海からの手紙
海からはなれたところに暮らすというのはどういうものだろう。
「おさと、髪を結うて頂戴!」
険しいような声におさとは我に返り、はいと返事した。火熨斗の始末をし、廊下へ出る。
おさとが居たのは家事室だ。この家の長女、タヅの袴に火熨斗をあてていたのだが、途中からぼんやりしてしまっていた。それでも、普段からやりつけていること、失敗はない。
「はい、参りました、シヅ子お嬢さん」
「遅いわよ」
シヅ子は椅子に腰掛けて、脚をぶらぶらさせている。本当はシヅというのが彼女の名前なのだが、家人や友人達にはシヅ子と呼ばせていた。そのほうがモダンだからという理由でだ。
おさとは微笑んで、シヅ子の髪をあみにかかった。
おさと、戸籍に載っている名前は門前サト。今年で二十になる。生まれはここ・帝都から遥か南、九州の海辺の村だ。
男が魚を捕ってきて、女達がそれを売り歩く。米はめったに食べられないし、田んぼも山ひとつ越えないとお目にかかれない。食べられるものと云えば、魚に貝に、海藻、家で飼っている鶏のたまご、それからたまにお母さんが行商で手にいれてくる黍と粟くらいのもの。
そんな貧しい村だったが、村人達の結束はかたい。南国らしいのんびりした気風もあって、おさとは地元の村から出るつもりはみじんもなかった。自分もここで結婚し、子どもをうんで育て、いずれは死ぬ。それがおさとの理想、というよりも、それ以外になにか別の道があるとは考えもしなかったのだ。
おさとが帝都に居るのは、本当に些細な偶然が重なったからだった。
おさとの親戚が、偶然、商売で財をなした。そのおかげで村が突然、潤った。米の飯を毎日食べることはまだできないが、粟なら毎日のように食べられるようになった。
のんびりした気風だからか、それが原因でもめごとが起こるとか、まずいことになると云うことはない。今でも男達は漁に出ているし、女達が魚を売っている。のんびりしたところはかわらない。
ただ、おさとの家は、そのなかでもかなり豊かになった。姉が海を越えて四国の分限者へ嫁ぎ、次はおさとの番か、という段になって、折角だから観光においでと、おさととその妹が帝都の親戚に呼ばれた。
おさとはのり気でなかったが、妹は姉の結婚を目の当たりにして、結婚したら二度と帝都へ行けないかもしれない、おさ姉さんも一緒に来て、と泣くような顔で頼んできた。それで、おさとは妹と一緒に帝都へ行くことにした。
四国を経由して大阪まで船で向かい、そこからは歩きと車、最後のほうは鉄道で、帝都へ辿りつくまでおよそ二ヶ月かかった。
勿論、移動だけでそれだけの時間がかかったのではない。おさとと妹は村人達に頼まれ、道中にあるそれぞれの親戚や実家などに挨拶をしたり、届けものをしたりしながら移動したのだ。
おさと達の親戚は鷹揚なひとで、いつでもおいでという手紙に旅費と、帝都まで送ってくれる人間まで添えてくれていた。といっても、そのひとも村出身の、おさと達と顔見知りの青年だ。親戚の下で働いているが、漁に出る男達とかわらずに、赤銅色に日に焼けていて、姉妹はその青年に安心感を覚えていた。
おさと達はのんびり、村人の親戚の家で宿をこい、歩き、車に揺られた。三人を泊めることを拒むひとは居なかった。久しく会っていない親戚からの頼りや、地元の村のおいしい干物を届けてくれた娘ふたりと、日に焼けた朴訥な青年である。じゃけんに扱う者はない。
おさと達は、預かりものとは別に、金を幾らか持っていた。父母がふたりに、なにかおいしいものでも食べるか、かんざしでも買いなさいと渡してくれたのだ。
四国や大阪、東海道を歩いている時は、預かりものが多かったのがあり、ふたりは買いものを楽しむような心境ではなかった。青年からなにかすすめられた記憶はあるが、おさとも妹もいつも首を振っていた。
しかし、いざ帝都へ辿りつくと、安堵と同時に「それなりの金額のお金を持っている」ことが負担になってくる。妹が、なにかお土産を買おう、と、親戚の家へ行く前に云いだした。
