第56話 君の手を握ってしまったら⑤
樹海から抜け出した私達は、未明子を乗せて最寄りの病院に向かった。
三日間眠らずに動き続けた人間はどれほどの疲労を溜めているのだろうか。
しかも彼女は最愛の人を失った精神的なショックが抜けていない状態だ。
何が引金になって体調に影響するか分からない。
九曜五月は運転、夜明は助手席に座り、その後ろの席でアルフィルクとサダルメリクがスマホを使って調べものをしている。
私とすばるは一番後ろの座席で未明子を囲んで座っていた。
「すばるくん。未明子くんの脈拍を測ってもらえないかい?」
「承知いたしました」
「みんな何を慌ててるの?」
「大丈夫よ。未明子は気にせず楽にしていて」
私は未明子の手を優しく握った。
そしてようやく彼女の体温の低さに気づいた。
とても正常な人間の体温とは思えない。
反対側ではすばるが目を閉じながら未明子の手首に指をあてて脈を取っている。
その顔色は芳しくなかった。
「……不整脈を起こしています」
案の定、未明子の体調は正常では無かった。
いまの状態での不整脈は看過できるものではない。
夜明の見立て通りすぐに病院に行くべきだ。
「そんな。別に平気ですよ。こんなに元気なのに」
「本人が元気のつもりでも、体が悲鳴を上げてる場合もあるの。無理にでもいいから寝られる?」
正直、今の状態で意識を失わせるのはリスクが高い気がした。
でもとにかく休まない事には回復のしようがない。
「ええ? 全然眠くないのに寝られるかな」
「目をつぶって。落ち着いて……」
未明子は言われるままに目を閉じるが、しばらくすると目を開けてしまう。
「んー。こんなに目が冴えてるのに寝るのは無理だよ」
「それがもうおかしいのよ。お願い、眠れなくてもいいから目を閉じて休んで」
何とかして未明子を休ませようと試みるが言うことを聞いてくれない。
人と会って興奮しているのか、活動的になっているようだ。
するとすばるが、未明子の肩を掴んで自分の方に引き寄せた。
そして自分の胸で未明子を抱きかかえる。
「あの、暁さん? お胸があたっていますが」
「あてているんです。いいですか犬飼さん。わたくしの心臓の音、聞こえますか?」
すばるは未明子の頭にそっと触れると、自分の胸に優しく押し付けた。
「……はい。聞こえます」
「不快でなければそのまま心臓の音を聞いていて下さい」
「え? ……はい……」
未明子は目を閉じてすばるの心音に耳を傾けていた。
すると、さっきまでの元気が嘘のようにグッタリとすばるの胸に寄りかかった。
「……落ちました」
あれだけ言っても頑として言うことを聞かなかった未明子は、あっという間にすばるの胸の中で眠ってしまったのだった。
「何なの? すばるは寝かしつけのプロなの?」
「いえ。これは眠った訳ではないです。気絶しています」
「気絶?」
「はい。本来であればとっくに気を失ってもおかしくない体調でした。おそらくフォーマルハウトへの復讐心が強すぎてスイッチが入りっぱなしになっていたのだと思います」
「そうだとしても心音を聞かせたら眠ったのはどうして?」
「犬飼さんは、いま自分を取り巻く環境全てが異常です。ミラさんが殺された事もそうですし、眠らずに樹海の中を彷徨っているのも異常でした。なので、人肌と、一定のリズムを刻む心音で正常な世界に戻してあげたのです」
そんな方法があるんだ。
精神的に弱っている人に人肌が良いのは何となく分かるけど、心臓の音にも癒し効果があるのね。
泣いている赤ん坊も母親の胸の中なら眠るし、安心するのかしら。
……でもそれなら私がその役目を引き受けたかった。
「五月さん。行き先を変更してもよろしいですか?」
「へ? 病院に行くんじゃないの?」
「犬飼さんが眠ったのなら、病院よりも確実な場所があります」
「病院よりも確実ってどこに連れて行くつもりよ?」
眠ってくれたとは言え、依然として不調には違いないのだ。
下手な場所に連れていくのは賛成できない。
「我が家です」
「すばるの家に?」
「我が家であれば専属医もおります。下手に山梨の病院で入院になるよりは我が家に泊まりになった方がご家族にも説明しやすいかと存じます」
家族に連絡というのをすっかり失念していた。
このまま山梨の病院で入院なんてことになれば未明子の家に連絡せざるを得なくなる。
そうなると色々と説明をしなければいけないのが厄介だ。
「専属医と言っても個人宅で人を一人面倒見るなんて難しいんじゃないの?」
「アルタイルくん。それなら心配いらない。すばるくんの家ならそこらの診療所よりは遥かにホスピタリティが高いよ」
「どんな家なのよ? お医者さんなの?」
