4.襲撃
「今日も盛況でしたわね……」
ある夜会の後。馬車の中、ブリジーアがしみじみとつぶやいた。
クオリーオが舞踏会で初めて氷のダンスを披露してから三か月が過ぎた。
当初の計画では3回ほど度舞踏会に参加して、ある程度噂になってから社交界デビューするという段取りだった。
しかしクオリーオのダンスは予想を超えて好評となった。『氷結のダンス』と呼び名がついて讃えられ、いくつもの貴族の催しから参加を求められた。王都の舞台や平民の催しからも依頼が来たくらいである。
王室に報告すると、魔族のイメージアップにつながるとのことで積極的にダンスを披露するよう勧められた。
ひとまず貴族からの誘いに絞って受けた。それでも依頼件数は多く、ここのところはダンスを中心の生活だ。移動してダンス、戻ればダンスの練習。その繰り返しだ。
「まったく、これじゃあ結婚したんじゃなくてダンスパートナーになったみたいだ。貴族やってるより芸人になった方が儲かる気がしてきたよ」
「何を言っているんですか! クオリーオの社交界デビューのためのダンスですのに、それ貴族を辞めるなんて、本末転倒もいいところですわよ!」
おどけて冗談を言うフィートバルに、笑いながら叱りつけるブリジーア。
そんな二人を見ながらクオリーオはあいまいな笑みを浮かべた。
「……どうしたクオリーオ、何か悩みでもあるのか?」
「いえ、なんだか不思議なんです」
「不思議?」
「わたしの魔法『氷結の鏡面』は子供の頃から遊びのために使っている魔法でした。鬼ごっこで逃げるときに滑ったり、かくれんぼで鬼になった時に見えづらい場所を鏡で見たり、イタズラの仕返しに誰かを転ばせたり……」
クオリーオは『氷結の鏡面』で馬車の壁の一角に氷の鏡を作り出した。隣あって座るフィートバルとブリジーア。それに向かい合わせに座るクオリーオの姿が映し出された。
フィートバルは皮鎧を着こみ、ブリジーアはゆったりとしたローブを纏っている。長い金髪も、邪魔にならないようくくってまとめている。これは二人が冒険者として活躍する時の装備だ。
フィートバルとブリジーアは二人して、「窮屈な貴族の服ばかり来ていると感覚が鈍る」と言って馬車で移動するときはいつもこの格好をしていた。
対してクオリーオは黒を基調としたレースで彩られたドレスだ。
いつでも戦闘に入れる装備をしながら暖かな空気の中、談笑する人間。
貴族の服と冷気を纏い、寂し気な魔族の少女。
同じ場所にいるのに、どこか隔たりを感じさせる光景が、氷の鏡に映し出されていた。
「踊りにしてもそうです。氷を滑って踊るのは、ただの気晴らしでした。周りの人からは褒められて、ちょっとうれしくなる。その程度のものだったんです。
それがこんなにたくさんの人間に喜ばれるなんて思いませんでした。魔族領を出て、こんなに楽しい時間があるなんて、考えたこともありませんでした。
みんなの前で踊って。それをたくさんの人が楽しんでくれて。わたしの魔法を褒めてくれて。嘘みたいに楽しい時間。まるで夢でも見ているように、とてもしあわせで楽しい時間……」
「……楽しいことを、何でそんなにつまらなそうな顔で語るんだ?」
フィートバルが怪訝な顔をして問いかける。
クオリーオの表情は変わらない。悲しみも寂しさもその表情には浮かばない。
ただ、諦めだけが感じられた。
クオリーオがさっと手を振ると、『氷結の鏡面』は消えた。
「氷がいずれ溶けるように。魔法がいずれ解けるように。
夢のような時間だからこそ、覚めてしまうとわかっているからです。
わたしはその覚悟をして、人間の王国にやってきました。ただそれだけのことなんです」
「クオリーオ、君はいったい……」
そう問いかけたところで、急に馬車が止まった。
フィートバルとブリジーアの顔が引き締まった。貴族の顔ではなく、強敵を前にした冒険者の顔になった。
「なにかあったようだ。ちょっと出てくる」
フィートバルはそう告げると、馬車の外に出ていった。
月明かりの下。薄暗い森の中を通る一本道。
馬車は全部で3台。フィートバルたちの乗る馬車の前後に、護衛の馬車が一台ずつ。