大阪もひとでごった返していたけれど、帝都のひとの数はその比ではなかった。全員の顔と名前が一致している村で育ったおさとには、名前を知らないひとが大勢居るというのは、どうにも奇妙な感じがした。
それでも、目抜き通りらしいところを歩くうちに、おさとは綺麗な山吹色の鼻緒の下駄に心ひかれたし、妹はつやつやした綺麗な飴を食べたがった。
とりあえずは妹の要望をかなえようと、自分と青年の分も含めて飴をみっつ買ったところで、騒ぎが起こった。
近場で男の子が泣きはじめたのだ。妹はびくついていたけれど、おさとはその子に飴をあげ、落ち着かせようとせなかを撫でてあげた。青年が巡査を呼んでくると居なくなる。
顔を手拭いで拭いてあげていると、男の子をさがしに大勢の人間がやってきて、どういう訳だかおさとは捕まった。
さいわい、誤解はすぐに解けた。なんでも、男の子はいいお家柄の子どもで、拐かしだと思われていたらしい。実際には、男の子が自分ひとりでお邸をぬけだし、その辺をぶらついていたが、家に帰りたくなってもどこかわからなくて泣いていた。そういう次第だった。
おさとはその家のつかいだというひげの男のひとに謝られたし、迎えに来た親戚にもよかったよかったと喜ばれた。妹は溶けそうになった飴をまだ持っていて、おさとにくれた。青年は自分が傍に居ればと、頭を掻いていた。
しばらく親戚の家に世話になり、芝居を見に行ったり、あたらしい下駄を買ったり、髪を帝都ふうに結ってもらったりした。髪結いというものを直に見たことがなかったので、おさとは非常に驚いた。自分でできることなのに、わざわざ金を払ってしてもらうのか……と思ったけれど、実際に髪を結ってもらうと、これは自分ではできないとわかった。奇妙なきらきらした道具を沢山つかって、髪を綺麗に整えていくのだ。
どうしてそんなによくしてくれるのかというと、親戚には妻はあるが子はなく、できたらおさとか妹のどちらかを養女にほしいと思っていたのだった。
商売のことはわからないおさとは、自分よりも妹がいいと云い、妹は妹で、自分はへまばかりするから姉さんのほうがいいと云った。姉妹の仲が好いのに、親戚は喜んだらしい。
青年がいずれ、親戚の商売の跡を継ぐのだと知ると、妹が張り切った。妹はいつの間にか、彼を好いていた。
それで、ふたりがいつか結婚して商売の跡を継ぐという話になった。父母はもう承知のことらしい。養女の話を聴いた上で、娘ふたりを帝都へ送り出したのだ。
おさとは心からほっとした。結婚の話が出た段階で、なんとしても妹に役目を押し付けようと思っていた。おさとは村に、好いた相手があった。
養子の話が一段落ついて、妹と一旦村へ戻ろうかという日、迷い子の男の子の家からつかいが来た。
あの男の子が、おさとを気にいった。だから、女中として雇いたい。そういう話だった。
親戚に相談すると、俸給はいいし、偉いひとの家だとかで、一度勤めてみるのもいいのじゃないかとすすめられた。おさとは、お金を稼げばいいお土産として持って帰れる、と思って、その話をうけた。あのひとと結婚するなら、お金はあったほうがいい……次男だから、家を建てなくちゃならないだろうし……。
「ありがと」
「いいえ、シヅ子お嬢さん」
シヅ子は満足そうに椅子から降りると、みつあみを揺らして跳びはねた。このお嬢さんはまだ十三だが、いやに大人びている時と子どもじみた時とがある。「今日は宮部さんと竜川さんとお芝居なの。おさとも一緒に行きましょうよ」
「お仕事がありますから」
「いやよ、おさと」
おさとはゆるく頭を振る。シヅ子はさっきまでの表情はどこへやら、不満げに口を尖らせて出て行ってしまった。
おさとはその部屋を片付けて、廊下へ出た。遠くからシヅ子の声がする。「おきゑ、馬丁を呼んで」
おさとはまた、頭を振る。――お嬢さん、いつになったら奥さまと仲好くなれるんだろう。
おさとが勤めることになった家は、少々複雑な人間関係を形成していた。
一家の主は、扇田錦之介といって、さる華族さまの傍系だ。裕福な商人である扇田家へ婿養子にはいった。
