後編
僕は目を開けて太陽の白色光で飽和した“ETOs”の景色を眺めた。足下に広がる豊潤な湖面と、そこに映し出された見覚えのある山脈。顔を上げると、目の前には故郷にある真登山脈が広がっている。
これは映し鏡だ、と僕は自分に言い聞かせる。この空間に固有の景色なるものは存在し得ない。ただ、アクセスするアバターの脳波から最適化された景色を表層に投影しているに過ぎないのだ。そうなるように、十三年前に僕自身がプログラミングした。
「ヨウコソ、【曙】サマ」
案内役の音声が何処からか聞こえる。僕は設定画面を開き『案内のヘルプ』を「OFF」に設定すると、僕が〈万能鍵〉と呼んでいる管理者用の鍵を右手に顕現させた。
「今から行くよ」
左側の森林地帯に版画で切り抜かれたような扉が現れた。僕は扉に近づくと、鍵穴に鍵を差し込もうとする。
「コッチヘ、キテクレルンダ。ウ……ウレ……シイ」
「……案内の音声はOFFにしたはずだが」
「ハヤク、ハヤ……ク、コッチヘ」
「もうそこまで……なるほどな」
案内役の音色を通して伝えられるグエンの“声”に、僕はうんざりしながらも応じた。
「安心していい。すぐに、終わらせるから」
僕は扉を開き、果穂に指定された座標へと入ってゆく。まず目に飛び込んでくるのは夥しい純白の奔流。ありとあらゆる情報や記憶が白い耀きを帯びたまま縦横無尽に飛び交い、交叉し、混淆する場。そしてここは、僕が“ETOs”を構築する上で一番最初に設計した区画でもある。言ってしまえば“ETOs”全域を駆動する心臓部だ。
「ワタシハ、アソコニ、イル。ズット、アナタヲ、マッテイタ」
僕の視界が一気にズームアップする。ここから前方約180mrt先で、グエンの灰色に覆われた実体の一部が蠢いている。
「なんだか、気味が悪いな」
僕は苦笑いを浮かべたまま、グエンに向けて加速した。近づくにつれ、グエンの持つ輪郭の不明瞭さがより明確になってゆく。
それは、一言で言うと怪物だった。
灰煙に覆われた巨大な生命体。余りにも大きすぎて、それが人型をしているのかさえも定かではない。途方もないサイズの灰塊は、万の蠅が集合体となって犇めいているかのように波打ち、揺蕩う。その巨躯の細部に目を凝らすと、データの微小単位が瓦礫のように無造作に組み合わさっているのが見て取れた。
「グエン……君が、僕か」
「ソウ。ワタシハ、アナタガウミダシタモノ。ソシテ、アナタジシン」
僕はグエンの持つ輪郭に目を遣る。その瞬間僕は、全てを察した。
「やはりそうか……君は、ただ事物を破壊し、消滅させているのではなくて、創造しているんだね。触れるもの全てを変質させ、書き換えている」
「ソウ。スベテハ、アナタノタメ」
僕は小さく首を横に振った。
「“ETOs”の秩序を保つためには、確固たる輪郭を持っていることが何よりも重要だ。明瞭な区別が出来るからこそ、この空間を識別し、定義できる。君はその輪郭を持たない。だからこの空間にとって君だけが異質で、危険だ」
「イシツナノハ、ワタシデハナク、アナタ。アナタダケガ、コノバショデ、ヒトリダケチガウ。トクベツナ、ソンザイ」
「……」
グエンはこうして話している今も、“ETOs”のプログラムを書き換え続けている。グエンの接している座標、そしてグエンの通った軌跡上にある全ての要素が一瞬にして粘土のようにドロドロに溶解し、グエンの思うままに再構成されていく。再構成された要素はグエンの体の一部と成って、蠅のようにグエンの周囲を取り巻き始める。僕も【曙】による〈理論武装〉を装備していなければ、今頃グエンの一部となっていたことだろう。僕に残された時間は多くない。この〈理論武装〉がグエンの流動化を押しとどめていられる時間にも、限りがある。
僕はシステムツール画面を表示すると、〈終局プログラムの開始〉と書かれたボタンを押した。
「グエン。残念だけど、僕は今から、【曙】の権限を君に行使する」
「絶対に駄目」
僕はグエンを見て、そのまま数秒間静止した。目の前の情報を正確に処理するのに時間が必要だったのだ。僕の視線の先、グエンの腹部と思われる部分から、灰の障壁を突き破るようにして、巨大な〈果穂〉の頭が突き出ていた。
「あなたはそうやって、直ぐに自分を犠牲にしようとする。でも今回だけは駄目。それを使ったら最後、あなたもこの世界と一緒に死んでしまう」
巨大な頭部が表情豊かに僕に語りかける。
「考えてみて。“ETOs”はあなたの生物学的情報を元に構築され、拡張された。いわば、あなた自身なのよ。あなたは自分自身の未来に、自分自身の手で、終止符を打とうとしている。そんなこと、私がさせない」
僕はグエンの体内から飛び出た〈果穂〉が語りかけてくる今の状況を、長い時間をかけてゆっくりと飲み込んだ。何度か深呼吸をし、幾分か冷静さを取り戻すと、僕はゆっくりと語り始めた。
「……僕はこうなることをずっと前から予期していたよ」〈果穂〉は驚いたように目を見開く。
