1.白い結婚
「それではここに、この『白い結婚』が成立し、お二人が夫婦となる事を認めます」
司祭の声が厳かに響いた。
ここはハイフェビル男爵家のパーティー用のホール。
その一角に祭壇が設けられている。
参列者は数人しかいない、貴族の結婚式としてはあまりに寂しいありさまだった。
祭壇の上には『白い結婚』の契約書が置かれている。
結婚にまつわる取り決めが書かれており、最下部には新郎と新婦の名が記されている。
名前の下には赤い血によって拇印が押されている。
なぜか新郎のものしか見えなかった。新婦の拇印は見えなかった。
新郎の名は、フィートバル・ハイフェビル男爵子息。
燃えるような紅い髪に、同じ色の太い眉。凛としたその瞳も紅。高い背に引き締まったたくましい身体つき。背筋を伸ばした何気ない立ち姿は、隙というものが感じられなかった。貴族の子息でありながら、戦場を何度も潜り抜けた熟練の戦士を思わせる風格だった。
彼はここハイフェビル男爵家の三男である。
新婦の名は、クオリーオ・マーズオーグ男爵令嬢。
美しくきらめく髪は、硬質な銀の輝きを放っている。大粒の瞳は湖を思わせる深い蒼。スッキリした鼻梁にやや小さ目の薄い唇。身にまとうのは黒のドレス。そこから覗く肌は、雪のように白い。背は低めで、フィートバルとの身長差は頭一つ分ほどもある。顔立ちもどこか幼さが残っている。
今挙げた要素だけなら、花開く前の可憐な令嬢と言ったところだろう。
だが、そうではなかった。
その白い肌に見える細かな模様。楕円を形作る規則的な並びを形作るのは、魚にあるような鱗だった。耳のあるべき場所には、手のひらほどの大きさの魚のヒレだった。
その身にまとうのは黒のドレスだけではない。冷気だ。魔力を伴うしんとした冷気がこの令嬢の身体を包んでいるのだ。
クオリーオ・マーズオーグは、人間ではなかった。魔族の貴族令嬢なのである。
彼女は血の色は魔族でも珍しい白。だから契約書に拇印が見えなかったのだ。契約書をよく見れば、彼女の名前の下に薄く盛り上がった白い拇印が見えることだろう。
人間と魔族の婚姻。人間の神に認められるものではなく、魔族の神も許しはしない。だから教会では行うことができず、こうして男爵家でひっそりと執り行われている。
参席する人々が式を執り行う司祭に注目するなか、彼女だけは誰のことも見ていなかった。『白い結婚』の契約書だけをじっと見ていた。
ただ、じっと、見ていた。
かつて、世界に魔王が現れた。
強大な魔王のその力の前に人類絶滅の危機に際した。だが勇者が現れ、これを討ち果たした。
その戦いの中で、人間との完全中立を主張する魔族の一派があった。彼らは魔王の命令に従わず、人間と敵対しない姿勢を最後まで貫いた。
魔王を打ち倒したあと、勇者は中立派の魔族の住む地に赴いた。
そして、相互不可侵の条約を結んだ。
勇者がそうした理由は不明だ。勇者が戦いに疲れたからとも、当時の人間たちが疲弊していたため、これ以上の戦争継続は不可能だったからとも言われている。
ともあれ、この王国の一角には魔族が治める『魔族領』が存在した。
人間の行き来は王国によって禁じられていた。不心得な者が忍び込むことはあったが、そうした者の多くは帰ってこなかった。魔族領から魔族が出て来ることもあったが、その多くは人間の冒険者たちによって打ち倒された。
そうした例外を除けば、王国と魔族領の間に交流と呼べるものはなかった。
お互いに干渉せず、ただ在る。王国と魔族領はそんな関係だった。
魔王が討伐されてから100年が過ぎた。
人類はかつての繁栄を取り戻した。特に魔法技術は大きな躍進を遂げた。
その中でも魔道具は大きな進歩を遂げ、生活の様々な場面で活躍することとなった。照明や炊事洗濯など、生活に役立つ魔道具がいくつも作られた。
魔道具に生産には様々な希少鉱石が必要となる。その採掘量に対して需要が上回るようになってきた。
希少鉱石を求め、多くの魔法使いたちが各地を調査した。その結果、魔族の治める領地がそれらの鉱石が多く埋蔵していることがわかった。そもそも魔族は魔力に大きく依存する種族であり、最初から魔力を持った希少鉱石がある地を選んだというのが正しいようだった。