しかしその妻は今、扇田家とは縁もゆかりもない女性である。
最初の妻・久乃は、長女のタヅをうんで亡くなった。産褥熱だったそうだ。子どもをうむのに危険はある。村でも、出産に伴って母親が死んでしまうことはあったから、おさとはその話を聴いた時に気の毒だとは思ったけれど、それだけだった。人間は生みの親が居なくても、きちんとした大人が見てやればやっぱりきちんと大人になるものだ。
その後、錦之介はしばらく、乳母や女中にタヅを任せ、仕事に精を出した。そしてタヅが二歳の時、後添えをもらう。
それが、シヅ子の母、アヤメだ。
アヤメは武家の出だったらしい。錦之介とアヤメの結婚は、あらゆるところから反対された。しかし、錦之介がなんとか説得し、アヤメは扇田家にはいった。
ところが久乃の父母は、決して納得していなかった。
久乃の父母は、錦之介に商売を預けて隠居しているものの存命だった。久乃の死以来、帝都を出て暮らしていたが、アヤメと錦之介の結婚がたしかなものになると帝都へ舞い戻り、この邸へ同居した。
娘が死ぬ直接の原因になったのは出産で、妊娠させたのは錦之介である。その錦之介が、娘の忘れ形見であるタヅが物心もついていないのに再婚しようとしている。このままでは、タヅはアヤメを実の母と思って育つやもしれぬ――それが、久乃の両親、そしてタヅの祖父母の不安であった。
アヤメとタヅの仲ははじめ、良好だったのだが、アヤメがタヅを世話しようとすると久乃の両親が邪魔するようになり、年経るうちに親子仲はこじれていった。
アヤメは癇性だったらしい。甘やかしてくれる祖父母に悪口を吹き込まれたタヅが、アヤメを遠ざけるようになると、錦之介にあたりはじめた。
それでも、夫婦というのは不思議なもので、アヤメは妊娠する。そうして生まれたのがシヅ子だ。
アヤメはシヅ子を溺愛し、タヅを遠ざけた。タヅには祖父母が味方する。商売自体も、いずれタヅに婿をとらせて継がせると、錦之介は証文まで書いた。
久乃の父母とアヤメのいがみ合いは、アヤメが死ぬまで続いた。
アヤメは癇性だった。癇性で、気の優しいひとだったらしい。シヅ子お嬢さんのようなひとだろう、とおさとは思っている。シヅ子はわがままを云うが、無理難題ではない。
シヅ子が七歳、その下の長男・誉が三歳の頃、露台から落ちたタヅをうけとめて、アヤメは頭を打った。三日、生死の境をさまよい、結局亡くなってしまった。
タヅはそれでも、アヤメに対してあまりいい気持ちは抱いていなかったらしい。しかし、おさとがここに奉公するようになった三年前には、タヅとシヅ子は手を組み、誉もそれに囲いこんで、子ども達で大同盟をつくっていた。
タヅとシヅ子が手を組んだ理由はたったひとつだ。錦之介が三人目の妻をもらったのである。
三人目の妻は胡蝶といって、久乃の両親が亡くなってすぐに錦之介が家へ迎えいれた。その時、シヅ子は八歳、誉は四歳、長女のタヅは十一歳だ。
妻が亡くなったのだから後添えをもらうという考えは、おさとにもわかる。それは当然の話だ。ただし、いきなり知らない女のひとが来て、あたらしいお母さんだと云われても納得できない子ども達の気持ちも、理解できぬではない。特に、このやけにだだっぴろい、そして海が近くにない、なんだかごちゃごちゃとものが沢山いれられた箱の中に閉じこめられているような街においては。
海は――ある。あるのはたしかだ。それはおさとだって知っている。いいつけられて浅蜊を買ってくるとか、とれたばかりの魚を買ってくるとか、そういうこともあるから、海がない訳ではないことは知っている。間近で見たこともある。
でも、香りが違う。色が違う。波が違う。
おさとにとって、「帝都の傍に横たわっている海」は、まったく知らないものだった。海なのは、そうだろう。たしかに水は塩辛いらしい。魚だって貝だってとれる。
しかしその海は、おさとの知る海とはつながらない。おさとの頭のなかでは、ふたつはまったく別個のもので、船でもって移動すればいつかは村へ辿りつくのだと云われても信用できない。間になにか隔たりがある。大きな溝が。