その前方は、何本もの丸太が積まれて道が塞がれていた。
丸太のバリケードの前には、20名近くの黒ずくめの者たちがいた。いずれも剣や魔法の杖などで武装している。
護衛の馬車からは騎士たちが降り、早くも迎撃の構えを見せている。黒ずくめの一人が高々と声を上げた。
「我々は『愛すべき人々を守る剣』! 人々を守る義勇団だ! その馬車に卑しき魔族の娘がいることはわかっている! おとなしく差し出してもらおう!」
フィートバルは護衛の騎士たちの前に出ると、声を張り上げた。
「私はフィートバル・ハイフェビル男爵子息! 馬車にいるのは私の妻、麗しき魔族の令嬢クオリーオ! あいにく『卑しき魔族の娘』など乗っていない! どうかお引き取り願いたい!」
フィートバルの堂々とした声に、黒ずくめの者たちはいきり立った。剣を抜く者すらいる。
それを手で制し、リーダーらしき黒ずくめが、再び声を張り上げた。
「世迷言を! その馬車に乗っているのは、氷の魔法で人々をたぶらかす愚劣な魔族!! 人間の王国にそんなおぞましいものがいいはずがない! 魔族を滅ぼし、国を守る! それこそが人の正道であると心得よ!」
「世迷言はそちらの方だ! 貴様の言っていることは、私に妻を見捨てろと言うことだ! そんな愚かな行いをした男が歩く道が、正道などであるはずがない!」
「我々『愛すべき人々を守る剣』は人を守る義勇団! 魔族に与する貴様らは、もはや王国の敵だ! ここで引導を渡してくれる!」
「貴様こそ、我が妻を愚弄した罪、許しがたい! その身に後悔を刻むがいい!」
交渉は決裂した。
いや、今のが交渉などではないことなど、フィートバルには初めからわかっていた。
クオリーオの移動経路を事前に把握し、前もって道をふさぐ。しかも場所は見通しの利かない森の中だ。相手の武装も人数も、魔族の令嬢を確保するだけなら過剰すぎる。
クオリーオを渡そうと渡すまいと、この場にいる者全てを殺す目論見なのだ。言葉を交わしたのは、彼らの中だけにある正当性を成り立たせる欺瞞に過ぎないのだ。
「やれ!」
黒ずくめのリーダーが叫んだ。
「頼んだぞ、ブリジーア!」
フィートバルはロングソードを抜き払い、構える。
黒ずくめのリーダーが命じたのに、前方にいる男たちは動かなかった。
代わりに、馬車の左右から矢が降り注いだ。伏兵を用意していたのだ。
「『豪風の護り』!」
ブリジーアは馬車の屋根の上に飛び乗ると、予め用意していた風の防御魔法を解き放つ。吹きすさぶ豪風が、降り注ぐ矢をあらぬ方向に弾き飛ばした。
「『風の大槌』!」
続けて、矢を放ったと思われる場所に向け、風の攻撃魔法を炸裂させた。空気を圧縮して広範囲を押しつぶす魔法が木々をなぎ倒す。木々の倒れる音に紛れていくつかの悲鳴。何人か巻き込めたようだ。
「わたしも手伝います!」
馬車の中からクオリーオの声が響く。
クオリーオの氷の魔法は強力で、その使い方も巧みだ。戦力としては極めて強力だ。
「あなたは馬車の中でおとなしくしてなさい! 相手は人間! あなたが倒してしまうと、色々と面倒なことになりますわ!」
クオリーオの手出しをやめさせると、油断なく周囲を警戒する。
ブリジーアは守りの要だ。飛び道具は魔法で全て防ぎ、射手を迎撃するのその役目だった。
ブリジーアが矢を防いだ時。フィートバルは既に馬車の前にいた黒ずくめの集団に肉薄していた。彼らはおそらく、弓矢の援護と同時に襲い掛かるつもりだった。それをあっさりと防がれて、生じた隙に踏み込んだのだ。
ロングソードを振るうたびに、肉がひしゃげ骨が折れる音がした。斬るのではなく、剣の平で殴っているのだ。殺すつもりはなかった。
黒ずくめの者たちの中には板金鎧を着こんだ者もいた。だがそんなものは関係ない。彼の鍛え抜かれた身体から卓越した技で振るわれるロングソードは、刃を使わずとも鎧をひしゃげさせ、骨を砕いた。
「ええい! たった一人だぞ! 囲んで押しつつめ!」
いかに不意を衝こうとも、人数は向こうが上だ。態勢を立て直されれば危うい。
