第九話 癒しの歌声にアンダーライン 1
前書き、書こうと思って忘れてました。
ええ、なんだか少し前に、「こっからが佳境だ!」みたいな話をした気がするのですが、ちょっとまだそういう雰囲気の話には行けそうではありません。
前作では、クライマックスの辺りで勢いがつきすぎて、なんだか物足りない終わり方をしてしまった失敗を踏まえ、今回はもう少しじっくり落ち着いて攻めてみようかと思っています。
そのために、君恵さんの話を少し、入れてみました。
『聖夜の歌姫』
物語の舞台は、一年の大部分を雪に閉ざされた、とある小国。
幼き頃、親を亡くし、天涯孤独の身となった少女リースはあるとき、奴隷としてその国へ売られてくる。
その後、彼女はすぐに大きな商屋の召使いとして買われることになるのだが、失敗が多く、役立たずだと、ものの一月も経たないうちに屋敷から追い出されてしまう。
食べ物を買う金もなく、その日の寝床もないリースは、空腹のまま冬の町をさ迷うことを余儀なくされ、ついに町外れの家の前で力尽き、行き倒れる。
幼き少女の命もここまでからと思われたとき、そんな彼女を救ったのは、家に一人で住んでいた若き音楽家の女性だった。彼女は少女を手厚く保護すると、家事を手伝わせる代わりに、家に住まわせることを約束する。
贅沢などは出来ないが、家族といたころのような楽しく過ごす日々に、リースは、その音楽家と心を通わせ、汗を流して働いた。
そんな折り、音楽家の女性が弾くピアノに合わせて歌を歌い始めたことがきっかけで、彼女は歌の才能に気がつく。
彼女の歌唱力は高く、癒しの力があると言う噂は瞬く間に町に伝わり、毎日のように酒屋や広場で歌うようになった。
時が流れ、いつしか、その噂はその小国を統べる王城にまで伝わる。その話を聞いた王子はその歌声を是非聞いてみたいと、少女は城に招かれることとなり……。
老人は体育館の隅の椅子に座りながら、パンフレットの劇のあらすじに目を通していた。屋内は暖かく、快適な温度で、綺麗に整列したパイプ椅子が並んでおり、そこに座った入場客の談笑の声で満杯である。目の届く範囲で、空いている座席は手前の数席以外、見当たらない。
その椅子もたった今入ってきた女性のグループで埋まった。入り口付近でそれを確認した演劇部員が、今度はすぐに予備の椅子を抱えて飛んでくる。
なかなかやりおるな、あの娘。
老人は自身の計算の上を行く状況に、どこか陶酔しているように少し上を向いて顎鬚を撫でる。
まさか、本当に満席にしてしまうとは。わしとしたことが、少々見くびっていたようだな。
「しかし……」
老人は一人つぶやく。
上演までもうあまり時間も残っていないというのに、あの少女は見当たらないな。
数十分前、老人は演劇部の部長である有川久実の姿を、この場所で何度も見かけていた。他の部員と共に、準備のため、あちらへこちらへと忙しなく走り回っていたのを確認していたのである。だが、一度コートを羽織り、入り口から外に出て行ったと思ったら、それっきり姿が見えなくなってしまった。
よもや、問題でも発生したのだろうか。一抹の不安が胸をよぎる。
とはいえ、彼女のことだ。
老人は考え直す。
多少、予想外の事態が発生していたとしても、持ち前の機転によってたちどころに解決しているはずである。
きっとこれも杞憂に終わってしまうのだろうという楽観的な思いがありつつ、しかし、それでも気になってしまうのが老婆心というものだ。彼の足は自然と体育館の入り口へと向かう。
温かい空気が途切れ、下足棚が並ぶ、狭いエントランスが見える。大きく開け放たれた玄関口には簡易的な受付が設けられており、数名の生徒が会場を訪れる客にパンフレットを配っていた。
こちらに声をかけるの仕事の邪魔になるか。
そう判断した老人は脇の通用口から外に出る。
すると、冬の凍てついた空気が服の裾から一気に流れ込み、老人はたまらずくしゃみをした。
「ふう……今夜は冷えるな」
上着を持ってきて正解だったと微笑むと、ふいに、エントランスの明かりが漏れ、足元の石段に誰かが腰掛けているのに気がついた。
はっと動きを止めると、ドアが開いたことに気がついたのか、くしゃみに反応したのか、その誰かが振り返って顔を上げた。
「あ……」
