第7報
「今相模トラフではスロースリップが発生している」
「それも知ってる。1週間ぐらい前から起きてるんだよな」
その情報は報告を受けているし、ニュースとして世間にも公表されていた。
通常、プレートの沈み込みによって発生したひずみは一気に解放され、これが地震を引き起こす。急速にプレート境界や断層が動くことによって、私たちが体感できる揺れが発生するのだ。
しかしながら、ひずみがたまっている場合でも、人間が感じることができないほどの遅さでゆっくりとプレートや断層がずれ動くことがある。これをスロースリップと呼ぶ。
この現象が発見されたのは比較的新しく、20世紀の終わりごろに、高感度地震観測網の整備によって観測することができるようになった。
現在、房総半島南部沖合でスロースリップの発生が観測されていた。観測されたのは8日前だが、この時神奈川で観測されたM6.2の地震とほぼ同時に観測された始めたため、この地震がスロースリップ発生のきっかけなのではないかと噂されていた。
しかし、何故神奈川で発生した地震によって千葉でスロースリップが発生したのかという疑問には、地震によって地盤に何らかの影響を与えた可能性があるが、詳細は不明であるとされた。地下で発生する事象は、いまだに分からないことばかりだ。
「まあそうだよな……」
「このところ地震が多いのはそれの影響なんだろ」
「そうだ。有感地震だけじゃない、無感地震もいつも以上に観測されている」
スロースリップが発生した場合、通常時よりも多くの地震が発生する傾向にあった。スロースリップ自体が地震の1種ではあるのだが、プレートがゆっくりと動き続ける中、私たちが感じることができる有感地震も発生しやすくなる。
現に8日前の発生以後、関東で最大震度4を記録した地震は2回、震度3は4回観測されている。1週間で観測されている量としてはかなり多い。今のところ5弱以上を観測する地震は発生していないが、それもいつ発生してもおかしくないと言える。
震度2以下の地震や、人間が感じ取れない無感地震も含めると、毎日何回も発生している状況だ。
「それで? 話はそれでおしまいか?」
「もちろん違う。今起きてるこのスロースリップが巨大地震の兆候ではないか、って話だ」
「……詳しく話してくれ」
「巨大地震とスロースリップの関係性は知っているか」
「スロースリップが巨大地震の前兆なんじゃないかという話は知っている。ただ、スロースリップ自体は珍しい現象じゃなく、観測データも少ないからどれ程の関連性があるのかは分かっていないんだろ。まあ日本海溝や南海トラフで起きたら別だが、相模トラフでならそこまで警戒する必要はないというのが、俺の考えだ。まあ地震活動も活発になるし、その点では注意する必要はあるが」
実際、相模トラフでは数年おきに発生していると考えられているし、今回もそれまでの例と変わらないものであると聞いていた。
例えば、日本海溝や南海トラフで発生した場合は、巨大地震発生の前兆としてとらえられるだろう。彼の地では地震発生の可能性が高いとされており、スロースリップのような特異な現象が発生すれば、それが巨大地震発生の兆候ではないかと気象庁も考えるだろう。
一方で相模トラフではどうか。
発生しても全く問題がないというわけではない。地震が頻発しやすくなる以上、それへの警戒はしなければならないし、世間も地震に対して警戒感や恐怖心を抱くことになるかもしれない。
ただ、一般世間はともかく、気象庁がこれだけを理由にM7以上の巨大地震が起きるかもしれないと考えるとは思えない。
現在今後30年以内に相模トラフでM7以上の地震が発生する確率は、ほぼ0%であると考えられている。
相模トラフが地震の発生しない地域というわけではもちろんなく、過去にも相模トラフで巨大地震が何度も発生していた。前回巨大地震が発生したのは1923年。それ以前には1703年、1293年にも相模トラフ沿いで巨大地震が発生した。歴史的資料が少ないものの、それ以前にも地震は幾度となく発生していたと考えられている。
