第六話 君恵と千葉にアンダーライン 2
「須藤さん、ここにいたのね。お久しぶり」
「あ……お久しぶり、です。芦沢さん」
一先ず笑顔で挨拶を返しながら、君恵は困惑を胸の内に隠した。なぜ自分が彼女から話しかけられるのか、理由が判然としなかったのだ。
確かに、例の文化祭の件で、芦沢も関わっていたことは知っているが、君恵と彼女の間では特に親しく話をすることもなく、その後も特に接点はなかった。ただ見知った顔同士だから様子を見に来たのだろうか。
しかし、部長の彼女が演奏の準備もろくにせず、今、わざわざ自分を探しにくるとは考えにくい。
すると、彼女は目で隣の男子部員を追い払った。
君恵は確信する。やはり、ただご機嫌伺いに来たわけではなさそうだ。
「何か、私に用ですか?」
「ああ、あなたに用というよりも、あなたの周りにいるかもしれない人に、ちょっとね」
「はい?」
君恵は何を言われているのか、ピンと来ない。
「今日は、小野村君とか、堂野君、やまし……じゃない。あの人たちはいないの?」
「え?」
「今回の劇に、彼らも参加するらしいって聞いてたから」
彼女は小首を傾げて聞く。どうやら彼女の目的は彼らにあったらしい。
君恵は首を振った。
「確かに、今回の劇では手伝ってもらうことになってるけど。今日は、いないよ。当日にチラシ配りを手伝ってもらうことになってるの」
それを聞くと、彼女は気の毒そうに、というよりもどこか楽しげに驚いた。
「小野村君たち、チラシ配りなんてさせられるの?」
「うん、久美ちゃんがそうさせるって決めちゃってて」
「へえ、寒空の下でかわいそうにね」
そんな言葉を彼女はあまり感情を含ませずに言う。有川ほどではないが、君恵に彼女の反応は、淡然としていて、冷ややかに見えた。
「でも、とにかく参加するって話は本当なのね」
「うん、本当だよ」
彼女は小刻みに頷いて、何かを考えている素振りをする。君恵にはよく事態が飲み込めないが、どうやら彼女はその情報の真偽が確かめたかったらしい。
しかし、それとは別に、君恵には一つだけ腑に落ちないことがある。彼女の先ほどの言動だ。
「あの、どうして私の周りに小野村君たちがいるって思ったの?」
すると、彼女はそんな質問をされると思っていなかったのか、きょとんとした後に口を開く。まるで、本当に知らないのか、という様子で君恵をまじまじと見た。
「だって、小野村君は、あなたのことを……」
「わ、わたしのことを?」
「……」
と、突然に言いかけて止まった彼女は、先を話すかどうか逡巡したようで、結果としてそっぽを向いた。
「……なんでもないわ」
「え?」
「ともかく、それだけ聞ければ十分よ。私は、そろそろ戻るから」
「あ、ちょっと待って」
舞台の外へ向かおうとする彼女を、君恵はふと思い立って呼び止めた。
「何?」
「あ、あのう、芦沢さん」
先ほど久美と対峙し、火花を散らしていた彼女の姿が蘇っている。それを考えて、君恵にはどうしても言っておきたいことがあったのだ。
「何?」
「芦沢さんに、謝っておきたくて」
すると、彼女は目を丸くした。意味が分からないようで、下唇を噛んでいる。
「謝る? どうしてあなたが? 何を謝るの?」
君恵はおずおずと頭を下げる。
「く、久美ちゃんの、こと。今回は突然にイブに劇での演奏をお頼みして、怒ってらっしゃいますよね?」
「……まあね」
意外にも彼女はあっさりと言った。答えは肯定であったが、その口調に怒りの熱は含まれていない。もしかすると、いまさらどうでもいいと思っているのかもしれない。
君恵は推測するが、しかし、そうだとしても、ここはきちんと謝らなくては。
毅然とした顔で君恵は彼女を見つめた。
「私、久美ちゃんの友達として、あなたに謝ります。今回は演劇部の勝手なお願いで、吹奏楽部までわがままを聞いてもらって、ごめんなさい」
「……須藤、さん?」
「私、吹奏楽部の演奏のことが決まった後で知ったので、彼女を止める暇がなくて。えっと、言い訳のつもりはないんですけど。その、本当に、ごめんなさい」
芦沢はしばし無言で頭を下げた君恵を見ていたが、やがて、落ち着いて諭すように口を開いた。
「……友達として謝るのなら、その必要はないわ」
「へ?」
君恵は顔を上げ、彼女の言葉に首を傾げる。
友人としてなら、謝る必要がない?