おさとの知る海は、申し訳なそうにおずおずと打ち寄せてくる波、海藻が打ち上げられた砂浜、お尻を丸出しにした小さな子ども達の群れ、赤銅色に日に焼けた男達、近くに遠くに見える小島、くすんだ色合いの小舟、老人達が繕う網、甘い匂い――そういうもので構成されている。
それに比べて、帝都の海は寒々しい。鼻を突き刺すようなつめたい匂いだ。それにあの荒々しい波はなんだろう。あんな波を立てる海は、おそろしくて足をひたすことだってできない。
村の海があれば、扇田のお家もこんなにこじれないだろうに。
おさとは真面目に、そう考える。
おさとの村でだって、母親がはやくに亡くなって、後添いがはいった家庭はある。あるけれど、ここのように全員がかたくなになって、家のなかで戦をしているようなことはなかった。村の家はどれも等しく貧しい。自分だけが理不尽な思いをしていると考える子は居ない。それは、豊かになった今もたいしてかわらない。
おさとは仕事を終え、女中用の部屋へ戻った。
おさとは女中だが、子ども達が特になついているというので、いい部屋が与えられていた。ほかの女中達は複数人でひと部屋をつかうのだが、おさとはひとりで部屋をつかっている。
同僚からそのことで文句は出ていない。おさとはもうそろそろ十歳になる誉が夜泣きをするとかりだされるし、タヅにしてもシヅ子にしても機嫌が悪いときにはおさととしか話さないからだ。
おさとは小さな机に向かい、封筒を開いた。村の、竹吉という男性からの手紙だ。彼は、おさとがずっと、恋している相手である。
おさとが手紙を出し、竹吉が返事をくれる。そういうやりとりは、数ヶ月に一回ずつあった。今まで届いた手紙はすべて、残してある。
竹吉の手紙には、おさとが海から離れたところに住んでいることを心配している彼の心情がしたためられていた。自分には想像もできないことである、と。
海からはなれたところ……。
おさとは便箋を用意して、竹吉に返事を書いた。
村の海が恋しい。あの、絶え間なくけれどゆっくりと、晴れの日にはいつだって聴こえていた、ざわざわという波の音。雨の日のごうごうという音。風が強い日に、みんなで網を繕ったこと。あのすべてが自分を形づくっていたものだった。いわば、自分の血だ。
家から出るとすぐに海が見えて、ほんの少し歩けば砂浜で、汁の実にする海藻を拾って歩く。子ども同士で、浅瀬の岩にはりつく貝をとり、浜で焼いて食べる。そういう些細な、でも大事なことから、相当長くはなれてしまっている。
おさとは二年勤める約束で雇われた。その二年が終わる頃、子ども達がおさとになついているから辞められては困ると、ひきとめられた。
おさとだって、シヅ子をはじめ、三人が可愛くない訳がない。せめて、胡蝶との仲がもっと穏便なものになるまでは、と思い、断れなかった。
しかしそれからほとんど一年経っても、子ども達はあたらしい母を認めようとしないし、胡蝶は胡蝶で子ども達にどう接したものかと手をつかねている。
「おさ姉さんが気を遣わなくってもいいじゃないの」
お休みの日に会った妹は、そう云って口を尖らせた。
妹はあのあと、一回村へ戻って、またすぐ帝都へやってきた。あの青年と、村で結婚したそうだ。それからは、親戚の商売のことを勉強している。夫になったひとが、自分になにかあった時にも困らないようにと、妹を商売に関わらせているのだ。
妹は三年で垢抜け、すっかり帝都のご婦人という雰囲気だ。カッフェを飲んで、苦そうにしているのは、子どもっぽくて可愛いが。
「そうはいってもねえ」
おさとは苦く笑う。「奥さまと、お嬢さんお坊ちゃん達に、わだかまりがなくなればね。そのままで放っていくっていうのは、性に合わない」
「おさ姉さんは面倒見がいいから。竹吉さんもいつまで待ってくれるかしらね」
心配そうな声に、おさとは頭を振る。妹はちょっと哀しげに眉を寄せ、正体がよくわからないようかんのようなものをすすめてきた。おさとはそれをもらいながら、竹吉さんはどうしてるのだろうか、と考えた。
おさとが手紙を出した次の日に、シヅ子が居なくなった。