フィートバルは素早く身を引いた。それを逃がす黒ずくめたちではない。仲間をやられた恨みを晴らそうと追いすがる。
それが、横から斬られた。護衛の騎士たちだ。フィートバルは護衛の騎士の動きを把握していた。一人で突っ込み機先を制し、護衛の騎士が有利に戦えるように誘導していたのだ。
そこから先は一方的な戦いだった。黒ずくめの集団の中には腕の立つ者もいた。だが、戦いの始めに不利な状況を作られ、しかも彼らは統制が取れていなかった。厳しい訓練を受け、武装した護衛の騎士たちの連携の取れた攻撃を前に、ろくな抵抗もできなかった。フィートバルも加わり、危なげなく無力化していった。彼の得意とする炎の剣を使う必要すらなかった。
飛び道具による攻撃はブリジーアが完全に防ぎ切った。いくつか攻撃魔法が飛んでくることもあったが、ブリジーアにとっては児戯に等しい低級な魔法ばかりで、容易に迎撃できた。
相手の場所が分かると、ブリジーアは広範囲の攻撃魔法を放った。直撃は期待しない。倒しきれなくても問題ない。こちらを攻撃する能力を失わせれば十分だ。この森には魔物も生息している。傷ついた身体では、自分の命を守るのに精一杯で、こちらを攻撃する余裕など無くなるだろう。
戦闘は一時間足らずで終わった。フィートバルもブリジーアも傷一つ負うことはなかった。護衛の騎士たちの損害も軽微。黒ずくめの集団には死人も出たが、その大半を生きたまま捕縛することに成功した。
そして、フィートバルは黒ずくめのリーダーと対面した。縛りあげられ、身動きの取れない状態にされていた。
頭にかぶった黒いフードを下ろし、顔に巻いた黒い布を取り去る。
すると現れたのは金の髪に緑の瞳。整った顔立ちをした壮年の男性だった。顔は知らない。でもこの顔立ちと佇まい間違いない。貴族だ。
「おのれ! おのれ! おのれ! よくも我が同志を殺してくれたな! 魔族に与するとは見下げ果てた奴め! この報いは必ず受けさせてやる!」
狂ったようにわめき続ける男をフィートバルは冷たい目で見下した。
勇者の伝説を歪んだ形で受け取り、中立を貫いた魔族領の魔族を過剰に憎む人間は、そう珍しくない。
この男もそうした者なのだろう。どんな地位の者かはわからない。仕返しするつもりのようだが、その機会は無いだろう。このまま連行され、しかるべき裁きを受けることになる。
どれほど温情がかけられようと、爵位のはく奪は避けられない。魔族との融和を図る王の意思に逆らったのだ。死罪となってもおかしくはなかった。
「魔族に呪いあれ! 与するものに災いあれ! 勇者の偉業に栄光あれ!」
ひときわ大きな声で叫ぶと、男は急に静かになった。
「なんだ……?」
フィートバルは戸惑いつつも、男の首筋に手を当てた。脈が無い。呼吸も止まっている。男は死んでいた。
男は傷を負っていたが、致命傷には程遠いものだったし、止血も施してあった。縛り上げられてはいたが、それだけで死ぬことなどありえないはずだった。
「フィートバル!」
当たりを冷気が舞い、涼やかな声が響いた。いつの間にかクオリーオがすぐ近くに来ていた。
「クオリーオ! どうして馬車から出てきたんだ!? 早く戻るんだ!」
「馬車の中にいても意味がありません」
「どういうことだ?」
「魔獣が来ます」
クオリーオは黒ずくめのリーダーの死体をじっと見ている。注視すると、フィートバルはそこに奇妙な魔力を感じた。
剣を振るい、男の服を切り裂いた。顕になった胸には禍々しい魔法陣が刻まれていた。
初めて見るものだが、フィートバルも魔法の使い手だ。詳細はわからなくても、どんなものかだけはわかった。
「魔獣の召喚魔法陣……それも死をトリガーにして、魂を贄に起動してやがる……! こいつそこまで狂っていたのか!?」
その時、大きな音が響いた。森を震わすような暴力的な音。それがあまりに大きすぎて、それが吠え声であるとわかった者はほとんどいなかった。
フィートバルはその吠え声を知っていた。
「護衛騎士団、下がれ! 馬車を中心に防御陣形! 強力な魔獣が来る! ブリジーア! 全周警戒!」