私のその疑問は、この後すぐに解消することとなった。
行き先が変更された後、連泊していた宿泊施設から荷物を回収してそのまま東京に戻ってきた私達は、新百合ヶ丘にあるすばるの家に来ていた。
なるほどね……。
すばるが大見栄えを切ったのも納得がいった。
こんな高級住宅地に、500坪はくだらない大豪邸が建っていた。
どう考えてもその辺りの高校生が住んでいるような住宅ではない。
お嬢様らしい雰囲気は感じていたがまさか本物だったとは。
「そうなんよー。未明子ちゃん遊び疲れて寝ちゃってさ。このままみんなで友達の家に泊まってくから、お父さんとお母さんにも心配ないって伝えておいてくれない?」
九曜五月がほのかちゃんに連絡してくれていた。
山梨で合流した私達は、夏休みなのをいいことにしばらく遊び歩いているという設定だ。
「オッケー。ほのかちゃんがうまく言っておいてくれるって。今度遊びに行かせて下さいってさ」
「ミニサイズの未明子くんか。ぜひ一度見てみたいねえ」
「ビックリするわよ。本当未明子にそっくりだから」
これでしばらく未明子が帰らなくても大丈夫そうだ。
これ以上容体が悪くならないなら、家族には何が起こっているか黙っておいた方がいいだろう。
「犬飼さんはこちらで看病いたしますので、みなさまは一度解散下さい」
「それがいいだろうね。全員で居座っては迷惑になる」
正直未明子から離れたくなかった。
だけど私も泊まらせて欲しいと言うのは厚かましすぎる気がする。
今日は帰るしかないが、何とか明日も訪問できないだろうか。
「アルタイル。申し訳ないですが、あなたはしばらく我が家に滞在して下さい」
「いいの?」
「はい。今後のこともあります。アルタイルにはなるべく犬飼さんのそばにいていただきます」
「それは私に鯨多未来の代わりをやれっていう意味?」
「どう受け取るかはお任せいたします。あなたが犬飼さんとステラ・ノヴァを起こそうとしている事に関しては、まだわたくしの中で答えが出ておりません。犬飼さんと共にあなたも見させていただきます」
「なるほど。監視ってことね。いいわ、それで未明子のそばにいられるなら願ったりよ」
夜明も九曜五月も、私が未明子とステラ・ノヴァを起こそうとしている事はすでに聞いている。
複雑な表情をしてはいるが止めようとしている訳ではなさそうだ。
「でも私、着替えとか何にも持っていないから買ってこなきゃいけないわね」
学校帰りにそのまま山梨に向かい、しばらく滞在してしまったので満足に着替えもできていない。
いつまでも制服でいるのも堅苦しいし、何なら一度帰って荷物をまとめて来た方がいいかもしれない。
「それには及びません。着替えでしたらすべて我が家で用意いたします。肌着、下着、全部わたくしにお任せください」
こちらにとっては渡りに船だが、そこまで甘えてしまって良いのだろうか。
何かすばるから邪なエネルギーを感じる気がするけど。
そして他のメンバーからは何故か「ご愁傷様……」と言う声が漏れた。
「犬飼さんが目を覚ましたら連絡いたします。みなさまも体をお休め下さい」
すばるのその一言でこの場は解散となった。
拠点にいた管理人には夜明から連絡をしておくらしい。
フォーマルハウトとの戦いから未明子の捜索まで続いた騒動が一旦終着したことで、ようやく全員が落ち着く時間ができるようだ。
九曜五月の運転でそれぞれの生活に戻っていくメンバーを見送り、私はすばるの家に案内された。
屋敷の中は外観通りにとても広々としていた。
ただ豪奢な内装では無く、絵本に出てくる洋館のような趣のある屋敷だった。
「お父さんがゲーム会社のお偉いさんって聞いたけど、こんなに大きな家を建てられるものなの?」
「母方の家がこの辺りの地主なのです」
「なるほど。お母さんの方がお金持ちなのね」
「ですがこの家をデザインしたのは父です。ここを建てる際、せっかくだから豪邸と聞いて誰もがイメージする作りにしたかったそうです。クリエイターはいつでもイマジネーションを磨けと言うのが父の言ですので」
「漫画に出てくる、お屋敷みたいだよね。殺人事件とか、起きそう」
サダルメリクが物騒なことを言うが本人は至ってお気に入りのようだ。
住まいなんて機能性が一番大事な気がするけど。
お金持ちの考えることは分からない。
「ところで未明子はどこに運ばれていったの?」
山梨からの帰り道ですばるが連絡をしてくれたおかげで、家に着いた時には医師らしき二人組が待機してくれていた。
車から降ろされた未明子は、すぐさまキャスター付きの担架でどこかに運ばれて行ったのだった。
「専用の医務室があるのでそちらで診察を受けていただいております」
