夏の見え方
僕は夏になると11時頃に起きる。学生の特権だ。
昨日の出来事を消化するように睡眠しようと思っていた僕だが、そうはできないらしい。
『RINE:先輩から着信』
僕は寝ぼけ眼でコールボタンをタップすると、時刻は午前9時だった。
「……もしもし海斗か? こんな時間にどうした」
『ゴメンもしかして寝てた?』
スマホから少し大人びた女性の声が聞こえてきたので、僕はベッドから跳ね上がった。
幼馴染を除いて、僕の連絡先には女性の名前は刻まれていない。
つまり、この声の持ち主は、昨日連絡を交換した先輩ということになる。
「いえ、今起きたところです」
ため口を聞いたことを後悔するほどまでに僕の頭は一瞬で軌道修正する。
『そっか良かったー!』
大喜びしていそうな声音だった。
一体何事かと思い僕は尋ねると、
『助けてくれたお礼はちゃんとしたいなと思って』
「お礼、ですか?」
「そうお礼! 命の恩人なわけだからね。それにほら、友達だし」
手汗がスマホに纏まりつくので、僕は左手にそれを持ちかえると、シャツで汗を拭う。
「友達なら、なおさらお礼なんていいですよ」
『もう、君は鈍いな。そういう意味じゃないよ。女の子に全て言わせないでね』
落胆してそうで嬉しそうな声音が、僕の鼓動を早くした。
まるで陸上競技でもしているかのような鼓動の速度のせいで、全身が破裂しそうだ。
そういう意味じゃないって、そういう意味だよな。
意味不明なことを心の中で述べつつ、僕は冷静になるために布団の上に正座をすると、先輩に聞こえないようにスマホから遠い場所で深呼吸をした。
「わ、分かりました。い、行きます」
間違えたら僕と先輩の仲は終焉する。なので僕は一番安パイな回答を選んだ。
そんな僕を見透かすように、先輩の吐息が聞こえてくる。
「君、嘘が下手だよね。本音が聞きたい」
「……僕はただ、正解を選びたくて」
正直にそう言うと、先輩の安堵した吐息が聞こえてきて、耳がかゆくなった。
「私は気になっているって言ったでしょ! ありのままの後輩君がすきなのだよ」
耳が蕩ける。いや心が蕩ける。
しかし、と僕は自分の心に鞭を打つ。
「実は、僕が気にしていたことは、僕の変態性です……あっ、変態と言っても、そうではなく、僕は一般のような恋人にはなれないから、防波堤の上をあるいてるくらいですし」
防波堤の上を歩いているような人間だ。僕とかわいいい先輩のような人間が合うわけがない。
それに、僕はこれからも変わったことを味わいたい人間だ。
例えば恋人と公園で違った景色を眺めたいし、恋人との夏祭り、その雰囲気自体を味わいたい。
先輩が崖から飛び込む変人だとしても、僕の感性を理解してくれるとは限らない。
「じゃあ、私はもっとヤバイことになるじゃん。だって崖からスクール水着でジャンプしたんだよ。自信をもって、この可愛い先輩の気になっている人なんだから」
僕の悲観的な推測を全て消す名探偵先輩は、矢継ぎ早に続けた。
「今ね、後輩君のために色々と用意しているから少し手が離せなくて。だから続きはwebでどうかな」
「答えを知りに行きます」
「後輩への挑戦状なのです」
先輩の言葉を信じるように、先輩からのRINEの着信を自分から切った。
すると連絡欄に先輩からのメッセージが届く。
『汐住宅群のこの住所に来てくれる?』
『分かりました! 今すぐ行きます』
『(パンダマーク)』
そのスタンプを見た瞬間、ベッドから跳ね起きる。
よくわからない、自分自身でもよくわからない、でもその不確実性が心地いい。
僕はクローゼットから、自分が一番気に入っている私服をとりだした。
☆
先輩の家は、新築だった。
駐車できるスペースには車がなく、裏には芝生が広がっている。
街中では超高級物件かも知れないが、この当たりではそう珍しくない普通の家だ。
僕は緊張を抑えるために深呼吸をしてから、扉の前に立つ。
なんてことのない普通のインターホンを押すことが、こんなにも難易度が高いことなんて思わなかった。
もう一度深呼吸をしてから、体を左右に捻り、そしてもう一度深呼吸をする。
それを2セット行うと、ようやく僕の脳はインターホンを押す気になれた。