叫びつつ、魔法で剣に炎を纏わせる。今度は魔力を温存する余裕はなかった。
護衛の騎士たちが驚きながらも整然と動く中、フィートバルは異質な気配を感じた。
「『猛火の円陣』!」
勘に任せて広範囲の炎の斬撃を放つ。木々が倒され燃え上がる。その炎に照らされ、不気味が影が浮かび上がった。
身の丈は4メートルほど。全体の印象としては、巨大な猿だ。背の高さより横幅の広さがその魔獣を大きく見せる。
肩幅が広く、その肩から突き出た腕は異様に太く長い。異様に節くれだった指。握られた拳はまるで岩の塊のようだった。
何より異様なのは顔だった。鼻から上は猿を思わせる形だ。しかし鼻から下と口は前に大きく張り出しており、禍々しい紅い鱗で覆われている。まるで巨大の猿の顔に、無理矢理ドラゴンの口を張り付けたかのような異相だった。
その魔獣の名は、魔猿龍。
顔の形から龍に分類されるが、その本質は誰も知らない。太古の錬金術師の造ったキメラとも言われている。
特殊な能力は持たない。その武器は腕力だけであり、攻撃もまた、殴るだけの単純なものだ。
だが、その殴るのが強力だ。異常な腕力から繰り出されるその打撃は、堅固な城壁すらたやすく打ち破ると言われている。
次に厄介なのは俊敏性だ。その巨体に見合わない素早い動きをする。特にこうした森の中では、木々を利用し自在に駆け巡り、予想外の方向から攻撃を加えてくる。
冒険者ギルドは、森の中でこの魔猿龍と遭遇することは、平地でレッドドラゴンに襲われるのと同等の危険だと評価している。
姿が見えたのはわずかな時間だった。音すら立てず、魔猿龍は森の中に消えた。
「どういうことなの、フィートバル!?」
「黒ずくめのバカが、自分の命と引き換えに魔猿龍を召喚しやがった!」
「くっ! なんてことなの!」
ブリジーアの顔が珍しく焦りに歪む。
フィートバルとブリジーアははこの魔獣と戦ったことがある。二人だけで戦ったわけではない。複数の冒険者パーティーと組んでの討伐だった。事前に計画を立て罠を張り、森の外に引きずり出して倒したのだ。本来、単独の冒険者パーティーが挑める魔獣ではないのだ。
フィートバルはこの難局を打開する術はないか考えをめぐらす。
馬車の前方には未だバリケードがある。魔法で破壊するのは簡単だ。だが森を抜けるにはまだまだ距離がある。馬車をいくら速く走らせたところで確実に補足される。
戦力は魔法が使えるフィートバルとブリジーア。
護衛の騎士たちは優秀だが、魔法はほとんど使えない。剣の間合いは魔猿龍の拳が届く距離だ。あの魔獣相手では、戦力としては心もとない。
「とりあえず森を切り開いて視界の確保だ! 俺は右、ブリジーアは左を頼む!」
「承知しましたわ!」
馬車の進行方向に向かって右側の木々をフィートバルの炎が焼き、左側をブリジーアの風の刃が切り裂いた。
馬車の周囲、半径20メートルほどの木々が焼かれ、あるいは切り倒された。月明かりのおかげもあり、視界が開けた。
魔猿龍は森の木々にまぎれて接近してくる。あの魔獣の素早さを考えれば気休めにしかならないが、それでも少しはマシになったはずだった。
その時。ぞっとする気配を感じた。
「『烈風の刃』!」
馬車の上にいるブリジーアが先に気づき、魔法を放つ。
無数の風の刃が迫り来る魔猿龍に襲いかかる。だが魔猿龍は素早い動きでその大半を躱してしまう。何発かは当たったが、強固な筋肉に阻まれ大したダメージにならない。
それでも牽制にはなった。魔猿龍の狙いはそれたようで、狙われた護衛騎士はその凶暴な拳の直撃を避けられた。
「ぐあっ!?」
かすめただけで、騎士が構えていた盾は砕かれ、盾を握っていた腕は折られた。だが、命があるだけ幸運だ。あの拳の直撃を喰らえば、まともな死体も残らなかっただろう。
このまま守りを固めても徐々に戦力を削られるだけだ。だが逃げ出すことも難しい。
頭を悩ませるが、妙案は浮かびそうになかった。その時だ。
「フィートバル、作戦があります」
後ろから涼やかな声が響いた。クオリーオだ。あの魔獣相手では馬車など紙屑なみたいなものだ。むしろとっさに動けない分、危険なくらいだった。だから彼女はひとまず、フィートバルの近くにいてもらったのだ。