これはいったいどういうことなのだろう。
すると、芦沢は人差し指を立て、話し始めた。
「私は今回、吹奏楽部の部長、部の代表として、話を受けた。そして、代理の奥山さんではあったけれど、話を持ちかけたのも演劇部の部の代表である有川さんからのもの。これは分かるわよね」
「う、うん」
「つまり、これは部と部問題であって、だからそこで『友人として』謝るとか、そんな話じゃないの」
「部と部の、問題?」
すると、芦沢は目を細めて、とんと君恵の胸の上に人差し指を置く。
「今回の件で演劇部がいろいろと周囲に不和を抱え、それを問題と捉えているのなら、あなたが対話すべきなのは、私じゃない。有川さんよ」
「久美ちゃんに?」
「一部員として、部長のやっていることに納得がいかないのなら、きちんと彼女と話をして、それで、演劇部として謝りに来るなら、謝りに来なさい」
君恵は胸にずしんと重りが落ちたように、感じた。
確かに、ここで君恵が勝手な判断で彼女に謝ったところで、彼女にとってはそれがどうした、ということなのだろう。これは君恵という個人のレベルで解決できる問題ではないのだ。
でも、それを君恵だって心の奥では分かっていたのではないだろうか。
自分の考えを伝えるべきなのは、久美なのだ。
しかし、それにしり込みをしている自分がいることを君恵は認識している。
なぜなら、彼女と演劇のことで対立したくはないという切実な気持ちがあるのだ。
彼女と穏やかな関係を望むあまり、一線を踏み越えられないでいる。
他の話題でならば問題なく話せるというのに、こればかりは歯がゆい感情を禁じえなかった。
「……わ、わたし」
そのもどかしさを見抜いていたのか、芦沢が言った。
「彼女に、話にくいんでしょ?」
否定は出来なかった。
「……う、うん」
「まあ、謝罪なんて今でなくてもいいし、別に来なくてもいいわ。彼女にも言ったけど、一度引き受けたことだし」
帰るつもりなのか、くるりと彼女はきびすを返す。
「でも、あなたが彼女のことを思うのなら、きちんと、嫌なことでも、言い合える仲にならないとね」
「そ、そうだよね。わたし、久美ちゃんの友達としてまだまだだね」
すると、しゅんと項垂れた君恵を見かねたのか、突然に芦沢は自身の演説を申し訳思ったようだった。急に頬を真っ赤にして俯く。
「あ、え、偉そうなこと、言っちゃったわね。わ、私だって、そういう人間関係を築けてるかっていうと、そうじゃないと思うし。むしろ、避けられてばっかりだし」
「芦沢さん」
「こ、これは、あくまで理想の話よ。そうよ、そうなの。だから、そんなに深刻に捉えないでもいいんだから、ね」
手を大げさに振って彼女は必死に自分を元気付けようとしている。
君恵にはそれが新鮮に見え、ずいぶんと可愛らしい表情をするのだと、ほほえましく思った。
そのおかげか、緊張し暗くなっていた気持ちが少し上向いた気がする。
自然に笑える余裕が出来た。
「うん、分かった」
「……ふう」
「ふふ、でも、芦沢さんって、そこまで考えてくれるなんて、とても優しい人なんだね。正直もっと怖い人かと思ってたから」
すると、今度は褒められたのがうれしかったのか、それとも予想外だったのか、彼女はさらにあたふたと狼狽する。
「や、や、優しくなんてないわよ。ただ、私はあなたたちの部のことを思って……」
「ほら、やっぱり、私達のことを思ってくれてるんだ」
「あ、あう……。と、ともかく、そろそろ時間だわ」
「あ、本当だ」
舞台袖の時計の針は練習再開の時間を指している。じきに久美が集合をかけるだろう。
「じゃあ、これで。須藤さん、主役なんでしょ? がんばってね」
「うん。芦沢さんも演奏よろしくお願いね」
君恵は逃げるように持ち場に戻っていく彼女に手を振る。
なんだが、芦沢さんとは仲良くなれそうだな。
そう思って、自身がこれから踏み出す舞台に向き直る。
リラックスした気持ちでゆっくりと深呼吸をし、久美が指示を出すのを待つことにした。