の静寂が訪れた。


 彼女はあまりに平然とした表情をしていたのだ。波打った黒髪の隙間から覗いた緑の目には、はっきりと意志が宿されているように見えた。


 これから処刑されるとは到底思えない、未来がある者のような顔つき。少女の置かれた状況にひどく不釣り合いだった。


 数秒だけ押し黙った人々は、また口々に叫び始めた。


「悪魔め!」

「あいつは正真正銘の魔女だ!」

「早く火あぶりにしろ!」


 黒い衣服を纏った処刑人は、その声に応えるように松明を高く掲げる。少女はこれから自らを焼くであろう火に目を向けることすらしない。ただまっすぐに空だけを見つめている。

 人々は固唾を呑んで決定的瞬間を待った。


 火が、木製の十字架の下部に投じられた。




 次の瞬間だった。火が信じられない速度で燃え広がった。少女の方へ、ではなく観客の方へ。一斉に悲鳴が上がる。大量の煙で視界が覆われ、熱さで半狂乱になった人々は逃げるべき方向も分からない。


 数十秒後、これまた唐突に火は鎮まった。広場中央を見やると、そこに少女の姿はすでにない。

 もう少し注意深く観察すれば、着火材として十字架の足元に並べられていた薪にも、十字架本体にも、炭化している箇所がまったく見当たらないことが分かるだろう。


 しかし、その奇妙な状況に考えが及ぶほど冷静な者は今、この場にほとんど存在しなかった。




「ふふっ」

 どこからか、小さな笑い声がした。おかしくてたまらない、というような笑い声。ひどく場にそぐわない。

 誰が発したものかと辺りを見回すが、視界には自分と同様に狼狽え戸惑う人々しか映らない。とは言え、この状況で笑える者など一人しか思い当たらなかった。


 処刑台から忽然と姿を消した不気味な魔女。この場の混乱を引き起こした元凶。断罪されるべき悪そのもの。


「あなた方はなぜ、このようなことをなさるのです?」

 今度ははっきりとした発声だった。しかし依然として声の主は姿を現さない。

 ふと、群衆の一人が上を指差した。震える声で「あそこに、魔女が⋯⋯」と。ざわめきの波紋が広がる。


 少女は宙に浮かんでいた。ふわりと髪を風になびかせ、悠然とした眼差しをこちらへ向けている。その様子は先ほどまで囚われの身だった者からは程遠い。

 顔にも手足にも傷一つなく、ぼろきれ同然だった衣服はいつの間にか光沢のある厚手の生地に変わっていた。




 人々はもうそれ以上、身動きができなかった。

 彼らに唯一残された選択肢は、ただ彼女を見上げることだけだった。




「もう一度お尋ねしましょう、なぜこのようなことを繰り返すのです?毎日毎日飽きもせずに、ここに集まっては石を投げ唾を吐き、明日は我が身かもしれないと思うこともなく」

 随分能天気なこと、と冷笑する。



 しばらく間があった。



「それはっ⋯⋯お前たち魔女がいると、皆が不幸になるからだ」

 ようやく群衆の一人が上ずった声で答える。


 宙に浮いた少女はそちらに目を向けた。猫のような瞳孔に捉えられた男はそこから目が離せなくなる。

 自分から目を逸らせば殺されるのではないか。いや、死よりも恐ろしい地獄を見せられるのではないか——そう思わせる眼差し。




 幸いなことに、やがて彼女はゆっくりと目線を上げるとまた話し出した。

「魔女、ね⋯⋯本物の魔女なら逃げおおせるだろうとは思わなかったのですか?一年以上もこれを続けてきたというのに、その間ただの一度も?」


 またざわめきの波紋。だって、それでは今まで処刑してきた人々は、今まで悪だと信じてきたものは、一体どうなるのか。



 あまりにも、救いが——。



「あなた方が今日までなぶり殺してきたのは人間。ただの才に富んだ人間です」

 平均より少しだけ知識があって、少しだけその活用に長けていた、でもただの人間。


「そもそも魔女などいなかったのですから——わたくし以外には」

 微笑みを浮かべる少女。その瞬間だけ切り取ればひどく慈愛に満ちているように見えただろう。しかし今、この場においては、その笑みに安心感を覚える者などいるはずがなかった。




「でもお前は本当に魔女なんじゃないか!」

 まだあどけない面立ちの少年が必死に彼女を睨み付ける。周りの大人が信じられないという目でそちらを見た。

 今度も幸いなことに、少女は眉を少し上げただけで微笑みを崩さなかった。


「そうですね。ところで、あなたは何をもってこちらを悪と言い切れるのです?」

 心底不思議で仕方がないという口調。


「わたくしはあなた方のように同胞を何人も殺したりしていませんし、昼間わたくしに石を投げた人間のことも覚えていますが、彼らにも手出しなどしていないではありませんか」

「さっきの火はどうなんだよ!お前の仕業だろ!」

 一度反論を許されたことで気が大きくなったのか、少年が再び大声を上げる。

「ええ、ですがあれはまやかしのようなもの。誰にも火傷を負わせてはいません」

 一瞬、ほんの一瞬だけ、少年は戸惑った。それが本当ならば、大勢で寄って集って糾弾すべきではないのかもしれない、と。


 しかし彼女の発言は本当に信用して良いものだろうか。


 そしてそれが正しかったとて、彼女が今から群衆の中に溶け込むことを受け入れられるだろうか。

 得体の知れない力をこうも簡単に行使し、自らの招いた混乱を笑って眺める彼女を。今は誰も傷つけてはいないと言うが、いつ気が変わるかなど分かったものではない。


「それでも魔女は、ここにいちゃいけないんだ!」

 思考に混じったわずかな雑念を無視し、少年は本能的にそう叫んだ。そして、それが大衆の総意であった。口々に同意の声が上がる。


 少女は大きくため息をついた。結局、こうなるのか。

「そうですか。ならば仕方がありませんね」


 無造作に手を伸ばした方向にあったのは、先程まで自分が括り付けられていた大きな十字架だった。それが一瞬にして砕け散る。


「ひっ」

「悪魔⋯⋯!」

「聖なる象徴になんてことを——!」


 それまで少しだけ気を緩めていた人々は、また戦々恐々とした心持ちに引き戻された。




 魔女がゆっくりと、広場にいる一人一人と目を合わせるように視線を動かす。

 一刻も早くこの場を離れたいのに、動くことができない。


 いつ自分に災いが降りかかるかと身を固くした瞬間——


 広場中央に飛び込んできたまばゆい閃光が視界を奪った。一拍遅れて雷鳴が響き渡る。それはどす黒く渦巻いた空から大粒の雨と共に落ちてきたものだった。

 夏だというのに、風が肌を刺すように冷たい。




「そろそろ悲鳴も聞き飽きました」

 下界を見下ろす少女に先刻までの慈しみに似た色はもうない。今や何の感情も読み取れないその顔は、見る者をぞっとさせる美しさがあった。


「ああ、名乗るのを忘れていましたね。わたくしはラヴィーシア。以後お見知りおきを」

 そう言い残すと、彼女は真っ暗な空に紛れるように姿を消した。



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