第二話 山下の計画にアンダーライン
物語は数週間前に遡る。
場所は、綾坂中学校。
放課後で、本日の授業を終えた薫は帰宅部の帰宅部たる所以である、帰宅をするために昇降口に向かっていた。
クラブ活動に精を出したり、当番の掃除に割り当てられていたりする生徒たちがいる中で、薫はすれ違う彼らに適当に手を振られ、振り返し、挨拶をする。
それには同学年の生徒もいれば、後輩の生徒もいる。中には上級生、三年の生徒からも声をかけられることもあった。
しかし、今まではそんなことはなかった。薫がこの中学に入学してから一年と半年、校内における彼の他の生徒からの扱いは、あまり芳しいものとは言えなかったのである。
大抵は、廊下で他の生徒とすれ違っても、ちらりと一瞥される程度だったり、または薄ら笑いされるか、女子の生徒に至ってはひそひそと自分の噂をし、小さく手を振ったり、「かわいい」と頭を撫で、からかってきたりするものだった。
その態度が変わったのはここ一ヶ月ほどの間だ。
それには事情があるわけだが、その事情というのが、一ヶ月ほど前に行われた文化祭を巡る一騒動にある。
文化祭のとある一件があってから、彼の名前は一躍、学校中に知れ渡った。
それは正直、男としてはあまり名誉なこととも思えないが、間違いなくあの時の薫は演劇部の危機を救ったわけで、文化祭における全校の注目の的となったわけだ。
それは、良いことだろうと思う。
が、こうも学校中の人間から物珍しい視線を向けられるのは、やはりくすぐったい。そういった世間の熱というのは、放っておけばいつしか冷めてしまうのが常だが、こういう状況に慣れていない薫は、どうにもやり辛い空気を感じてしまうのである。
「はあ……」
まあ、それも少しの辛抱だろう。
薫は階段を下りながら、頭を切り替えた。
きっと昇降口にはすでに同じ帰宅部で、親友の堂野亮介の姿があるはずだ。彼のことを思うと心が弾んだ。
彼とはこの学校に入学したころからの付き合いで、親しい間柄である。
自分よりもずっと高い身長、物静かで、頭脳明晰、薫が厚い信頼を置いている人物なのだ。
きっと文庫本でも読みながら自分のことを待っていることだろう。あまり待たせるのもまずい。急ごう。
しかし、その途中、薫の目の前に立ちふさがった人物がいた。
「よお、薫君」
不快なほどに馴れ馴れしさを撒き散らして敬礼めいたことをしている少年だ。
あまり思い出したくはないが、一ヶ月前の文化祭において騒動の一つの元凶を作り出した人物という形容も出来る。
クラスメイトの山下だった。
「何か用か?」
薫はその小さな体全体で進路を妨害している少年に嫌悪の感情を示した。
「なんだよ、つれない顔するなよ」
それに気圧されたのか、彼の顔が引きつった。
「用はないんだな。じゃあ、帰る。またな、山下。達者で暮らせ」
駆け足でそう言って、彼の脇をすり抜ける。しかし、そうは問屋が卸さなかったらしい。がっしと細い肩を掴まれた。
「待てよ、親友」
「シンユウ? 誰のことだそれは。人違いだ。他を当たれ」
薫は彼の手を振りほどこうともがく。
「待て待て。堂野と一緒に帰るんだろう?」
「ああ、そうだ。だからここでお前と絡んでいる暇はない」
「いや、しかし、堂野と帰りたいなら、俺の話を聞く必要はあるぞ」
彼はふふんと鼻を鳴らす。
「どういう意味だ?」
これには薫、顔色を変えて動きを止める。何か不穏な空気を感じたのだ。
するとしてやったりと山下が下卑た笑い方をした。毎度ながら、本当に嫌気が差す。
「彼はすでに俺の手中にあるんだよ」
何を言い出すかと思えば、山下は片手を宙に伸ばし、ぐっと空を掴む素振りをして、そんなこと言った。
「はあ?」
「昇降口に彼はいない。俺がそこで薫を待っている堂野を捕まえて、ある教室に閉じ込めたからな」
「それで?」