右手をインターホンに近づけて、ボタンの感触も分からないほどに高速なタッチをする。
しかしそれでも反応はしてくれたらしく、独特のあの鐘の音が僕の体に響いた。
「へい、らっしゃい!」
「どこのすし屋ですか……?」
「先輩寿司屋!? という冗談は置いておいて、暑いよね。今開けるね」
スタスタスタと廊下を駆ける音がこちらまで聞こえてきくる。
そして次にガチャという開錠音が聞こえ、僕の体からアドレナリンが大放出されるのを感じた。
「どうぞ~」
と言われるがままに家の中に入ると、女子から発せられる、僕の家ではありえないよ
うな、洗剤のような、柔軟剤のような、とにかく良い匂いが鼻を刺激した。
「これ、スリッパ!」
家では履かないそれを僕が履くと、普段どうやって生活しているか分かるように、なんてこともなく、先輩は大きな階段の横にある扉を開いた。
「後輩君。緊張してるね~?」
「逆に緊張しない方がおかしいですよ」
「そりゃそうか」
コクリと首を縦に振った先輩は、リビングを指差す。
「ソファーに座って待ってて? まだ時間かかるんだ~」
そう言ってどこかにリビングの奥に消えていった瞬間、今までの緊張感が一気になくなった。
まるで普通の家のように感じられ、僕は自然な流れで廊下を歩くことができた。
しかし、ソファーに座り周囲を見渡すと、随所に先輩を感じられるような写真だったり、女性物のなにかがあったりするので、やはり緊張の洪水が訪れた。
対面にあるソファーにある先輩の黒いホットパンツは、特に目の毒だ。
捲ってみたい気分になるが必死にそれを抑えて、周囲を見渡すことにした。
右方には大きなテレビ、左方は壁で、後方には暖炉風のストーブが設置してある。
そしてそのストーブの横から、なんだか香ばしい肉の匂いが漂ってくる。
今の今まで緊張で気づかなかったが、先輩は料理をしているようだ。
「できた!」
タイミングよく、先輩は大きな白いお皿を両手に持って登場した。
皿の上には大きな肉の塊が置いてある。それを目の前のテーブルの上に置くと、踵を返す。
それを何度か繰り返した後、手ぶらで戻ってきた先輩は、自慢げな表情で僕を見た。
「どう!? すごくない」
「誇張してません、本当にすごいです」
「でしょ~」
そうして先輩は僕の真横にゆっくりと腰を下ろすと、ミシッとした音が聞こえた。
先輩の姿を見ずとも感じるその圧に、僕は逃げるように目の前の大きな肉塊を見た。
西洋的な赤いソースがかかったそれからは、じゅわりとした良い脂が滴り落ちている。
その横の皿には先輩お手製であろうチョコレートがあった。
綺麗にむらなく作られている四角い生チョコは、まるで市販の物のように正確だ。
箱に入っていたら間違いなく、どこかのお菓子屋で売られていると錯覚するレベルだ。
「そんなにお腹が空いていたの? まるで獲物を狩る狼のように見つめているけど」
「ある意味そうかもしれません」
「そう? じゃあ遠慮なく食べて!」
というので、僕は目の前に置いてあるフォークで肉を素早くつつく。
「美味しい」
「料理をお母さんから教わっておいて良かったよ。まさか、使う機会が来るなんて思わなかったけど!」
「いや本当に美味しいです」
「まぁ、私の手作りってのもあるしね」
「じ、自分でいいますか」
思わず僕は先輩の自慢げな表情を見てしまった。
当然目と目が合うわけで、薄茶色の瞳の真ん中にある瞳孔は不思議そうに拡大していた。
「ふむ。だって私ってお世辞抜きにかわいいでしょ?」
良かった。どうやら僕が先輩を見るとドキドキしてしまう事は、悟られなかったらしい。
「そ、そうですね」
「え、なんか素直に返されると照れるよ!」
先輩は視線を料理に映すと、生チョコをフォークで素早くつつき、薄ピンク色の唇に持って行った。
もぐもぐと口を動かしながら、おそらく無意識だろうが何やら考え込むように視線をキョロキョロと左右にゆっくりと動かしている。
「本当に急な話だけど、恋って盲目っていうでしょ? やっぱり私は一目ぼれ的というか。急進派だともいうのかも。今朝の話の続き」
「……」
