最終話 聖夜の歌姫にアンダーライン 2
はい、物語も大詰めですね。
読者の皆様、ここまでお読みいただきありがとうございます。
一応予定では、次回で完結ということになります。
予定では明日、完結部分を更新するつもりです。
正直、この小説はきちんと完結が出来るか不安だったのですが、なんとか、ここまで漕ぎつけました。正直、息切れ気味です。でも、よく投げ出さずにがんばったな、オレ。
ええと、今回の部分、推敲が荒くなっているので、また今度修正すると思います。
いつの間にか村松は立ち去っていたが、しばらくしても、薫と君恵は言葉を交わさないままだった。
もちろん、声を出したところで問題があるわけではないが、お互いに先ほどの行為の気恥ずかしさに口を閉じ、目を伏せているわけである。
薫としては、ここでもう一度彼女に正式に告白をするべきではないかと考えあぐねていたが、いつまで経っても胸の鼓動が収まらず、踏ん切りもつかず、浅く呼吸を繰り返しているのみである。突拍子もない思い切った行動により、暴走してしまった脳内は、もはや冷静さの欠片もなく、建設的な行動の一切を妨害していた。
そもそもが、薫の中に秘めていた精一杯の勇気を全て使い果たし、見事底を着いた状態であったので、今からさらに、彼女に改めて告白するなど、体から魂を抜き取られるに等しいことである。
すると、そのまま沈黙が流れるうちに、周りの騒音に加えて、遠くから数人の慌ただしい足音が聞こえてきた。
君恵がふっと顔を上げる。
「あ、皆が来たみたい」
皆、と聞いて、薫は動揺を忘れ、目を向ける。すると、そこには公園に向かって走ってくる同級生と後輩の姿があった。
芦沢に山下、馬場に奥山、それから出来れば再会は遠慮願いたい演劇部部長、有川も来ていた。
「げ、やばい」
薫の眼前ではすぐさまSOS信号が点滅し、今すぐにでも君恵と逃亡再開と踏み切りたかったが、当の彼女は既に彼らに向かって小走りで駆けて出していた。もはや、全てを甘んじるしかなさそうだ。
「久美ちゃん!」
真っ先に君恵が有川に話しかけている。
「劇の方は?」
出し抜けの質問に、彼女は息を切らしながらも眼鏡の位置を直し、はっきりと答えた。
「無事、終了させたわ」
少女の顔がほころぶ。
「よ、よかったあ、どうなったのかと思ったけど」
薫も安堵した。何はともあれ、最悪の結果は免れたようだ。
「そんなことより、君恵」
有川が彼女を見つめている。
「え?」
それがいつになく優しげなぬくもりに満ちた眼差しであったため、薫は何事かと目を丸くする。
「あなたの気持ち、きちんと伝わったわ。ありがとう」
「え、ほん、とう?」
君恵が驚きに口を押さえていた。
「本当よ。歌姫はいつだって自らの悲劇的な境遇に、自分を見失うことはなかった。自らが周りに支えてもらっていることに感謝の歌を歌い続けていたのよね」
そして、
目を疑う。
あの有川が、君恵の前で、
頭を、下げた、のだ。
「私が、間違ってたわ。いろいろ、ごめんなさい」
薫には何が起こっているのか、一切理解できなかったが、君恵が、彼女に頭を下げさせるような、とんでもないことをしたのは分かった。唖然と口を開く。
しかし、そこで君恵はなぜか首を振った。
「違うよ、久美ちゃん」
「え、何?」
「気持ちが伝わってくれてうれしいけれど、私に謝ることなんてないの。謝るなら、迷惑をかけた他の部員さん達に一緒に謝りに行こう。私は、分かり合えただけで、満足なんだから」
「君恵……」
何も言わずに、自然に、どちらからともなく、二人が握手をする。
「ありがとう」
感謝の言葉がまるでイルミネーションの光のように有川の口からこぼれた気がした。
それが、二人の思いが通じ合った瞬間だったのだ。
この様子をその場の全員が眺めていた。薫も例外ではない。目を瞬かせ、唐突すぎる感動の和解シーンに自身に迫っているはずの危機を忘れていた。
と、
そこで、残酷にも有川と目が合った。
やはり、全てがこれで何事もなく終わるはずはないのである。
君恵をゆっくりと脇へ避け、真っ直ぐに薫に直進してくる。
そして、
「小野村君」
