前編
「聞こえているのか!早くST区域の流動性を下げよ!」
「不可能です!既に第二空域、第三空域共に機能停止!第八空域内の識別センサーにも未確認の“穿孔”を確認!」
「そんな馬鹿な……直ちに第二、第三空域の同期を停止!及び第八空域に巡視機隊を向かわせよ!」
「はい……あれ……?司令官、中央空域の様子がヘンです!監視電棟からの救難信号が……」
「なに?既に中央には“網”を張っているはずだぞ。いつ……」
「あ!これは……」
プツッ
ザザーッ、ザザーッ、ザーザー、ザザ──
僕は壁に映し出された3次元空間“私的空間”からログアウトすると、電源を落とし、そのままベットに横になった。目を閉じても瞼の裏には先程まで見ていた青色光の残像がチカチカと明滅している。僕は目を開けてぼうっと天井を眺めたまま、口の中に残る珈琲の残滓と共にひとつ息を吐いた。
「どうなることやら」
三十分程前からサイバー空間“ETOs”内を横断するように駆け巡っている資料──僕が先程開いていた資料には“ETOs”中央管制塔内での会話と思われる録音データが記録されていた。本来であれば表に拡散されないはずの彼らの音声は、既に個人用ホームページである“私的空間”をハイジャックするような形で、著しい速さで消費されている。
僕はすっかり廃れた前時代の電話機を取り出すと、友人でかつ“ETOs”の専門家でもある佐倉果穂にかける。ザザーと流砂のような雑音が続いた後、果穂が電話に出た。
「もしもし。久し振りね。どうしたの?」
「忙しいところすまない。“ETOs”の今の状況について知りたくてね。この電話が使えるうちに、専門家の君の意見を聞いておきたいんだ」
「ああ。そのことね」そう言うと果穂は少しの間をおいた。
「……正直、状況は絶望的よ。今から凡そ二十四時間前、サイバー空間“ETOs”内に生じた小さな特異点は、六時間前くらいから急に膨張を開始して、あっという間に周囲の座標のデータを取り込んで破壊し始めた。そこまでは知ってる?」
「ああ。速報で流れてきていたよね。そのせいで一部の機能が使えなくなっているって」
「そう。私たちはその特異点──既に体積にして日本全域を覆い尽くす程の流動体になっていると予測されるのだけど──のことを、生命体“グエン”と呼んでるの。その生命体は、残念なことに私たちの妨害工作の影響を一切受けることなく、今なお加速度的に大きくなっている」
「生命体、か。君たちはこの現象をなんらかの有機生物によるものだと、考えているのかい?」
「……そう考えた方が良いと、私たちは思っているわ。グエンは恐らく初めは無機的だった。それこそ、たまに“ETOs”で問題になるシステム上のバグと、そんなに性質は変わらなかった。だから、初めは私たちもそんなに問題視していなかったの。恐らく、ちょっとしたアップデートで改善されるだろうって。でも……グエンが“ETOs”上の人間のデータ、つまりアバターを取り込み始めてから、一気に状況が変わってしまった」
「ああ、なるほど。つまり、そのグエンっていうのは、偶然にも人間のアバターと接触し、生物の基本的データを取得してしまったことで、増殖・複製の特性を持つようになったということか」
「……やっぱり、さすが」そう言うと果穂はフフッと笑った。「ここにいた頃の鋭い洞察力は、まだ衰えてないみたいね」
「止めてくれよ」僕は苦笑いを浮かべた。「そこの仕事から離れたのは五年も前だ。今はただの引きこもりに過ぎないよ」
「でも丁度良かった。本当はあなたにこっちから連絡しようと思っていたの。この現象は、私たちだけではもうお手上げ。あなたの、“ETOs”の創設者でもあるあなたの力が必要なの」
そこまで言うと果穂は押し黙った。電話越しに、果穂の緊迫した息遣いが聞こえてくる。僕は“私的空間”の消えた薄暗い部屋の壁を見つめた。今はまだ、グエンの監視の目はない。