では、なぜ巨大地震が発生しないと考えているのか。それは以前の地震が発生してからまだ時間がたっていないからである。
地震が発生するにはエネルギーが必要だ。そのエネルギーはM7だとアメリカで行われ世界最大の地下核実験で発生した人工地震と同程度、M8だとその32倍、M9では1024倍にもなる。
それほどのエネルギーは何処からともなく現れるというわけではなく、プレートの移動に伴い、プレートのひずみという形で少しずつ蓄積されていく。それがある時放出されてプレート型地震が発生するのだが、つまりひずみがなければ地震は発生しない、ということになる。それも巨大地震が発生するほどのひずみとなるには、数百年単位で時間がかかる、と考えられている。
これまで確認されている相模トラフでの地震は、200年以上の間隔があいている。それらの情報から予測して、前回の1923年から200年程度経つと巨大地震を起こしうるほどのひずみが発生し、逆に100年ほどしかたっていない現代ではそれだけのひずみは発生しておらず発生確率も低い……そう推測されていた。
なので、少なくとも今の段階で地震の発生確率は低いというのが気象庁の見解のはずだが、それなのに巨大地震が起きるのではないかという話が出たということは、何らかの特異な現象が発生しているのではないか。
以前にも相模トラフ沿いでスロースリップは観測されていたが、その時は震度5程度の地震への警戒は呼びかけても、M7以上の地震が発生するかもとは言っていないはずだ。スロースリップ以外の何か、あるいはそのスロースリップで何かが起きているということだろうか。
「それで、気象庁は何を根拠に巨大地震発生の可能性があると考えてるんだ? スロースリップが起きているってだけでは少々根拠が弱いと思うんだが」
その根拠を問いただすと、彼は口に入れようとしていたサンドウィッチを皿へと置いた。
「そうだな。まあ通常のスロースリップならちょっと問題になるぐらいなんだがな。これが今広範囲で発生している。今までにない規模だ」
「そんなに大規模なのか?」
「ああ、確か最新の報告だと千葉南部の大部分が範囲だ。今もどんどん広げている」
「そんな広いのか……」
少し驚きの念を抱いた。自分が聞いていたのは房総半島南部沖合でスロースリップが発生しているということだ。一体いつここまで拡大していたのか。
「いつの間にそんなにでかくなったんだ。前に聞いた話だと前回とほぼ同規模という話だったはずだが」
「ここ数日でだ。それまで房総沖周辺でしか観測されていなかったのが、急速に範囲を拡大している。いずれこの永田町も範囲内になるかもしれんそうだ」
彼はこの永田町の地を人差し指で指した。それほどまで範囲が拡大し続けているということだろう。
確かに、それほど大きなスロースリップが発生しているのであれば、巨大地震が発生するかもという考えが生まれるのも当然かもしれない。
「それじゃ、巨大地震が起きると?」
「起きるかもしれないし、起きないかもしれない。自然ってのはそういうもんだ」
「……そうだな……」
明確な答えが得られないことに落胆する。しかし、地震予知が現段階の技術では不可能だということは、私も彼も分かっていた。地球の表面で様々な現象が発生しても、それが地震発生にどのような影響を与えているのかは曖昧な表現を取らざるを得ない。
「まあスロースリップ自体は別に珍しい現象じゃない。相模トラフじゃ数年おきに発生しているし、他の場所についても同様にな。ただ、ここまで大規模なのは初めて観測しているから、何とも言えんそうだ」
「まあ、観測できるようになってから30年ぐらいしかたってないからな。まだまだ分からないことだらけだろ。公表は?」
「気象庁からは今日すでに発表している。昼のニュースにも出てたぞ。さっきのニュースでも流れてたし、ネットにも記事が出てる……ほら」
彼はトレーの横に置いていたスマホを手に取り、ニュースの記事を表示させた。私はその画面を見つめる。