一方、魔族の方も限界を迎えつつあった。限られた領土で、もともと暮らしていた魔族に加え、各地に散っていた魔族が安住の地を求めてやってくる。魔族領は広大だったが、それでも増え続ける魔族を支えられなくなってきた。
かくして、100年間続いた不可侵は、双方の経済的な事情により破られることとなった。
だが、国の事情としては必要ではあっても、人間と魔族の感情はそうはいかない。
人間側としては、かつて世界を滅ぼしかけた魔族を受け入れることには抵抗があった。
魔族側としても、かつて魔王を打ち滅ぼし、自らの一族を全滅手前まで追いやった上、今なお発展を続ける人間たちは脅威だった。
相反ずる国民感情をうかがいながら、まずは小さな貿易から徐々に国交を回復することが模索されていた。だが双方の融和は遅々として進まなかった。
そんな中、人間の国王が奇策を提案した。人間と魔族を婚姻させることで融和を進めるという案だ。。
人間と魔族が婚姻して家族を作れば、もう争いは終わり、二つの種族の融和が可能になったと世に示せることになる。
メリットは大きいが、しかし失敗した際のリスクもまた大きい。結婚生活がうまく行かなかった場合、やはり両者は相容れないものという印象を強め、融和の道は険しいものとなる。双方に禍根を残すことになるだろう。
そこで『白い結婚』を用いることにした。
本来、神に誓った結婚というものは無かったことにはできない。例外は死別ぐらいのものだ。だが貴族は複雑な家の事情により、離婚を前提としたかりそめの婚姻関係を結ばねばならないことがある。
そのための抜け道。定められた年数だけの、子を成さないことを前提とした婚姻契約。それが『白い結婚』と呼ばれるものだ。
離婚を前提とすれば国民の反発も少ない。結婚関係がうまくいけば人間と魔族の融和につながる。失敗したとしても、一定年数で離婚するのなら損害を最小限にできる。『白い結婚』は都合のいいものだった。
普通ならこんな奇策は採用されなかっただろう。だが人間も魔族も実質的に手詰まりだった。100年かけて作り上げられた両者の溝は、それほどまでに深かったのである。
そして、人間と魔族を『白い結婚』で結びつける計画を進めることとなった。
次に問題になったのは誰に『白い結婚』をさせるか、ということだった。
王族を選ぶわけにはいかなかった。成功すれば効果は大きいが、失敗した際は両者の亀裂は決定的なものとなるだろう。家臣たちのほとんどが猛反対した。
家名が傷つくのを恐れ、大貴族たちも手を上げようとはしなかった。
かと言って平民を使うこともできない。王国も魔族領も封建制度だ。新しいことを行うにあたって、平民を旗頭にするわけにはいかなかった。
最初は試しと言うことで、、貴族の中でも低い爵位である男爵の、それも家督を継ぐことのない子息と令嬢を選ぶこととなった。
そして選ばれたのが、人間である男爵家三男フィートバル・ハイフェビルと、魔族の男爵家三女クオリーオ・マーズオーグだったのである。
「こちらが貴女の部屋です」
『白い結婚』の後。新郎・フィートバル・ハイフェビル男爵子息が初めにしたのは、新婦を部屋に案内することだった。通常の結婚なら式の後は披露宴でも行うものだが、今回の『白い結婚』にそんなものはなかった。
同席したのは『白い結婚』の契約成立のために王宮から派遣された司祭と文官数名。それにフィートバルの両親ぐらいだった。
魔族側はと言えば、クオリーオ・マーズオーグ男爵令嬢ただ一人だ。親族どころか、護衛の騎士もお付きのメイドすらいなかった。
形だけの契約が済んだら、すぐに部屋へ案内することになった。
あまりに事務的で、果たしてこれが結婚式と言えるのだろうか。フィートバルは思わずため息をついてしまいそうになった。
魔族にとって人間の国は敵地だ。この事務的な結婚契約。それで案内されてきたのは、貴族としては下位である男爵家の、ありふれた普通の部屋。
こんな扱いでは、さぞや気落ちしていることだろう。フィートバルは暗い気持ちで、後ろで控える魔族の令嬢の様子をうかがった。