「僕は、僕のやり方でやらせてもらう」僕はゆっくりと言った。「君たちはそこで見ておいて」
「何を、するつもりなの?」
「久々に、僕の持つ原始アカウント【曙】から“ETOs”にアクセスしてみる。ざっくりでいいから、グエンの座標を送って欲しい」
「駄目よ」果穂はキッパリと言い放った。その厳しい語調には、議論の余地がないとさえ思われた。
「聡明なあなたなら気付いていると思うけど、グエンに接触したアバターは……消滅してしまうの。これは世間一般には公表されていないことだけど。もうすでに、世界中で一千万人を超える人たちのアバターが、グエンに取り込まれた。現実世界に彼らの意識は……まだ戻ってきていない」
「だろうね。アバターがグエンに取り込まれるということは、そういうことだ」
「だから私たちも、個人アバターでの派兵は避けて、無人の巡視機隊でグエンに対応しているの。生身のアバターでいくなんて、自殺行為よ」
「ただし方法はそれしかない。今やらなければ、手遅れになる。もう、既に手遅れかもしれないけど」
そう、もう殆ど手遅れと言っていい。十三年前、現実世界の裏側に縫い合わせるように編み込まれたサイバー空間は、今や現実と分離できない〈あなたの世界〉を形成してしまった。もう僕たちは、“ETOs”なしでは生きていけない。そしてその二つの世界は今、共に未曾有の危機に瀕している。
「何故?何故そこまで言い切れるの?」果穂は声を荒げて訴えた。
「それは」僕は微笑んだ。「僕が“ETOs”の生みの親だからだ」
果穂は黙り込んだ。僕も意志を変える気は全く無かった。果穂もそれを察したのか、暫くしてから不服そうに口を開いた。
「……N173.W-543.A56k7。その座標を中心に半径1700mrtの範囲は、グエンの支配領域よ。近傍の拠点の座標を、送ってあげる」
「ありがとう。座標は僕の旧式パソコンのメールに送っておいてくれ。少ししたら、僕もそちらにアクセスするよ」
「必ず」果穂は震える声で言った。「必ず、帰ってきて」
直ぐには返事をしなかった。僕は携帯を右から左に持ち替えると、小さく頷いた。
「行ってきます」
僕はそのまま電話を切り、すっかり冷えた珈琲を口に運ぶ。そのまま、静寂の降りた殺風景な部屋をしみじみと見返した。
誰の目も気にしなくて良い、僕だけの部屋。
この場所をつかみ取るために、どれほど努力したことだろうか。だが皮肉なことに、自分の創り出した擬似的現実世界の暴走によって、今この場所が再び危機に陥っている。
「行かなきゃな」
僕はそう言うと、旧式のノートパソコンを開き、電源を入れた。そこに表示された【曙】のアカウントを選択する。懐かしい水色のディスプレイを見ながら、果穂から送信されてきたショートメールを開く。
「ジョンセル」と僕は呼びかけた。
「ドウシマシタカ」パソコンからAI〈Johncell〉の機械的な音声が返ってきた。
「“ETOs”のこの座標へ、僕を転送してくれ」
〈Johncell〉からの返答は無かった。代わりに、ディスプレイに映った水色の厚板がひび割れていき、その奥に広がる深い闇から、それが顔を覗かせた。
僕は灰色の霧のようなもので覆われたそれを見つめる。その口と思われる部分が縦方向に裂けてゆき、上下に動き、何かの単語を発した。僕は自分の目を疑った。頭部にスキャナーの光が当たり、脳の情報を読み取り始める。僕はもう一度しっかりとそれの口元を見た。それ、即ちグエンの本体は、僕に向かってもう一度同じ言葉を発した。
「オ カ エ リ 。 オ カ ア サ ン 」
僕の転送が始まる。僕=【曙】は電話機を左手に握りしめたまま、グエンの巣食う“ETOs”へと飛び込んでいった。
サイバー空間“ETOs”の崩壊を前に、僕は最後の選択をする。“ETOs”創世を巡る驚愕の真実とは──。
「だから僕は、この世界に対して、一つの誓いを立てた」