つい今しがたまでの素直な表情から一変、いやらしい顔で接近した。
「は、はい」
「あなた、やってくれたわね」
それが本気の怒りの表情ではなく、薄ら笑いでのご発言というのが、さらに怖気を誘う。理性がある怒りというものは一時的な感情の放出だけで終わらない、手の届かない底深さを持っていることがあるからだ。
薫は自分が群れからはぐれた一匹の子羊で、有川がそれを襲う牙の長い狼に変貌したかのような気持ちに苛まれた。
これから自分が煮て食われるのか、焼いて食われるのかを想像し、吐き気すらしてくる。
「か、顔が近いよ。もう少し、落ち着こう。お、穏便にさ」
「全くもって、予想外に劇をかき回してくれたじゃない?」
しかし、薫の願いは聞き入れられず、さらにぐいぐい彼女は身体を近づけた。もはや、逃げ場などないというように。
「そ、それはですね」
冷や汗が首筋を辿る。
ここではさすがに下手な言い訳は出来なかった。素直に謝るが一番だと判断した薫は、すぐさま、頭を下げ、
「ご、ごめんなさい。ど、土下座でも何でもしま――」
しかし、途中まで言いかけて、有川が口を塞ぐ。
「ま、今回のことは、臆病者の小野村君にしては、よく頑張ったほうじゃない?」
「……?」
「その度胸は褒めてあげてもいいわ」
突然態度を翻し、邪気なくにんまりと笑った彼女に、薫は言葉をなくした。
「とりあえず、もう終わったことよ」
「それで、いいわけ?」
お咎めなし、ということだろうか。
しかし、薫には、本当に彼女が今回のことをこれほどあっさりと諦めるとは思えなかった。なにしろ、彼女が今回こそはと必死に作り上げた演劇である。自らの目的のために手段を選ばない彼女がこれほど呆気なく、簡単に薫を許すものだろうか。
いや、そんな馬鹿なはずがない。いつもの彼女なら例え、薫が地球の反対側に逃げたとしても追って来て、責任を取らせるだろう。
しかし、彼女は言う。
「私が言うんだから、良いのよ。これで一件落着」
「で、でも、怒ってる、でしょ?」
さすがにいたたまれなくなり、おずおずと薫が尋ねると、彼女は急に顔に皺を寄せ、鬼の形相で睨んできた。
「それはもちろんよ。でも、今ここで全てをあなたにぶちまけて欲しい?」
「え、遠慮します!」
薫はぶるぶると首を振って、拒否した。
すると、やはりあっさりと有川は背を向ける。その背中は威圧的に真っ直ぐ伸びていたものの、薫たちに対する怒りの発露ではないようだ。
釈然としない気持を抱えたまま、しばらく薫は所在無げに立ち尽くしていた。
いつの間にか、君恵は後輩の馬場と吹奏楽部の芦沢から事件全貌の説明を受けているようで、もう一人の後輩、奥山はと言うと、有川となにやら話を始めている。そこに不穏な気配は感じられなかった。
どうにも納得がいかないが、事は穏便に終われそうだ。
しかし、薫には、もう一つ気になったことがある。今回の作戦の責任者である堂野の姿が見えないのだ。
いったい彼は今どこにいるのだろう。それを有川に尋ねようとして、背後から誰かに抱きつかれた。
「おい、小野村」
「何だ、山下か!」
ぐいぐいと無遠慮に人の頭を撫でてくる粗忽者には薫も覚えがあったのですぐに彼と認識できた。
「亮介は?」
と訊くと、彼はあからさまなため息をつく。
「何だよ、俺に対して一言も労いの言葉はないのか? お前は寝ても覚めてもすぐに堂野の話だな」
「ごちゃごちゃ言わずに、どこにいるのか話せ!」
薫は山下の拘束を振りきり、睨みつけた。彼はやれやれと肩をすくめる。
「大丈夫、無事だよ。すぐに来るから安心しろ」
「そうか、こっちに来るのか」
一安心、だな。
すると、山下がイタズラっぽく薫を見下ろす。筆舌尽くしがたい不快感だ。
「何だよ、その笑みは」
「いやな、言いたいことと訊きたいことがあるんだが……まずは、言いたいことだな」
「は?」
彼はベンチに座りつつ言う。
「小野村、何で有川が今回のことをこの程度で済ませてくれたと思う?」
気になっていたことだ。
「やっぱり、理由があるのか」
「それはもちろん」
「なんだ?」
彼は意味ありげに指を立てる。
「堂野だよ」
「亮介が何かしたのか?」