「“ETOs”の原型を何にするのか、それが一番の課題だった。なにせ新しい世界を一から創り出すんだ、原型となるものには、常に完璧で、論理的で、包括的であることが求められた。僕は、共同開発者だった羽瀬川拓杜と何度も何度も議論を重ねた。でも、いくら探してもそんな理想的なものは見つからなかった。だけど唯一、“ETOs”の原型として機能する可能性を秘めたものが見つかった。それが、ヒトだ。僕は僕自身を鋳型として、この空間を立ち上げた」
「そうね。だからあなたは、特別なのよ」
「ダカラ、ワタシガ、ウマレタ」
僕はグエンの声に答えることなく続けた。
「当たり前のことだけど、ヒトの生物学的特性には数え切れないほどの欠点がある。そこだけに着目すると、“ETOs”の原型とはなり得ないように思えるだろう。だけどね、グエン。ヒトには、類い希なる自己修正能力があった。僕は、その秘めたる能力に甚く魅了されたんだ」
僕は右手で少し薄くなってきた頭部を掻いた。グエンも〈果穂〉も黙ったまま僕を凝視している。
「ヒトの自己修正能力があれば、今ある欠点はすべて解決可能かと思われた。“ETOs”がより良いデザインを自己創造するのではないかという、淡い期待すらあった。でも、それでも拓杜はその計画に反対していた。彼が反対する一番の根拠となっていたのが、皮肉なことにその自己修正能力だったんだ」
「……ヒトの持つ潜在能力についてはいまだ謎も多いからね。でも結局、あなたは拓杜先生の意見には耳を貸さなかった」〈果穂〉は冷たく言った。僕はそれは違うと首を振る。
「確かに僕は、この開発計画を最後まで譲らなかった。僕にとって“ETOs”開発は既に、僕の存在意義だったから。だけど僕にも、自己修正能力の裏返しとも言える不確実性は脅威だった。僕も彼も、予測できないその性質を共に危険視していた。だから僕は、拓杜にこの計画を認めてもらうのと引き換えに──」
「引き換えに?」〈果穂〉は怪訝な表情を浮かべる。
「彼に、そしてこの世界に対して、一つの誓いを立てた。もし万が一、“ETOs”の存在自体を脅かす癌のような存在が現れた時には、僕が、終末プログラムを組み込んだ【曙】を行使して、この世界と共に心中すると。そして、今僕の手元には、この世界を強制終了させるスイッチがある」
「よく考えてみて。現実世界とこの世界は既に不可分と言っていいほど密接に連携している。この世界が崩壊すれば、元の世界も崩壊してしまうのよ」
「そうだよ」僕はそこで初めて〈果穂〉の目を見た。
「でもグエン、君にこの世界の手綱を握られるよりはよっぽどマシだよ」僕は肩をすくめてみせる。
「君は僕がさっき言ったように、猛烈な勢いでこの世界の情報を書き換え、新しい文脈で作り替えている。このまま放置すれば、僕の世界は確実に僕でないものへと置き換わっていくだろう。もう既に、何かをやり直すには手遅れなんだよ」
「何故?何故そこまで言い切れるの?」〈果穂〉が声を荒げた。鏡に映る、記憶の中の果穂。
「もしかしたらまだ、間に合うかもしれないよ。グエンの侵攻が終わって、これから縮小しはじめる可能性だってあるし。もし仮にこの世界が少し書き換えられたんだとしても、あなたが無事ならそれでいいじゃない。私は、あなたに生きていて欲しいの!」
〈果穂〉の整った輪郭が歪んでいく。
「もう間に合わない。君の今の言葉を聞いて、それが確信に変わったよ」
僕は〈終局プログラム〉の選択肢として画面に表示された〈抹消〉に手を伸ばす。
「グエン、もう彼女を映し出すのは止めてくれないか。君の魂胆は見え見えだよ。だって、君の原型は僕なんだから」
僕は少し笑った。佐倉果穂を象っていた頭部は灰に覆われ、見えなくなってゆく。
「お別れだ。グエン」
グエンを取り巻く蠅の羽音が増幅してゆき、断末魔のように膨れ上がってゆく。
「待ってくれ!お前は勘違いをしているんだ!」グエンの醜い腹部から今度は〈拓杜〉の顔が突き出した。
「グエンは既に内部に新しい世界を構築している!元の世界とは全く別物だ。この意味が分かるか?例えお前が“ETOs”内の全ての要素を統制できる【曙】を使っても、既に“ETOs”の理から外れたコイツには、何も通用しないってことなんだ!だからお前のやろうとしていることは、絶対に成功しない。引き返すんだ!」
「あはははは」僕は声を出して笑った。
「無駄だよグエン。僕を懐柔するために彼を投影した所で、意味は無い。僕は、僕の道を行く」
〈抹消〉のボタンを押すと、画面に「ほんとうに抹消を実行しますか」という赤文字が浮かび上がった。同時に“ETOs”全域に甲高い警告音が鳴り響き、視界が赤く点滅し始める。
「グ、グオオオオオオオォォォ」
グエンは雄叫びをあげた。空間に大きな亀裂が走り、そこから暗赤色の血液のようなものが勢いよく噴出し始めた。腐臭を放つ血の洪水は周囲を黒く染めながら、轟音と共に僕の方へ迫り来る。グエンは大きく体を前後に揺らし、その巨体を押し倒すようにして僕に覆い被さって来た。
「僕はもう迷わない」
僕は躊躇うことなく「YES」のボタンに右手を伸ばす。僕の左手にはしっかりと、あの電話機が握られていた。
僕がいるから、世界はこうであるのだろうか。
だとしたら、僕がいなくなった時、世界はそのままでいられるのだろうか。