夢から現実に引き戻されたかのように、僕は食事から先輩へと興味を引き戻された。
クーラーのある部屋で体温なんか感じるはずもないのに、左方から人肌の熱波を感じる。
「な、なるほど」
「でも後輩君の言いたいことも分かって、私や君は、何か特別を求めて彷徨う亡霊みたいな存在でしょ。恋なんて特別でもなんでもないしって昨日の時点までは思ってた。でも、いざ近くにいるとそれは違くて。このこと自体が特別で。ううん違うの。きっと君がいるから特別なんだと思う」
頬を桜色に染めた先輩は、唇をきゅっと結んでこちらを見ていた。
先輩が発した言葉が表情により増幅され、とてもじゃないが僕は、僕は直視できなかった。
目線を正面に送り、そしてチラリと再び先輩を見る。
それを何回か繰り返してようやく冷静になることができたので、僕は小さく頷いた。
「僕も同じですよ。あえて言葉で表現するのなら、まさに先輩の発した言葉が適切で、灯台下暗し状態です」
僕がそう言うと、先輩の表情から緊張が解けた気がした。
先輩は胸をなでおろすようなジェスチャーをすると、再び薄茶色の瞳で僕を見る。
「とはいっても、今すぐ恋人になりたいとかは思っていなくて」
「な、なるほど……?」
「君はどう思ってる? 付き合うことを前提として、これから私との出来事に《《付き合ってくれる?》》」
なるほど、そういうことか。
クーラーが廃熱する音が聞こえてくる。他に音は聞こえない。
ただの夏の雑音だ。
ただその雑音をかき消すように、僕は頷いた。
「僕でいいのなら、いえ、僕は先輩と《《付き合いたい》》です。本音として」
すると先輩の艶やかな桜色の唇の両端は微かに上向いた。
そしてその上向きを維持したまま、先輩は窓を指差した。
窓の外には青空が見え、なんてことのない非日常的な積乱雲が見える。
「なんとなく言いたいことが分かりました」
「うん。食べ終わったらそれを体験しに行こうよ。丘の上にある公園で」
「それ、変人の先輩らしい選択ですね」
「後輩くんらしくもあるよ」
「たしかに!」
僕はそう言って先輩の料理を、味わいながらも急いで食べていく。
先輩はそんな僕を見て笑っていた。
☆
午後。
ミンミンゼミが暑さを嘆いている声が聞こえてくる。
僕と先輩は、大きな丘の上にある、青々とした樹木に囲まれている公園に来ていた。
入り口は駐車場になっており、そこから数十メートルの丘を迷路のように曲がりくねりながら登ると、展望台がある。
木でできたそれは、ところどころ茶色いペンキが剥げて居るし、高さ約5メートルほどの遊具のようなもので、それ自体に貴重性はない。
「展望台ですか?」
「ここの展望台からの眺めを見て見たかったの」
「別に普通ですよ」
すると先輩は、ゆっくりと指を交互に振った。
「登ったらわかるよ」
というので、僕らは展望台に上った。
3キロほど前方に広大な海と小さないくつかの島が見える。潮の匂いがここまで漂ってきそうな迫力はたしかに綺麗だと言える。
しかし、この近辺の人間からしたら普通の光景だ。
それは隣町に住んでいた先輩も同じはず。
「いつもの景色な気がします」
僕は遠くで波を建てている小さなボートを見つめながらそう言うと、先輩は自分のリュックを漁り始めた。
ガサゴソと物音をたてながら取り出したのは、空のラムネ瓶2つだ。
それを望遠鏡代わりに広大な海を見渡している。
「ラムネ瓶越しに見ると、ちょっとボケボケかも」
「でも味わい深いですね」
僕も先輩からもらったラムネ瓶を望遠鏡代わりにして、海を覗き込んだ。
すると先輩は僕のそれを取り上げる。
「後輩くん。普通だけど普通じゃない存在がいるでしょ? 特別な後輩くんがいるから、ここも特別じゃなくなるんだよ」
補足説明するようにそう言った先輩は、目の前の木の縁に寄りかかりながらラムネ瓶を除いていた。
僕はそんな先輩を意図的に右手隠し、次に右手をどける。
「たしかに見え方が全然違う」
「でしょ! さすが後輩くんだよ」
振り返った先輩は、右頬にかかった横上を耳にかけると、右手に持っていたらラムネ瓶を瞳に覆いかぶせて、こう言った。
「ラムネ瓶越しに見ると、さらに特別が特別に見えるね」