「いやあ、まあ、あんなことを有川に言い出すとは、夢にも思ってなかったし」
何のことだか意味が分からない。
「どういうことだ。もったいぶらずに言え」
「つまりだな、あいつは男らしく責任を取ったんだよ」
「責任、ねえ。だが、具体的じゃないな。要するに何をしたんだ?」
「小野村君、察しが悪いわね」
声がして振り返ると、そこには芦沢が立っていた。腕を組み、あきれたような半眼で薫を見ている。
「彼は引き受けたのよ」
「……何を?」
「だーかーらー」
「副部長さ」
突然、違う人物の声が現れ、肩に手が置かれる。
いったい、いつの間に現れたのか、薫の横に、すらりとした長身の少年が立っていた。
「り、亮介、お前」
驚いている薫を尻目に彼は淡々と説明する。
「それ以外にしっくりくる責任の取り方はなかったしな。何より、有川から頼まれてたことだ、一番納得してもらえると思ったんだ」
半ば夢うつつの状態で薫は驚愕していた。
「うそ、だろ?」
「残念ながら、嘘じゃない」
「だとしたら、冗談か?」
「申し訳ないが、冗談じゃない」
「じゃあ、夢か?」
「すまんが、夢でもないと思うぞ」
「じゃあ、幻覚、いや、やめよう。現実逃避は空しいだけだ」
薫は脱力して肩を落とす。
力を入れていないと、その場にしゃがみこんでしまいそうだった。
副部長だと?
演劇部の?
いったいどこから沸いてきた話だ。聞いていた気もするが、幾分、展開が唐突過ぎた。
「ま、そういうわけだ。薫」
「はあ……」
「言っただろ、俺は芦沢さんと違って部活にも入ってないし、無くすものはないって。だが、何にも縛られていないからこそ、これは逆に与えることが出来るってことだ。有川の欲しているもの、俺という人材を、な」
「……亮介って」
薫は少し冷静になり、半眼で見上げる。
「何だよ、その目は」
「本当に空恐ろしいよ。端からそれを計算済みで全てを引き受けてたってことか?」
彼は大仰に手を振った。
「そんなわけないだろう、それはあくまで責任の取り方の一つでしかない。もちろん、他の採算が取れない部分に関しては俺をこき使えって話してるんだ」
「それで有川が納得したのか?」
「まあ、彼女だって今回のことで周りに対しての非を認めてくれたし、それでチャラにしようだとさ」
「……」
しかし、彼はそこでため息をつく。
「だが、今回のことは少々いらぬお節介過ぎたかもな」
眉間の辺りを指で押さえながら、表情に影を作る。
「どうした?」
「俺は日々をのんべんだらりと暮らすただの帰宅部で、相手は多数の部員を統率している演劇部の部長だ。こんな自分が彼女に物申すだなんて、おこがましい話だと思わないか?」
「……確かに、そうだな」
ある程度こちらも被害を被ったことに違いないが、本来これは部外者の自分たちではなく、部内の人間が率先して解決すべき問題であるのだろう。薫は思う。
自分が出る幕ではなかったと、彼は考えているのだろうか。
しかし、彼の目の色は揺らいでいない。
「でも、彼女は、俺の言葉を聞いてくれた。俺はさ、それだけ彼女に信頼されていたってことだよ。俺は、それを実感した」
「……」
「それと同時に、彼女のために一生懸命になっている自分も強く実感したんだ。きっとこんな気持ちは初めてだな。それを知って、改めて、副部長をしてもいいと思った。彼女を支えてやりたいと思った」
そう話す堂野の表情はいつも以上に生き生きとしていて、薫は、何も言えずにその親友の横顔を、ただ見ていた。
そうか、
そうか、きっと彼と彼女はこれで互いの想いを伝え合えたのだ。
作戦は少々乱暴で強引だったかもしれない。憤慨されて、絶交されて、関係の全てを壊していたかもしれない。
けれども、それでも、彼らは本音の部分で向かい合うことが出来たのだ。
これにはきっと、堂野が必死さが伝わったのだろう、と薫は思う。
彼がいったいどんな風に有川に語りかけたのか、知らない。
けれど、それは有川の怒りを追い越し、間違いなく、彼女の心へと届いたのだ。
人の目に見えない彼女たちの信頼の糸に運ばれて。
そう思って、深呼吸三つ分の沈黙の後、