「きっと、今頃泣いてるぞ。薫が助けに来ることを待っているはずだ」
彼は目頭を擦り、泣いている演技をする。その幼稚さ加減が、薫の癪に障った。
「お前、絶対頭悪いだろう?」
「今さら何を言う。ともかく、堂野は向こうにはいない。俺について来れば彼の居場所を教えよう」
「……」
不服だが、事実、堂野は昇降口には居なかったために、薫は大人しく山下に従った。
山下が向かったのは、二階の美術教室の準備室だった。廊下に掃除用具入れが無造作に設置されている細い通路の先にある。
準備室と言えば、大抵は専門教科の教師が使用することがほとんどで、普段はあまり入れないのだが、ここだけは例外だ。美術の教師だけはそこをただの物置としか使っていないのである。どうにもその教師は頻尿なのか、トイレが近くにあると安心できるとかいった理由で、校長にかけあった結果、他の空き教室を利用させてもらっているらしい。
まあそのため、ここだけは学校の人間ならば好きに利用できる。こそこそと隠れて密談するにはもってこいのスペースだ。
山下が先にドアを開けると、堂野は狭い部屋で椅子に座って本を読んでいた。
「あれ、薫」
「亮介、何でこんなところに?」
彼はぼさぼさと頭を掻く。
「いや、山下が薫がここにいるからって呼び出されたんだ」
はあ、と薫はため息をつく。山下が何かよからぬことを企んでいるのは明白だった。
こうして自分たちを人が来ない場所に連れてきたのだ。何もないはずはない。
「山下」
「なんだ?」
「用事はなんだ。すぐに済ませろ」
早く帰りたい一心で、薫は彼を急かした。
「もう、せっかちなんだから。今日は井上先生の声まねはしてくれないのか?」
山下は妙に色っぽい粘着性のある声をだした。ちなみに、井上先生というのは、若い女の先生だ。
しかし、薫は断固として了解するつもりはなかった。
「お前の頼みなんてまともに取り合えるかよ」
「はいはい。いきなりだが、本題に入りますよ」
それは彼も予想していたようで、壁際にあったホワイトボードを反転させる。
「諸君! 分かっているとは思うが、もうすぐクリスマスだ」
彼は街頭演説の政治家よろしく、ペンをマイク代わりにして、薫たちを順に指差す。さも、若者よ、そこにたむろしている場合ではないと、諭さんばかりだ。
「ああ、山下に指摘されるまでもなくな」
椅子に座って足を組み、堂野は冷めた口調で言う。
「ちなみに期末テストは明後日からだ」
「余計な補足はいらんよ、堂野君」
言いながらも、山下の額にじんわりと汗が滲んだのが分かる。おそらく、勉強は思い通りに捗っていないものと見える。
「問題はクリスマスだ。クリスマス、クリスマス。ああ、クリスマス!」
「山下、一度言えば分かる。それともなにか、お前は何度もそう言ってないと、クリスマスという言葉を忘れるのか? 馬鹿だから」
「……」
薫の突っ込みを彼は無言のまま受け流した。代わりにホワイトボードに「クリスマス」と文字を書き殴り、質問してくる。
「薫、クリスマスとは何だ?」
唐突で驚いたが、頭の中の知識を掘り返して答える。
「……キリストが生まれた日だろ?」
「はあ、お利口さんの面白みのない答えだな」
「でも、事実だろ。俺はそれを述べたまでだ。批判をされる筋合いはない」
「いいか、薫。クリスマスとは、聖なる夜だ。一年の内、年の最後を締めくくるに相応しい大きなイベントだ。町は賑わい、ツリーが輝き、靴下のプレゼントもある。分かるか?」
彼は口角沫を飛ばす勢いで話す。
「言いたいことは、なんとなくな」
「それで、続きは?」
堂野が先を促した。
「言われなくても、今からする」
山下が派手なジェスチャーを繰り出しながら、ホワイトボードの前を行ったり来たりしながら話しだす。