「この家、医務室まであるの? 医者が常駐してるってこと?」
「まさか。連絡して来てもらっているだけですよ。ですので基本的な治療が終わったら以降はわたくし達が引き継ぐ必要があります」
「じゃあ診察に立ち会った方がいいんじゃない?」
「いえ。清潔さを求められる医務室にわたくし達の格好は似つかわしくありません。一度汗を流して、清潔な服に着替えていただきます」
まあ……言っていることは分かる。
山梨の宿泊施設でお風呂には入っていたとは言え、一度さっぱりしたい気持ちはある。
ただ、何だろう。
さっきからすばるの圧が怖い。
「着替えはわたくしが用意しておきますので、どうぞサダルメリクと一緒にお湯を浴びて来て下さい」
そう言うと、すばるは何故か嬉しそうにどこかに行ってしまった。
「どうしたのあれ?」
「アルタイル、すばるにターゲッティングされた、ね」
サダルメリクが呆れた顔をしていた。
いまこの状況で何をターゲッティングされたのか分からないが、この家に来てから、どうもすばるの様子がおかしい気がする。
それが何を意味していたかは、お風呂あがりに身をもって体験するのだった。
すばるの家を後にした車内の空気は重かった。
純粋に疲労もあったが、当面の目的がなくなった事によって色々な事に嫌でも目を向けなくてはいけなくなったからだ。
共に戦う仲間が死んだ。
今まで辛くも回避して来た事態にとうとう向き合う時が来てしまったのだ。
それぞれ覚悟はしていた。
だがそんな覚悟くらいで到底よしとできる事ではなかった。
「前にさー。みんなで高尾山に登ったことあったじゃん?」
五月が重い空気を破るように、軽い調子で話し始めた。
「ああ、すばるが参加してすぐだっけ。夜明が途中でへばった時ね」
「私が登山なんて得意なわけないじゃないか」
「その割には今回は頑張ってたじゃない」
「樹海は平坦だからね。私が苦手なのは高低差だよ」
「家の階段でもひぃひぃ言ってるもんね。ちゃんと運動しなさい」
「五月くん、もしかしてまた登山を考えてるのかい?」
五月がバックミラーを見ると顔色の悪くなった夜明が映っていた。
五月はその顔を見てクスクスと笑う。
「いや、あれ楽しかったなと思って。またみんなでどっか行きたいね」
「どうせなら室内アクティビティにしないかい?」
「出たインドア発言」
「じゃあ今度はボルダリング行こっか? 結構楽しいよ」
「結局運動じゃないか。そうやって慣れさせていつかクライミングに行こうとか言い出すんだろう? その手には乗らないよ」
「じゃあトランポリンとかは? 思ったより全身使うからいい運動になるよ。あと、アスレチックとか、フットサルとか。あ、最近だと乗馬なんかも流行ってるよね……」
そう言いながら、五月の声はどんどん涙声になっていった。
「みんなで、みんなでさ、色んな事やろうよ……。みんなで、色んな所にさ、行こうよ……」
そのみんなの中にミラがいない。
これからどんな思い出を重ねていこうとも、そこにミラの姿は無い。
夜明もアルフィルクも、いつも笑顔で隣にいてくれたミラを思い出していた。
「こうなる日が来るかもってさあ、想像はしてたけど、だけど悲しいよやっぱり」
五月は耐え切れなくなって涙を流していた。
こうやって辛いことがあった時、いつもミラが寄り添ってくれていた。
(大丈夫? 五月さん)
自分の弱さは滅多に人に見せないのに、誰かが落ち込んでいるとすぐに気づいてやってきてくれる。
誰かの事ばかりで自分が真ん中に立つことはなかったが、いつもみんなの心はミラを中心に集まっていた。
彼女がいなくなって、それをより実感してしまったのだった。
「もう……泣きながら運転しないの」
「泣きたくないよ。泣いたってミラちゃん帰ってこないし……でもさ……」
「そうね。だからこそ、私達は未明子に寄り添ってあげようね」
「……うん……」
アルフィルクは決めていた。
せめて未明子が正常に戻るまでは泣かないと。
未明子の心が落ち着いてミラの死にきちんと向き合えるようになった時に、その時に一緒に泣こうと。
ミラを大切だと思うほどミラが大切にしていた未明子を放ってはおけなかった。
「……二人はアルタイルくんと未明子くんのことをどう思うんだい?」
「分からない。でも私は未明子が決めたことならそれに従うわ」
「……アタシも、そうする」
夜明も迷っていた。
フォーマルハウトがいつ襲ってくるか分からないこの状況で、アルタイルの力は喉から手が出るほど欲しい。
でもその為には未明子がアルタイルと新たな契約を結ぶ必要がある。
それは果たして未明子の為になるのだろうか?