魔族の令嬢・クオリーオは冷気を纏い、しずしずと部屋の中へと進んだ。その顔に表情は無く、その姿は氷の彫像を思わせた。そして落ち着いた態度で中をじっくりと眺めた。
「本当にこの部屋がわたしの部屋なのでしょうか?」
「ええ、その通りです」
やはりお気に召さなかったのだろうか。なにか嫌味の一つも言われることを覚悟した。
しかし同時に好奇心も湧いた。魔族の令嬢は、人間の男爵が用意した部屋に対して、どんな不満を述べてくるのだろうか。
クオリーオは部屋の中をしずしずと歩きながらフィートバルに感想を述べた。
「ずいぶんとふかふかの絨毯ですね」
「ええ、まあ。貴族の部屋の絨毯としては一般的な品ですが……」
クオリーオの歩みはまるで足から伝わる感触を楽しんでいるかのようだった。
貴族の家にあるものとしてさほど珍しくない。むしろ低級な部類に入る絨毯だ。彼女の様子は、まるでそれを初めて味わうかのようだった。あるいは魔族の邸宅は、絨毯など敷かず石の床なのかもしれない。
クオリーオは次に化粧台に向かうと、設えられた鏡を物珍し気に鏡を覗き込んだ。
「大きな鏡ですね。高級そうです」
「ええ、まあ。それなりの品ではありますが……」
令嬢を迎えるということで、化粧台は新品を用意した。そうは言っても男爵家が用意できるものである。贅を凝らした高級品ではなく、それなりの装飾が施された一般的なものだ。あまり自慢できる品ではない。
魔族領は王国内の所領の中では大きい方だ。それでも外との交易のない限られた土地である。もしかしたら鏡などは不足していて、こういう鏡は珍しいのだろうか。
先ほどまでのしずしずとした歩みはどこへやら。スキップでもしそうな軽い足取りでクオリーオはベッドに向かった。
何をするのかと思っていると、彼女はベッドに飛び乗るように座った。
「わ! すごく柔らかいベッドです! 身体がどこまで沈んでいきそう! すごい! ふわふわ!」
座るだけでは満足できなかったのか。クオリーオはベッドに大の字になって寝ころぶと、全身でその感触を楽しんだ。
その表情は無邪気な子供のそれだった。
氷を纏った魔族の令嬢のイメージとは似つかわしくない、楽し気な少女の姿だった。
フィートバルは反応に困り、しばらく彼女の奇態を眺めた。
やがてクオリーオはハッとなり、ベッドに座り直して慌てて姿勢を正す。
「と、とても上等な部屋をご用意いただき、満足していますわ」
「満足していただけて光栄です。……クオリーオ嬢、なぜ目をそらすのですか?」
じっと見るフィートバルの視線を避けるように、クオリーオは顔を背け、視線を泳がせている。まるでいたずらを見つかった子供のような仕草だった。
「あの、クオリーオ嬢?」
フィートバルが怪訝な顔をして問いかけると、クオリーオは突然動いた。
ベッドを離れると、絨毯の上に跪くと頭を下げた。実に見事な土下座だった。
「すみません! 実はわたしは、貴族であって貴族ではないんです!」
クオリーオは絨毯に頭をこすりつけるようにして、そんなよくわからないことを言った。
「と、とにかく頭を上げてください」
どうにかなだめてクオリーオをベッドに座らせた。
事情を聞くには近くにいた方がいいだろうと、フィートバルはその隣に座った。
いくら婚姻関係を結んだからと言って、断りもなくベッドの上で隣に座ったりしたら、普通の令嬢なら小言の一つも出るところだろう。だがクオリーオは気にした様子もなかった。『貴族であって貴族でない』。どうやらその辺に理由がありそうだった。
じっと待っていると、やがてぽつりぽつりと、クオリーオは事情を話し始めた。
人間が白い色を清浄で美しいものと感じるように、魔族は黒という色を気高く尊いものとして感じる。
魔族の世界においては、黒は幸運の象徴であり、白は不運の象徴として扱われた。
魔族のマーズオーグ男爵家において、クオリーオは氷の属性を持って生まれた。その属性を表すかのように、その肌どころか血まで白かった。
マーズオーグ家当主はこれを不吉なものとして、家から放逐することを決めた。
そしてクオリーオは平民である乳母の家に預けられることとなった。