「……そうか、亮介がそう考えてたんだったら、俺はもう何も言わないよ」
と薫は静かな声で言った。
「薫……」
「でも、せめて俺に一言ぐらい相談してくれてもよかったんじゃないか?」
冷たい口調で言うと、彼はばつが悪そうに頭を掻いた。
「ああ、それは、ごめん。謝るよ」
「でも、本当に入っちゃうわけ?」
そこで訊いたのは芦沢だ。彼女は未だに信じられないらしく、訝しげに口を尖らせている。
「今まで帰宅部で本ばかり読んでいたあなたが?」
「今さら女々しく前言撤回、なんてことは言わないって」
「そうだよな、誰かさんと違って、亮介はいい加減な性格じゃないしな」
ちらり、と薫はわざと山下を眺める。
「薫、それは誰に向かって言ってる?」
「だから、誰かさんだよ」
「俺を見ながら言うことと何か関係しているのか?」
「さあな」
「……」
すると、なぜか無言で山下は薫を見ている。
「な、なんだよ。文句あるのか?」
「いやな、薫、こっちに来い」
「うん?」
山下は薫の首を掴み、公園の植え込みの傍にしゃがみこむ。そして、意味ありげに周囲を確認し、声を潜めてきた。
「今度は訊きたいことのほうだ。お前、俺が言ったとおり、きちんとやることはやったんだろうな?」
「やること?」
薫は首を傾げる。すると、彼はにやにやと笑みを浮かべながら薫の肩を揺さぶった。
「ここでおとぼけはなしにしようぜ、友人。やることっつったら、一つだよ。須藤さんにきちんと言うこと言ったのかってことだ」
なるほど、そういうことか。
「ああ、それはもちろん」
「言ったのか?」
山下の眼差しが期待に満ち、らんらんと輝いている。
しかし、
「肯定は、できない」
薫は言った。
「やらなかったってのか?」
口をあんぐりと開け、あからさまに彼は落胆した。その様子があまりにも大仰で気の毒になり、薫は首を振る。
「違う、もちろん、気持ちは伝えるだけ伝えたさ」
「つまり、告白したってことだな!」
「まあ、そう、なんだけど……?」
薫は曖昧に言葉を濁す。
告白ではなく、キスをしたなどとは、とてもじゃないが、口外できない。代わりに言うべき言葉を脳内に探すが、見つかる見込みは薄かった。どうしたと言えばいいのだ。
「なんだよ、微妙で釈然としねえな。はっきり言えって」
もじもじとしている薫に、山下は痺れを切らしたのか、不満そうに言う。彼はいつだってせっかちだ。いっそ白状してしまうかと、薫の心が折れそうになる。
「ええと、つまりだな……要するに……」
しかし、
「ああもう、そんなこと言わせるな!」
と暴発してしまう。
「何を怒ってる? どっちなのかって聞いてるだけだ」
「……」
薫は思わず、閉口した。
「気持ちは伝えたんだな?」
山下のしつこい追及。
「ま、まあな」
仕方なく首肯した。
すると山下が景気のよく手を叩いた。
「ようし、上出来だ!」
彼はとにもかくにも他人の色恋事が楽しいらしい。嬉々として薫に顔を寄せた。
正直、薫は友人として付き合うのはもう金輪際遠慮したいと思い始めている。
「それで、肝心の彼女からの返事は?」
彼は舌なめずりをするように訊いてくる。
「それは……」
もちろん、無言だったのだから、聞いているわけがない。返答に困惑する。
すると、そこで第三者が会話に割って入ってきた。
「あ、山下君と小野村君、そこで何してるの?」
「へ?」
振り返ると、須藤君恵だ。片方の眉を上げて、薄く微笑している。
「怪しいなあ、男二人で内緒話?」
「いや、これはだね」
山下が突然のことにたじろいでいた、無理もない、内緒で君恵の話をしていたのだから。噂をすれば影という言葉があるが、この場合、話を聞かれて影ではないか、と怖くなった。
寒気がする。
と、彼女がぐいと薫の腕を掴んだ。
「ねえ、小野村君、借りていい?」
「へ、え、と」
山下が目をぱちぱちとさせる。
「まだ話をすることがあるの?」
君恵の言葉には命令するような凄味はなかったが、どこか有無を言わせない気迫を感じさせた。悪友の頬が引きつる。
「う、ううん。もう、ないけど」
「そ、だったらいいね。向こう行こ、小野村君」
すると君恵は振り向き、穏やかな笑顔を見せてくれた。