座ったままの少女が驚きを声にあげる。
「こんばんわ、お嬢さん」
老人は紳士的に丁寧な会釈をし、彼女の隣に立った。
「こ、こんばんわ」
「うむ、誰かと待ち合わせ、かな?」
「いえ、別に約束とかじゃないんですけど。ある人を、待ってまして」
すると、少女の黒い瞳がふんわりと蛍光灯の色を灯す。老人にはそこから、どこか純粋な一途さが持つ確かなぬくもりが垣間見えた気がした。
「しかし、こんな場所で待っていては風邪をひいてしまうぞ。せめて、中に入ってはどうかね?」
「いえ、ここで待っていないと。中に入れば演劇部の誰かに見つかって、舞台裏に引っ張られてしまうと思うので」
「ふむ、演劇部の子か」
それならばと、老人は自分が羽織ろうと思っていた黒のコートを彼女の肩にかける。
「え、これ……」
「せめてそれだけでも着ておきなさい。歌姫さん」
さりげなく老人が言うと、少女が礼を言おうとした口が途中で止まり、瞳が大きく見開かれた。そして、すぐにコートの下の着ている服装を確認した。おそらく、「歌姫」というイタズラ書きが、どこかに貼りつけられているのではないかと勘違いしたようである。
しかし、当然のことながら、老人はそんな馬鹿正直な掲示物を参考にしたわけではない。
直に、何もないことが分かったようで、彼女は不思議そうに訊いてくる。
「……どうして、それが?」
「なあに、演劇部だと聞いてな、それで、もしかすると劇に出演する子ではないかと推理したわけだよ」
「でも、どうしてそれで、歌姫役だと?」
訊かれて、老人は何か音楽の音色に耳を澄ませるように目を閉じてから息を吸うように言った。
「君の声がとても綺麗だからだよ」
「……え」
「まるで聖夜に響き渡る鐘の音のような透明で、伸びやかで、それでいて温かい美しい声をしているからだ。それで、君が歌姫役なら、とても適役だと思ってね。少々願望交じりな推測ではあったが、見事的中したわけだ」
すると、呼吸が止まるように、何かに射抜かれたように、少女の瞳が一点を見つめて静止した。知らず、コートの上に置いていた手に力が籠もったようで、皺が寄っている。それがあまりにも大げさな反応に見え、老人はどうしたものかと疑問に思った。
「何か、気に障ったかね?」
しかし、少女はすぐにかぶりを振る。
「いえ、そうではなくて、『同じ』だったから、びっくりしたんです」
「同じ、とは?」
「私が待っているその人も、同じことを言ってくれたんです。私の声がきれいだって」
「ほお……」
老人は感心したように顎髭を触る。そして、少女の遠くへ向けられた瞳を覗いてから、周囲に響くような豪快な笑いを見せた。
「ハッハッハ、まさか、こんな失笑を買いかねない浮ついた台詞を、他にも口にした気障な男がおるとはな」
「え、え、どうして男って」
ふいに、少女の白い肌にぽっと朱がさしている。すぐに老人は、長年培われた鋭敏な勘から淀みなく返した。
「君のその初々しい反応をみておればすぐにそれと気がつくものだ」
「初々しい、反応ですか」
「老人の目はごまかせんよ。さては恋人かね?」
「そ、そういうわけじゃ、ないです」
老人はその返答にこみ上げる小さな笑いを禁じえない。
彼女はこう言っているが、彼女がその男性に好意を抱いていることは間違いないな。ま、さらにからかうは止めておこうか。
「ところで訊ねたいのだが、演劇部の部長さんはどうしたね?」
「久美ちゃん、ですか?」
「そうだ、有川久実さん。先ほどから彼女を見かけないのだが、ずっとここにいたのなら、どこに行ったかは知らないかね?」
「いえ、私は知りませんけど。もしかして、泉田中学校の校長先生ですか?」
「ああ、そうだ。だから、彼女とは是非、上演前に一度話をしておきたかったのだがな。まあ、忙しいのだろう、邪魔しないでおこうか」
すると、少女の顔にどこか寂しげな影が差したのを見逃さなかった。以前に比べて視力は衰えたとはいえ、こういう微妙な人間の表情の機微には敏感になったものだな、と老人は楽しげに思う。しかし、今はそんなことを考えるべきではない。
彼女に何かあったのだろうか。
すると、少女は横目で老人を見た後、逡巡したようにためらいがちに口を開く。
「あの、変なことですけど、聞いて貰いたいことがあるんです」