クオリーオは乳母に平民として育てられた。
平民の間でも白は縁起が良くないとは言われていたが、貴族ほど忌避してはいなかった。
クオリーオは特別虐げられることもなく、ごく普通の子供として暮らしていた。
そんなある日のことだった。突然、マーズオーグ男爵家から呼び出された。そしてクオリーオは、『白い結婚』の花嫁として抜擢されたのだった。
「わたしはずっと、平民として暮らしていたのです。だから、貴族としての礼儀作法もなにも知らないんです……」
「それなら白を切ればよかったじゃないですか。別にあのくらいなら、ごまかしようはありましたよ?」
フィートバルは魔族の令嬢について何も知らない。ちょっとベッドではしゃいだぐらいなら、「魔族とはそういうもの」と押し切られたら、それ以上追求することはなかっただろう。
クオリーオは首を振った。
「いろいろなことがありすぎて、気が抜けてました。そもそも、貴族の真似事なんて、ずっとできるはずがないんです。だからもう、観念しました」
クオリーオはむしろさっぱりした様子だった。ずいぶんと潔かった。
『白い結婚』で見せた氷の像のように静かな雰囲気は失せていた。どうやらこれが、彼女の「素」であるらしい。
「わたしのようなまがい物の貴族は、やはり殺されてしまうのでしょうか?」
突然物騒なことを言われて、フィートバルは驚きに目をしばたたいた。
クオリーオに冗談を言っている様子はなかった。恐れも悲しみ見えなかった。彼女はただ、全てを諦めたような顔をしていたのだ。
「なぜ殺されるだなんて思うんですか?」
「人間は魔族を憎み、恐れていると聞きました」
魔王が君臨していた100年前。人間と魔族は敵対していた。殺し合うことが日常だった。当時、魔族は憎むべき敵だった。今でもそう思っている人間は少なくない。
フィートバルは首を左右に振った。そんなこと、彼にとっては遠い昔話に過ぎなかった。
「何をバカなことを言っているんですか。私だって……」
そこまで言ったところで、フィートバルは自分がひどく窮屈だと感じた。
頭をくしゃくしゃとかいて髪型を乱し、首のタイを緩めボタンを一つ外した。それだけで、貴族子息らしからぬラフな見た目になった。そしてそれが妙に似合って、自然に見えた。
それが彼の「素」のようだった。見かけだけでなく、貴族の言葉遣いもやめることにした。
「『俺』だって、そんなに上等な貴族じゃない。男爵家の三男坊。家督は優秀な兄が継ぐことになっているし、全然期待されていない。今まで好き勝手にやってきた。だからこの『白い結婚』の花婿に選ばれたんだ。境遇は君と大して変わらないよ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ、そうだとも。むしろ君のような女の子が来てくれて助かった。正直、貴族の礼儀作法と言うのは肩が凝って困るからな」
フィートバルはぐっと伸びをした。
そんな様子を見て、クオリーオはかすかに微笑んだ。
「まあこれから、よろしく頼む」
「はい、お願いします」
フィートバルが手を差し出すと、クオリーオが握り返した。
貴族の結婚には似つかわしくない、それは友人同士のするような握手だった。
「……思ったより冷たいな」
「ああ、すみません」
「いや、大丈夫だ」
クオリーオは慌てて手を離した。
クオリーオは氷のように冷たかった。凍傷になるほどの冷たさではないが、ずっと握っているのはつらそうだ。
フィートバルは内心、これが『白い結婚』でよかったと安堵していた。もし普通の結婚だったなら大変だ。相当強力な氷耐性の魔道具でも準備しなければならなかっただろう。
「ああ、そうだフィートバル様……」
「俺のことはフィートバルと呼んでくれ。俺も君のことを呼び捨てにする」
「はい、フィートバル。あの、お願いがあるんです!」
「なんだい、クオリーオ?」
「魔族ではお見合いで互いの魔法を見せ合うという風習があるんです。お近づきのしるしに、フィートバルの魔法を見せてほしいんです」
「魔族のお見合いの風習か。それは面白そうだな」
フィートバルはニヤリと笑い、快諾するのだった。