今でもミラをこの世の何より大切に思っている未明子を苦しめるだけではないのだろうか。
それでもあの時、戦いに出なかった自分にその選択に関わる権利は無いと考えていた。
初めてサダルメリクと会った時を思い出す。
一見おとなしい顔をしているサダルメリクが、やたらヒラヒラの多い可愛らしい服を着ていたのに違和感を感じてはいた。
似合っているけどこの子だったらもっと地味な服を好みそうなのに。
そして今日。
サダルメリクの着ている服は、全てすばるの趣味が反映されていたんだと知った。
己の身を以って。
すばるが用意してくれた服はいわゆるロリータファッションだった。
お人形のようなヒラヒラとした布がたくさんついている可愛らしい服だ。
ピンクと白を基調としたワンピースに、これでもかという程リボンがついている。
果たしてお風呂上りに着る服なのだろうか?
いや、それ以上に医務室に着ていく服なのか?
お借りしている服なので文句は言えないが、自分の姿に疑問が尽きなかった。
「服なんて着られればいいと思っていたけど、なんでこんなヒラヒラしたドレスを着せられているのかしら?」
「何を言いますか。そんな可愛らしい顔をしているのに着飾らないなんてもったいない」
「それ質問の答えになってる? あとサダルメリクと姉妹コーデみたいになってるんだけど」
隣を歩くサダルメリクも同じようにお人形のような服を着せられていた。
その服装に特に感想はないらしく無表情で歩いている。
「アルタイルがサダルメリクと似たようなサイズで助かりました」
「お胸のサイズも、いい、勝負だった」
「そういうプライベートな情報を暴露しないでちょうだい」
「ここに滞在している間はわたくしがコーディネートをいたしますのでお楽しみくださいね」
「ねえ、監視の為に私を泊まらせているのよね? 着せ替え人形にする為じゃないわよね?」
「あ、ここが医務室です」
「答えなさいよ。私に向き合いなさいよ」
すばるの案内で医務室と呼ばれている部屋に通される。
そこは大きめのベッドが置かれている10畳くらいの部屋だった。
清潔感のある部屋で、大きな窓に白いカーテンがかかっている。
壁の棚には簡単な医療器具が並んでおり、その下には薬品のラベルが貼られた引き出しがある。
診察の為の机と診察台も置かれていて、なるほど医務室と呼んで差し支えのない部屋だった。
ベッドには点滴を打たれている未明子が眠っていて、傍らには一人の女性が立っていた。
さっき未明子を運んで行った二人のうちの一人だ。
中年と呼ぶにはまだ若い、優しそうな顔をした女性だった。
「先生、容体はどうでしょうか?」
「衰弱は激しいけど点滴と睡眠で回復できるレベルだと思うよ。樹海で三日間も探検してたんだって? 若者は無茶するねえ」
先生と呼ばれた女性が診察机に座ったので、私達も近くの椅子に座らせてもらった。
「まあ若いからすぐに起きてくるだろうけど、それよりも困った症状があるね」
「まさか外傷でもあったのですか?」
女医は診察台の横にあった台から汚れた布切れを取り出した。
それを広げてこちらに見せる。
「それは、肌着ですか?」
おそらく未明子が着ていたであろう肌着のようだが、胸の辺りが赤茶色に汚れてパリパリに乾いていた。
「この子、胸から結構な出血をしててね。血が固まって肌とシャツが張り付いてたのよ」
「え!?」
思わず大きな声が出てしまった。
帰ってくる時にはそんな怪我をしているなんて全然気づかなかった。
一切痛がってもいなかったからだ。
「どこかにぶつけたとか、転んで切ったとか、そういう傷なのですか?」
「それがそういう感じでもなくてね。多分なんだけど、小さな刃物とかでついた傷なのよ」
刃物?
