先輩を助ける
ミンミンゼミが暑さを倍増させるような鳴き声を響かせている夏の日。
それでも僕は夏休みに突入した涼しさを感じつつも、周囲を見渡しながら、防波堤の上を歩く。
雲一つない空に、松に囲まれた人影も一つもない砂浜、カモメだけが優雅に飛んでいる無人空間。
湿った空気が僕の鼻の中で絡みつき少し不快ではあるが、清々しい一日になりそうだった。
いつものように、何か変わった物事はないかと再び周囲をみると、崖の上に一人の女の子が見えた。
女の子はスクール水着を着ていて、ストレッチをしている最中だ。
左に体を傾けたり右に体を傾けたり、念入りに体をほぐしている。
僕はそんな彼女を見て、崖から飛び込むのだろうと確信した。
この場所は安全な飛び込みスポットとして有名で、崖の上から海までの高さは数メートル程度。
飛び込んだ先に岩もないので、某太平洋側の知る人ぞ知る隠れスポットとなっているからだ。
遠目からでも見える長い黒髪を前方に垂れ下げた彼女は、指先を海面に向け、体を前後に小刻みに動かしている。
そして心の準備が整ったのか、彼女は勢いよくジャンプした。
瞬間、いつも飛び込む人間と変わらない彼女への興味は無くなった。
僕にとって普通の光景ほど興味のないモノはない。普通であっても、異なる点に興味が湧くからだ。
再びホットプレートのように熱くなった防波堤の上を歩く。
僕にとっての日課の散歩だ。
こんな暑い日に散歩をしなくてもいいだろうと言う人もいるが、こんな暑い日だからこそ散歩をしなければならない。
僕にとっての高校の夏というのは、一生に一度だからだ。
海原と松の木を、交互に見ながら僕は更に進む。
すると、前方から『ぼとん』というダイブ成功音が聞こえ、本能的に崖の下を見た。
繰り返し崖に打ち付けられている微かな波の少し離れたところで、波紋が見える。
それは徐々に広がりを見せて、やがて彼女は勢いよく水面にでた。
そう、彼女は、足をバタつかせながら砂浜に向け泳ごうとしていた。
彼女は、普通の夏を満喫している。
途端に散歩をするエネルギーが湧きだし、再び彼女への興味が喪失した。
さざ波の音を聞きながら、再びホットプレートのように熱くなった防波堤の上を歩くと、今度は彼女の声が聞こえてきた。
そこそこ距離があることと、波音のせいで何を言っているか聞こえない。
僕は彼女の方に向き直り、耳を澄ませる。
「ちょっと! そこの君! た、助けてくれない?」
「へ?」
僕は確認するようにゆっくりと右手で自身を指差す。
「そう! そこの君!」
なんて間抜けな。泳げないのに飛び込むなんて……
いや正確に言えば、海で泳げないのに飛び込むなんて頭がおかしい。
バタバタと必死に砂浜に向かおうとしている彼女に頷くと、僕は全速力で砂浜を駆け抜けた。
途中で服や靴などを脱いでいないことに気づき、剥ぐようにそれらを脱ぎ捨てる。
パンツ姿になることに申し訳なさを覚えるが、仕方のない事だと自分に言い聞かせて、チクチクとした砂浜の上を駆け、そして海に入った。
絡みつく波を足や手のひらで押しのけ、バタバタバタバタと足を動かしている彼女の横に着いた。
「大丈夫ですか?」
「君には大丈夫に見えるのかい!?」
「え、あ、そうですね」
僕はそう言って、彼女の横腹を掴むと砂浜に戻る。
途中で柔らかい部分にも触れてしまったが、彼女も黙ってくれているのでセーフということで……なんて余裕はない。
それほどの距離でもないのに砂浜に到着する頃には息が切れ、僕と彼女は足から崩れ落ち、そして体を反転させた。
「た、助かった……」
まだ息を切らしている彼女のそんな言葉を聞きながら、僕は頷いた。
前方に広がる空の青から、左を見ると、全身砂まみれの彼女が僕のことを見ていた。
「な、なんです?」
「ありがとう!」
彼女は優しく口角を上げ、前方にかかった前髪を右手でゆっくりと払いのけた。
長いまつげから水滴がポトリと落ちている。唇も水滴で覆われていて、僕は見ていけない光景が映っているような気がして、顔を正面に向き直した。
「お、泳げないなら飛び込んじゃダメじゃないか」
「本当は泳げる友人と来る予定だったのだけど、夏休みでしょ? 母方の実家に行くとかで」
「理由になってない……」
「だって! 飛び込んでみたかったんだもん! 君も、近くにいたし? 助けてくれるかなって」
「他力本願すぎません……」
「この街は海が近いからね。泳げる人だと思ったの」
そんな言葉と同時に彼女の背中が視界に映る。長い黒髪をギュッと束ね、彼女は僕の方を見た。
薄茶色の瞳と白い肌が太陽の光に反射して眩しい。
「君、この町の生徒だよね?」
「そうだよ」
「ふーん、私、昨日、転校してきたんだ」
「昨日!?」
「うん昨日。高2。君は?」
「……高1です」
すると彼女は突然笑い出した。
「急に敬語になるところおかしすぎ」
「そうですかね? 年上ですし一応礼儀として」