「それは、世界の恋する人々にとっても、それはそれは欠かすことの出来ない、一大行事だ。手と手を取り合い、頬を染め、一緒にダンス。クリスマスケーキに、宝石のような町の灯。プレゼントのリボンに、温かな暖炉……」
「はあ……」
「ロウソクの火を吹き消し、普段は言えない想いを打ち明け、愛を語らい、息を止め、見詰め合えばそれだけでいい! 聖なる鐘の音が二人の間を満たし、揺れ、こだまし、愛は燃え上がる!」
彼はそこまでまくしたてるように一気に喋った。
すると、その熱弁に感心したのか、堂野が拍手を始める。薫もなんだかよく理解できない、猛烈で凄まじい熱意を感じたので、手を叩いてやった。なんだか、今の彼なら総理大臣にでもなれそうに思ったから不思議だった。
「クリスマスのすばらしさを理解していただけたようだな」
「……半分、脅迫じみてたがな」
ぼそりと言った愚痴は聞こえなかったようだ。山下が高らかに言い放った。
「そこでだ、小野村薫。君に尋ねたい!」
「何だ?」
「君には、想いを寄せる女性がいるね」
百発百中の占い師さながらに不気味に声を潜ませ、彼は言う。薫の額に嫌な汗が垂れた。
いったい誰だよ。こいつに話をばらしたのは。
「それは、隣のクラスの、須藤君恵さんだ」
勢い余った山下の指が薫のおでこを突いた。
「痛っ……」
「どうよ」
「どうよ、ってどうよ」
「どうよ、ってどうよ、ってどう……止めよう。不毛な争いだ」
山下は口をへの字にして、肩を落とす。
薫はというと、胸の内に微かに舞い上がる甘い匂いに顔を逸らした。俯いて、鼻を擦る。
山下の言うとおり、薫は隣のクラスの君恵のことが以前から好きだった。あの鈴の音のような澄み渡った声が、あの優しい笑みが、自分にとって他の女性とは違う、特別なものに見えていた。
文化祭の終わり、後片付けの最中、彼女と二人きりになったときのことを思い出す。あの時の甘く、ほろ苦い想いをかみ締めた。
きっと誰が見ても、絶好の告白のチャンスだったに違いない。
が、薫はその千載一遇のチャンスを逃してしまっていたのだ。
あの時、薫は彼女とキス(お礼という名目ではあるが)までしたのに、である。それを思うと、胸が熱くなって、しゅんとしぼむ。
「いいか、薫。君はいつまで経っても煮え切らない。打ち明けるべき想いがあるのならば、可及的速やかに打ち明けるべきだ。胸の内にいつまでも押し込めているのは辛いだろう? 人間とは往々にしてとてもおしゃべりな生き物だ。その欲求に反して生活するのは、かなり大変なはず。どうだい?」
「う、うるせえ」
そんなことを山下に諭されたくはなかった。やるべきことを出来ていない不甲斐なさなら、充分痛感している。
しかし、
「簡単に出来るなら、そうしてるよ。でも、いまさらだし。失敗するかも……」
その不安が脳裏をちらついている。
「だろうな。不安になるのは分かる。成功のためにはそれなりの準備は必要だ。特に告白にはシチュエーションの準備だ。愛する人への告白を成功させるには、普段の学校の教室とか、車の排気ガスが舞う帰り道なんていうシチュエーションは不粋。いいか、薫」
「何だ?」
「だからこそ、クリスマスなのだよ」
山下がバシバシとホワイトボードを叩いた。
「山下、今のでクリスマスという単語の消費回数は十回だ。いくらなんでも使いすぎだと思うぞ」
妙なタイミングで堂野の突っ込みともいえない突っ込みが入る。山下が前につんのめりそうになった。
「そんな計算してたのか、堂野。どうでもいいだろ」
「どうでもよくない! 堂野だ!」
「いや、どう考えてもどうでもいいだろ」
「……俺も、どうやらそんな気がしてきた。どうも申し訳ない」
薫は心の中で数える。この二人、『どう』を、この短い会話で八回も使いやがった。どう《・・》かんがえても、韻の踏みすぎだった。
山下が首を振って仕切りなおす。
「とにかく、薫。チャンスはクリスマスだ。その日に彼女へ思いの丈を打ち明けてみてはどうだね」