『相模トラフでのスロースリップ、前例のない規模か 気象庁が観測強化』
簡潔な、小さな記事ではあるが、大規模なスロースリップが相模トラフで観測されており、気象庁がさらなる地震に警戒を呼び掛けているという内容だった。記事が出たのは3時間ほど前といったところか。発表の後すぐに記事にしたのだろう。
「今気象庁では何かしらの呼びかけはしているのか?」
「まあ地震が発生する可能性が高くなるだろうとは言ってるがな。大きな地震が起きる可能性があるとは言及していない。警戒を呼び掛けるかどうかは今本庁で検討中だそうだが、すでにでかいのが来るんじゃないのかって声はちらほら出てるぞ……ほら」
今度はSNSの画面を見せてきた。手に取ってスクロールしてみたが、一般のユーザーが大きな地震が来るのではないかと言っている内容が多いが、中には専門家や専門機関が言及しているものもあった。
「……確かにそんな書き込みもあるな。でも気象庁は巨大地震が来るとか、そんなことは言ってないんだろ?」
「今のところな。地震発生の可能性は低いと見てるやつも多いが、本庁内にも危機感を持っている人も少なくない。断層に影響を与えて首都直下が発生するかもと考えているのもいる。が、呼び掛けるにしろ呼び掛けないにしろ、会議を開かんことには決められない。どういう動きになっているのかまでは知らんが、数日中にどうするかは決まるそうだ」
その数日が命取りにならなければいいが。そんなことを思いながらスマホを彼に返した。
「スロースリップが今後どうなるか、今の気象庁の見解は?」
「会見で色々回りくどいこと言ってるが、まあまとめると分かりませんってなるな。これ以上広がるのは考えにくいと言いたいとこだが、もう考えられないくらい広がっちゃったし」
やはり気象庁もどうなるかの見立ては立てられていないようだ。気象庁がこの現象を発生させているわけでもないし、こればかりは致し方ない。
「結局ほんとに起きるかどうかは神のみぞ知るってとこかな。一応知っていた方が役に立つんじゃないかと思ってな」
「まあ、そういうことが起きてるってことは知っておいて損はない。知ったところでいつも通りにって感じだが」
この情報もいずれ報告が来るだろうが、先に知ることで損をすることはないだろう。
とはいえ何時何分に地震が起きるというような具体的な情報ではないし、結局普段と変わらず、いつ地震が発生しても対応できるようにしておく、普段と同じ状態であるといった感じだ。
すでにいつ地震などの災害が発生しても対処できる体制は整えられている。変わらず運用するというのが、我々に必要なことというわけだ。
「確かにな。できることつったら普段通り備えていくことと、起きないよう祈るくらいか。今から要石のとこでも行くか? 香取神宮あたりとか」
「ご自由に。ほんとに起きそうなら、そんな遠くには行ってられないな」
「それもそうだな」
私たちがやるべきことは祈りを捧げることではなく、備えを怠らないことだ。
祈るだけですべてがうまくいくなら、どれほど良いことか。残念ながら世界はそう簡単ではない。信仰を否定するつもりはないが、頼るべきは神ではなく人であり、自分自身だ。人事を尽くすことこそ、私たちにとって必要不可欠なことなのだ。
「そういうのは神主にでも任せておけ。我々の仕事は祈ることじゃなくて備えることだ」
「まあそうだけど、でも最後は神頼みしかってことはあるだろ? お前も無神論者ってわけじゃないだろうし」
「それは……そうだが」
確かに、こんなことを言いながらも神へ願いを祈ったことは幾度もあった。受験や公務員試験に合格するよう神社にお参りした時。2人の娘が無事に生まれることを、愛する妻の隣で祈り続けたとき。災害が発生し、これ以上の被害は発生しないでくれと対応に追われながらも天を見上げた時。
危機的状況に陥れば神のような存在に助けを乞い、天命を待ってしまうのは人間の性なのだろうか。
しかし……
結構間があいてしまって申し訳ないです。次回はもっと早めに投稿できると思います。