黒ずくめ相手にクオリーオを戦わせるわけにはいかなかった。たとえ正当防衛だとしても、魔族の令嬢が人間の王国で人間を害したとなれば、より厄介な問題を呼び込むことになる。
だが、魔獣相手なら問題ない。クオリーオは優秀な魔法の使い手だ。この上ない戦力だ。
「聞かせてくれ、どんな作戦だ?」
「わたしの氷の魔法なら、少しくらいは足止めできます。その間にみなさんは、馬車で走って距離を稼いでください」
「なるほど、それで次はどうするんだ?」
「作戦はそれだけです」
「それだけ? お前はどうするんだ?」
「なんとかなります」
「なんとかなるわけないだろう!?」
周囲を警戒しなくてはならない。油断していい状況ではない。それでもクオリーオの顔を見ずにはいられなかった。
冗談を言っている様子はなかった。恐れも悲しみ見えなかった。彼女はただ、全てを諦めたような顔をしていたのだ。
「フィートバル。わたしは、何かの役に立って死ぬために、この王国に来たのです。だからここで、役に立たせてください」
フィートバルは彼女と『白い結婚』の契約を結んだ日のことを思い出した。
平民として暮らしてきたことを明かしたと、彼女は言ったのだ。
「わたしのようなまがい物の貴族は、やはり殺されてしまうのでしょうか?」
あの時と同じ顔だ。死ぬことを恐れも悲しみもせず、ただ諦めた顔。
本当に死ぬつもりだ。死ぬつもりで、あんな作戦とも言えない申し出をしてきたのだ。
それがわかった瞬間、フィートバルは叫んだ。
「ふっざけんな!」
怒声と共に、フィートバルは炎の斬撃を放った。切り開かれた森の先、木々の隙間に迫っていた魔猿龍が、その火を避けるように下がった。
魔猿龍は炎に対して特別な耐性を持たない。本能的に炎を恐れる。だがそれも気休めに過ぎない。牽制程度の魔法では魔猿龍にまともなダメージを与えられない。威力のある斬撃の届く間合いでは、あの強力な拳の餌食になる。
その脅威を前にしても、フィートバルの怒りは収まらなかった。
「お前がどんな覚悟を決めてこの王国に来たかは知らない! だが今、お前は俺の嫁だ! 男ってのはな、命を懸けて嫁を守るものなんだよ!
あんな魔獣なんて、俺が絶対倒してやる! 俺の嫁でいる限り死ねるだなんて思うなよ!
『白い結婚』が終わった時! 笑って結婚破棄してやる! 覚悟しろよな!」
あまりにめちゃくちゃなことを言われて、クオリーオは耳のヒレを拡げ、目をパチクリさせた。
そんなとき、頭上から声をかける者がいた。馬車の屋根の上に乗っているブリジーアだ。
「よく言ったわねフィートバル! 夫は嫁を守るものよ! そしてクオリーオ! 嫁は夫を支えるものなの! だから協力なさい!」
この苦境の中にありながら、ブリジーアは笑顔を見せた。その笑顔には希望が感じられた。
「いい作戦があるのよ。あなたが考えたものより、ずっといい作戦がね!」
そう言って、ぱちりとウインクするのだった。
クオリーオは馬車の屋根の上にいた。ブリジーアの乗る馬車とは少し離れた、護衛の騎士たちが乗っきた馬車の上だ。
そこで、ただ静かに、目を閉じて立っていた。
ふと、目を開き、手をかざした。その視線の先から重い音がした。地面がびりびりと震えた。
彼女の視線の先には魔猿龍がいた。大地に臥していた。その近くの地面は月光を跳ね返し輝いている。
馬車に襲い掛かろうとした魔猿龍が、クオリーオの『氷結の鏡面』で転倒させられたのだ。
魔族は魔力に敏感だ。魔力を持った魔獣の動きを、並の人間よりずっと早く感知できたのだ。
だがこの程度のことでは魔猿龍はほとんどダメージを追わない。すぐさま立ち上がる。再び転倒。絶妙なタイミングで張られた『氷結の鏡面』が、またしても魔猿龍を足を奪ったのだ。
「『鋭き氷雨』」
転倒した魔猿龍に、氷の針が降り注ぐ。それは魔猿龍の肉体に刺さる威力は無かったが、触れたそばから凍っていく。魔猿龍は地面を転がりながら氷の雨の範囲から逃れようとする。しかしその先には新たな魔法が待っていた。