まさかあの森の中で誰かに襲われていたと言うのだろうか。
あんな危険な場所で女の子が一人ウロウロしていたら誰かに目をつけられても不思議ではない。
「不審者に襲われた可能性があるって事ですか?」
不安が隠せない私は、つい先走って聞いてしまった。
だがその質問に対する女医の反応は鈍かった。
「んー。それがそうでもないのよね。同じ場所を何度か切られているみたいで、襲われたにしては傷のでき方に動きがないと言うか……。もし襲われて切られたんだとしたら、切られてもぼーっと突っ立っていたことになるわ」
「……ならば自分で切った、という事ですね」
すばるが恐ろしい事を言い出した。
自分の胸を自分で切る?
どうしてそんな事を?
この数日間、未明子は樹海を彷徨いながら自分の体を傷つけていたと言うの?
だけど、私もすばるもすぐにその理由に気づいてしまった。
無関係の人間がいるので口には出さなかったが、鯨多未来は ”胸” から核を抉り出されて殺されている。
それが本人にとってトラウマになっているのだとしたら、自分を同じ目に合わせて苦しめようと考えていた可能性は否定できない。
用意できた刃物が小型のものだから怪我で済んだが、もう少し大きい刃物が手元にあったらと思うとゾッとする。
「樹海をあれだけ彷徨っていたのです。軽く精神錯乱していてもおかしくないかもしれません」
私達はすでにほぼ解答を得ていたが、ごまかしの為にすばるがそう答えた。
「血は止まってるし、処置は施したけど少し跡が残るかもね」
「ありがとうございます。他には何かありましたか?」
「怪我はそんな所だけど、さっきウンウン唸っていたから今晩くらいは誰か隣で付き添ってあげた方がいいかも」
「承知いたしました」
「点滴の交換はしなくて大丈夫だから時間が来たら外しておいて。処置の基本は確認しなくても大丈夫よね?」
「はい。慣れておりますので。急にお呼び出しして申し訳ございませんでした」
「いえいえ。また何かあったら声かけて」
そう言うと女医は荷物をまとめて部屋を出て行った。
すばるが深々と礼をして女医を見送る。
私はベッドに寝かされている未明子の顔を覗き込んだ。
今は安定しているのかスヤスヤと眠っていた。
「夜は私が付き添うわ」
「そう言い出すと思いました。構いませんが、それなら今から仮眠を取って下さい。病人の看病で一番危険なのが睡眠不足による集中力が欠けた状態での付き添いです。判断力の低下で対応を間違えると思わぬ事故に発展いたしますので」
「て、徹底してるわね」
「慣れておりますので」
すばるは意味深な笑顔を浮かべると、同じように未明子の顔覗き込んだ。
「まだ戦い始めて間もないのに、少々辛い事が多過ぎますね」
「……この子、ちゃんと立ち直れるかしら?」
「さあ、どうでしょうか。わたくし達の頑張り次第だと考えます」
眠る未明子の頬を軽くなでる。
さっきは驚くほど冷えていた体が、今は湯たんぽかと思うほどに暖かい。
「そうそう。付き添いは構いませんが先走った行動はやめて下さいね」
「しないわよ。私を何だと思っているの?」
「失礼いたしました。ではここはわたくしに任せて一度お眠り下さい。メリク、お部屋への案内をお願いできますか?」
「あい、あい、さー」
面倒くさそうに返事をするサダルメリクに連れられ部屋を出る。
部屋を出る時にすばるを見ると、未明子の方をじっと見つめていた。
後ろ向きだったので顔は見えなかったが、何故だかただならぬ雰囲気を纏っていたように感じた。
大きな屋敷の長い廊下を歩きながら、私はその事が少しだけ不安になった。