「なるほどー! まぁ悪くないかな後輩君」
「先輩が溺れている(棒)」
「そ、それはノーカウント!!」
同時並行で水着に纏わりついている砂を落し始めたので、僕は再び視線を逸らす。
「人が話しているのに視線を逸らすの?」
……たしかに失礼な行為だな、でも男心くらい理解してくれても。
ローアングルからスクール水着から水が滴り落ちている女の子を見ると、色々と不適切な気持ちがわいてくるのだ。
僕は腹筋のみで上半身を起こしてから、僕は足と手の平の力を使い勢いよく立ち上がり、視線を彼女に向けた。
「……すみません」
「いいよ~」
そう言って立ち上がった先輩は、息を僕の顔にふーっと吹きかけられたら、その吐息の量が分るほどまで立ち止まる。
所謂、パーソナルスペースが狭いタイプだ。
そして僕は高校生男子で、付き合った女の子もいなく、耐性がない。そんな距離感で目線を外すなという方が無理に等しい。
目線がゆらゆらと左右に揺れそうになる状況を必死に抑えていると、先輩は小悪魔的な笑顔を見せた。
「なんですか!?」
「……ちょっと待って」
先輩はそれを言うと同時に、微笑みながら顔をゆっくりと近づけ始めた。
そして徐々に存在感を増していく、そのかわいい小悪魔的な先輩を見続ける事なんて不可能だった。
僕は吐息が近づきそうな距離にいる先輩から視線を逸らす。
「流石に近すぎです!」
「やっぱり」
「何がやっぱりですか?」
「私のこと、好きでしょ。いや好きと言ったらいいかな」
先輩は後ろにぴょんと跳躍すると、まるで自分の推理の結果を尋ねるように首を横に傾げる。
そして、僕は思わずため息をついた。
「あの、先輩はかわいいいじゃないですか。そんな人に近づかれたら、男子ならああなります」
男心を表層から優しくタッチされた気分だ。
「君は正直だね」
というので、僕は頷く。
先輩が水を滴らせながら瞬きをしている様子がとても魅力的に思えた。
先輩が放つ外見の魔力に吸い寄せられていたってわけだ。
でもそれを先輩に言うにはハードルが高いので、少しだけぼかして説明することにした。
「嘘はあまりつきたくないなって」
「うんうん、ちょっとわかるよ。じゃあ私もストレートに言うね」
先輩はそう言うと、目を左右に動かして、口を開け閉めした。
その姿を見て、何を言われるのか気になって胸がキュッと締め付けられる。
生きた心地がしない感情のまましばらく経過し、やがて彼女は決心したのか僕を見て微笑んだ。
「今、私と君はつり橋の上にいます。そんな女の子が抱く感情は、なんでしょうか。私も気になってる。人間、全てをストレートに言うと危険だからここから先の話はなし。どうかな?」
『どうかな』とは、男女の関係性として見れるか?という問いかけだろう。
しかし、僕という人間は、先輩にそこまで言わせたとしても、自分自身に自信がない。
どうかな?がまだ未確定である表現である以上、その意味を尋ねるしかなかった。
「どう、なんですかね?」
すると彼女は、何度か首を縦にゆっくりと振った。
「なるほど。了解! 話は変るけれど、後輩君は、防波堤の上で何してたの?」
夏のゲリラ豪雨が去ったかのような唐突さだった。
さっきまでの湿っぽい先輩は存在しなく、カラッとした表情を浮かべている。
僕は驚きで目線を逸らさないように気をつけながら、口を開いた。
「見てたのですか?」
「うん。だってこんな暑い日に堤防の上を歩いている高校生なんて少ないと思うから。運動不足の社会人ならまだしも」
「それは……」
「それは……?」
「もったいないからです、かね。夏は1年に一度だけですし」
すると先輩は目を輝かせながら僕の手を握った。
「わかる。その気持ちめっちゃわかる~」
「はぁ……」
「うんうん。私って見る目ある!」
先輩の柔らかい手の平が何度も僕の手を振った。
僕はその感覚に感激を覚えつつ、ここで口元が緩んで締まったら気持悪がられるかもしれないので、平常心も同時に保つ。
「君、名前は?」
「瀬戸結弦です」
「結弦くん、助けてくれてありがとう。本当に死ぬとこだった」
「あ、いえ……」
「私と友達になってくれる?」
「……も、もちろんですよ」
「じゃあ、これ」
紙に書かれていたのは、RINEのIDだろう。
僕はそれを受け取ると、先輩は唸るような溜息を吐いた。
「昨日引っ越してきたばかりだから、実は片付けしなきゃいけないの」
「なるほど、それで」
「うん。でも今日の飛び込みはやりたくて。友達との約束でもあったし。お母さんに怒られるから早めに帰らなきゃ。ごめんねまた連絡する」
スクール水着を着たまま、駐輪場に向け全力疾走。
僕は後姿を見ながら、自分の服から水気を取ると、深呼吸をした。
先輩――まだ名前も知らない人は、嵐のような人だ。
正直、何が起こっているかまだ正確に理解できていない。
でも自然と口角が上がっていた。僕はこの出会いを望んでいるようだった。