「『氷の楔』」
巨大な氷の円錐が、そのとがった先端を向けて魔猿龍めがけて落下してくる。しかもその円錐は回転していた。まともに喰らえば頑強な魔猿龍であろうとも傷を負うことになるだろう。
魔猿龍は一声叫ぶと、拳の一振りで氷の円錐を砕いた。その勢いで転がり、そのまま森の中へと逃れた。
魔族の令嬢クオリーオ。卓越した魔法の使い手だ。彼女が「少しくらいは足止めできる」と言ったのは嘘ではなかった。
だが、それでも。魔猿龍は容易に倒せるような魔獣ではなかった。
クオリーオは魔猿龍の接近を察知して『氷結の鏡面』を仕掛けるべく魔力を練る。だが、それは無意味となった。
魔猿龍は跳んだ。低い軌道の鋭いジャンプだ。まっすぐにクオリーオに向けて向かってくる。次に着地するのはクオリーオのすぐ近くになるだろう。『氷結の鏡面』で転倒させたところで、接近を許せば勝ち目はない。
「『氷の槍』」
無数の氷の槍を放つ。だが、その多くが前に構えた岩のような拳に弾かれる。身体のあちこちに何本かは刺さるが、致命傷には程遠い。ダメージを顧みない魔猿龍の突進は、クオリーオほどの魔法の使い手であっても止めることは不可能だ。
だが、彼女は一人で戦っているわけではなかった。
「『暴風の抱擁』!」
ブリジーアが拘束魔法を放つ。強力な代わりに発動に時間がかかり、素早い相手をとらえることはできない魔法。だが、囮となったクオリーオに向かってくる魔猿龍を、予め準備した上でとらえるのは、そう難しいことではなかった。
魔猿龍の動きがようやく止まる。だが、ブリジーアの力をもってしても、動きを止めていられるのは数秒が限界だ。魔猿龍の異常な腕力は、この拘束魔法でも縛り続けることはできない。
だが、それで十分だった。とどめを刺すのは彼女の役目ではないのだ。
「『終の紅蓮!』」
魔猿龍に向かいながら、フィートバルが魔法を発動する。彼の手にするロングソードには魔法の伝導をよくする『魔導石』がいくつも埋め込まれている。それを全て暴走させ、燃焼へと導いた。
その剣はもはや「炎を纏った剣」ではなかった。「魔力を糧に燃え続ける炎」と化したのだ。
動けない魔猿龍に対し、その炎を叩き込む。
だが、魔猿龍は動いた。
本来ならあと数秒は拘束するはずの魔法を、魔猿龍はその腕力強引に断ち切る。腕だけは自由になり、剣を迎え撃つべく拳を突き出す。いかな剛剣であろうとも、その拳の固さと速度を突破することはできないだろう。。
だが、フィートバルの振るうそれは既に剣ではない。「魔力を糧に燃え続ける炎」なのだ。それは炎に対する特別な耐性を持たない魔獣にとって致命的だった。魔力に満ちた魔獣の身体は、その炎にとっては燃料でしかないのだ。
あらゆる敵を砕いてきた剛腕は、あっという間に燃え尽きた。フィートバルは炎が拳に「着火」したのを確認すと、素早く剣から手を離した。これは炎の魔法の暴走だ。魔法を放ったものですら巻き込まれる危険があるのだ。
魔猿龍は悲鳴を上げることすらできなかった。そんな暇もなく炎はその身体を蹂躙し尽くした。もがこうとするが、『暴風の抱擁』に押さえつけられ動けない。ブリージアは最後まで逃すつもりはなかった。『終の紅蓮』は延焼をさせてはならない危険な魔法なのだ。
だがそんな魔猿龍の苦しみもわずかな間だった。炎はわずかな時間で徹底的にその身体を焼き尽くした。
灰だけを残し、魔猿龍はこの世から消え去った。
全てを見届け、フィートバルはようやく息を吐いた。
「この魔法だけは使いたくなかった……」
フィートバルはこの魔法を使った後、いつもこうつぶやく。
この魔法を使うと、確実に剣を失うことになる。おまけに魔力のほとんどすべてを失う。実質的に戦闘の継続が不可能となる。
そして魔獣の身体を完全に焼き尽くしてしまうため、魔獣の素材を得ることができない。
ついでに言えば魔導石の仕込まれた剣は、男爵子息であるフィートバルにとって安いものではない。
この魔法を『使わされた』時点で、大抵のクエストは赤字が確定してしまう。
きわめて強力ではあるが、いろいろな意味で使いたくない奥の手だったのだ。