これには、薫は意外な表情で首を傾げた。彼には珍しく、純粋に自分のお膳立てをしてくれようとしているのだろうか。
しかし、素直にそれを受けるのはプライドが許さなかった。こいつに借りを作るのは心底気持ちが悪い。そうなるくらいなら、現状維持でもいい。そう思ったのである。
「よ、余計なお世話だよ。そもそも誰だよ、こいつに俺が須藤さんを好きだって教えたの」
「薫が余計なお世話と言おうが言うまいが、すべての計画は決まっているのだよ。俺の完璧なスパコン頭脳によってね」
「お前、また妙なことをしてるんじゃないのか」
薫は唇を噛んで、彼を睨みつける。彼が計画という言葉を口にするときは、何かよからぬことが絡んでいるのが常だ。
しかし、彼は自慢げにこう言った。
「ふふん、聞いて驚け。実は、すでにクリスマスイヴの君恵嬢のスケジュールを俺が押さえているのだ」
「な、なにい!」
それは真か、と薫は自分の耳を疑った。しかし、驚いている薫の隣で、堂野は静かに首を振った。
「正確には違う。山下は彼女のスケジュールを押さえているわけじゃなく、ただ知っているに過ぎない。有川から呼ばれてるんだろ? クリスマスイブのボランティア公演の手伝い」
「何で、お前が、知っている?」
山下の口があんぐりと開いた。
「有川から聞いたんだよ。彼女から時々演劇部の二人目の副部長にならないかって、未だに話しかけられるしな」
「……」
「何でも、文化祭の後、罰で部の手伝いをしてて、小道具を壊したんだって? その分の貸しがあるんだろ?」
「どういうことだ。山下?」
沈黙したまま何も語らない山下に対し、読んでいた本をぱたりと閉じ、堂野が落ち着き払った様子で口を開く。このとき、彼の推理はすでに結論を導き出していた。
「つまり、お前はただ薫に、クリスマスに須藤さんに会わせてやるという名目で、引っ付いてくるであろう俺もろとも呼び出し、少しでも楽するために、一人でも多くイベントの手伝いをさせるつもりだったな?」
「そ、そうなのか。山下!」
彼の目が焦点を失う。明らかに堂野が放った矢は彼の目論見を射抜いていたようだ。無様に、足元から崩れ落ちる。
「どうやら、完落ち。正解と受け取っていいな?」
「じゃあ、亮介。こんな奴放っておいてさっさと帰ろうぜ。そんな面倒なこと、付き合ってられるか。自分の責任は自分で取れ」
四つんばいのままの彼を無視して、薫と堂野は立ち上がり、出口の取っ手に手をかける。別れの挨拶をしようとして振り返ると、山下は苦渋の表情のままこちらを見上げていた。
「それで、お前はいいのか?」
「はあ?」
「そうやって、一人寂しいクリスマスを過ごすのか?」
「……だったら、なんだ」
「確かに、お前らを俺の勝手な計画に巻き込もうとしたことは謝ろう。だがな、薫。このクリスマスイブ、彼女の近くに行ける切符を俺は持っている」
取っ手を引っ張ろうとした手が緩む。薫には確かに、彼の言葉が魅力的に響いたのだ。
「確かに、イベントでいろいろと雑用をさせられるかもしれない。でも、舞台裏で彼女に一番接近できるチャンスだぞ。これを逃せば、次はいつになるのかな? 恋の神様はそう何度も微笑んではくれないぞ」
「……ぐ、ぐう」
迫り来る山下の言葉に、今や薫の気持ちは大きく揺らいでいた。彼が自分たちを罠にかけようとしたことも事実だが、同時に、これが思いがけず舞い込んできたチャンスであることも事実だ。
「さあ、どうする。俺が差し出した手を取るか? はたまた、振り払うか?」
薫の隣に立っている堂野は興味のなさそうな顔で外を見ていた。
「どうする、薫君?」
薫は苦い表情で、歯軋りをして悩んでいる。地団太を踏んだ。
「……え、と……あ、こ、この……」
山下の目が獲物をみつけたトラのようにぎらつく。
「さあ答えを。か、お、る、君?」