第十一話 ラストシーンにアンダーライン 4
手が触れていた。
薫は意識する。
間違いなく、それは、君恵の掌だった。
薫は、それを、それと認識して、それをぐっと握った。それを、確かに掴んだのだ。
顔を上げると、そこには未だ君恵の戸惑いと驚きの混ざった顔がある。こみ上げる喜びの感情を堪えながら、薫は、力強く頷いた。
「お嬢様、行きますよ」
「私の、国に戻るのですか?」
薫には台詞があったのだが、この君恵の台詞はもちろん彼女のアドリブだった。
さすがは演劇部といったところだろう。
役を演じるとは、ただ覚えただけの台詞をその通りに喋ればいいだけなのではなく、どんな状況にも臨機応変に対応できる柔軟性を備えていなくてはならない。
「そうです」
その咄嗟の機転に応えるように、自信を持って薫も頷く。
「さあ、逃げますよ」
君恵の手を引く。一歩前に進んだ。
それは舞台の袖に向かってではなく、舞台の手前、客席側である。それがどういうことなのか、すぐに君恵には理解できたようだ。隣で小さく頷く。
会場からはその様子を見て、小さくどよめきが上がる。
薫は小さな騒ぎに臆することなく、舞台の淵まで歩み寄り、彼女と共に、飛び降りた。
宙に黒衣とドレスが踊り、着地する。
ここまでは万事良好。
さあ、これからが一仕事だ。
心の中で呟いて薫は息を吸い込むと、客席に向けて、大声で叫んだ。
「どいてくれ!」
その一言に、ざわめいていた観客たちが動きを止める。
「道を作ってくれ!」
堂野から言われた通り、もう一度叫ぶ。
すると観客達はこれを舞台と席が一帯となった一つの演出と思ったらしく、互いに顔を見合わせつつ、座席間のスペースを狭めようと立ち上がる。じりじりと通路の幅を広めてくれる。
一本の逃げ道が目の前に出現した。
よし。薫は拳を強く握る。
「どいて、どいて」
そう言いながら、薫は君恵の手を引いて走る。有川が集めた観客たちの間を、波を掻き分け走る船のように、薫は突っ切った。
その間、観客たちの反応など見ていられなかったし、背後の君恵も、そのまた背後の舞台にも、注意を向けることはなかった。舞台がどうなっているのか、これから劇はどう終了するのか。薫は知らされていなかった。
しかし、後は、堂野が全てを上手く終わらせてくれる。
それだけの情報を知っていて、それで充分だった。
薫がこれからすることは二つ。
会場から出る際に、舞台に向かって一礼すること。
それから、君恵を連れて、とりあえず安全な場所まで逃げること。
ただそれだけで、これが、最重要な任務だった。
勢いのついた姿勢のままで、薫は急ブレーキをかける。
目の前が体育館の入り口だった。身体を停止させ、彼女と手をつないだままで、客席に向き直る。
息を整え、頃合いを見計らって、薫は君恵に囁いた。
「礼をするよ」
「え?」
驚いている彼女に構わず、薫はお辞儀をする。すると、君恵は咄嗟に対応してくれたらしく、ドレスの端を持ち上げ優雅なお辞儀をした。
そして、一瞬の沈黙の後。
割れんばかりの喝采が、観客から送られた。あまりのことに、薫は最初、何か爆発が起こったのかと思った。
あれ、会場には爆弾が仕掛けられていたのだっけ。
しかし、それが違うと気付いて、呆然とするのもつかの間、ふいに目が舞台にいった。
そこでは先ほどの王子役の少年が、家来に何かを命じている。
おそらく二人を捕らえろ、とか、そういう類のものに違いない。
「おい、逃げろ!」
唐突に、誰かが叫んだ。
声の出所は定かではなかったが、観客の誰かであることは分かった。
続けて、
「早く!」
少女の声。これまた、観客席からのものだ。
「追いつかれるぞ!」
薫の知らないうちに、吹奏楽部の演奏が始まっている。クライマックスに向けて疾走感のある、合奏だ。
きっと芦沢はほくそ笑んでいるだろうな。
そんなことを思い浮かべながら、口元を引き締める。
まだやることは残っているのだ。
「須藤さん、また走るよ」
薫の言葉に、君恵は目で頷いた。そこには、先ほどの戸惑いは微塵もない。
「うん。私のことを、守って」
これはアドリブなのか?
驚きつつも、
「お任せあれ!」
と、薫は答えていた。
声援を受けながら、薫は汗ばんだ手の平をまた強く握りなおす。それに応えるように、君恵も握り返してくる。
どうしようもなく、胸が高鳴った。叫びたいほどに、うれしかった。
このまま、彼女を誰も知らないところまで、連れ去ってしまおう。
彼女の手を握ったままで。
老人は笑っていた。
「これは傑作だな」
いったいどのような事情があったのかは知らないが、それはなかなかに奇妙で、そこそこに滑稽で、存外に意外だった。
数分前のこと。
やや、なにやらハプニングがあったようだぞ。
と老人は異変に気がついた。
劇中に、いきなりナレーションが入った時である。
他の演技者たちは泰然と劇に集中していたが、主役である須藤君恵を注視していた老人は、彼女の目が一瞬泳ぎ、顔つきが驚きを示したことを感じた。
その後も、平静を装いつつも周囲に忙しなく彼女が視線を動かしていたことや、舞台に登場した黒衣の少年の顔を見るや、さらに困惑の色を濃くしたことを見て、確信した。
「面白いこともあるものよのう」
そして、今、その少年が、君恵の手を握ったまま場外へと消えた。
「現実が虚構を喰ったかよ」
老人は茶化すように言う。
「いや、それとも、あの少女の思いが勝り、全てをあるべき姿に戻そうとする力が働いたか」
そう思って、もう一度笑った。
「若い者はこうでなくてはな。この老いぼれに、面白いものを見せてもらった……さて、後はあの部長にやるべきことがあるか……」