朝から、扇田家は荒れに荒れた。大時化の海を見たおそろしさを思い出した。
きっかけは錦之介だ。普段、家族は一緒に食事をとらないのだけれど、その日の朝は違った。全員で食事をとると錦之介が云い、子ども達は渋々、親とテーブルを囲んだ。
「食事の前に話がある」
シヅ子からたまごのうで加減についてあれこれ指図されていたおさとは、たまたまその場に残ってしまっていた。錦之介がなにか重大な話をしようとしているのはわかったから、おさとはさがろうとしたのだが、シヅ子がやはりなにか真剣な気配というものを感じとってそれを停めた。「おさと、居て」
逃げようにも、おさとの袖はシヅ子にしっかり握りしめられていた。錦之介も、おさとが居たほうがいいと思っているらしい。シヅ子を咎めない。
「子どもができた。お母さんにおめでとうを云いなさい」
タヅが無言で席を立ち、出て行った。誉がまっさおになっている。シヅ子は体中、瘧にかかったように震えさせていた。
「お父さま」シヅ子は声まで震えている。「なんておっしゃったの?」
「子どもができた。お前達に、妹か弟ができると云っている」
シヅ子がなにか喚いたが、扉がきしむような音しか出てこない。なんと云ったのか、おさとにはわからなかった。
胡蝶は夫を見て口をあんぐり開けている。おそらく、胡蝶はこの発表を了承していなかったのだろう。「あなた」
「いずれわかることだ」
シヅ子がまた、なにか喚く。おさとはシヅ子を落ち着かせようと、その肩を掴んだ。こんなに叫んだら、のどが切れてしまう。しかし、シヅ子はいとわしげにおさとの手を払いのけ、立ち上がってなお喚いた。
タヅが戻り、胡蝶に泥の塊を投げつけ、胡蝶の着ものとテーブルクロスが無残なことになった。「タヅ!」錦之介が顔をまっかにして立ち上がる。タヅは無言を貫くつもりのようで、テーブルクロスをひっぱる。花瓶もなにも、全部が床へ落ち、雷のような音をたてた。雷が苦手な誉が泣き喚きはじめ、音に気付いて使用人達がかけこんでくる。胡蝶はナプキンで着ものを拭おうとし、タヅがそれへ、テーブルクロスをかぶせるようにする。錦之介がタヅに掴みかかった。
「シヅ子お嬢さん?」
大騒ぎのなかで、おさとの声は奇妙な響きを持っていた。錦之介をひっかいていたタヅが動きを停め、胡蝶がテーブルクロスから顔を出し、テーブル下へ隠れていた誉が出てくる。
おさとは走りだした。「シヅ子お嬢さん――」
シヅ子は家中、どこにも居なかった。どこかへ出て行ったのだろうと、使用人達は外へさがしに行き、勿論おさともそうした。
午をすぎても、シヅ子は見付からない。タヅは家中の引き裂けるものをことごとく引き裂こうと頑張っているし、誉はテーブル下へ戻った。胡蝶は念の為にと医者へ行き、錦之介は警察にシヅ子のことを伝えた。
おさとは疲れ果てていた。あの時、シヅ子お嬢さんが出て行ったのにもっとはやく気付いていたら……。
おさとは頭痛をこらえながら家の周りを歩きまわり、シヅ子のかげでも見付けられないかと血眼でさがした。
もしやこの間にシヅ子が戻っているのではと、扇田家へ戻ると、はっと思い出して倉へ向かった。
倉には、錦之介の最初の妻の久乃、次の妻のアヤメ、両方の遺品が仕舞いこまれている。シヅ子はたまに、その倉へ這入っていた。その間はおさとであっても外で待っていて、シヅ子が実際のところなにをしているのかは知らない。だが、倉から出てくるシヅ子は大概、目を潤ませていた。
勿論、そこはすでにさがしたあとだ。シヅ子がなかに隠れているということはない。けれど、なにか手がかりはあるかもしれない。
倉の前には女中がふたり居た。考えることは似通っている。おさとが、なかへ這入りたいというと、女中は快く倉のなかへおさとをいれてくれた。
倉のなかは埃っぽく、空気が悪かった。おさとは袖で口を覆いながら、倉の左半分、すなわちアヤメの遺品が置かれているほうへ歩いていく。そこにはつづらや、文机、たんすなどが置いてあった。幾らかは嫁入り道具だったものだ。鏡台が布でぐるぐるまきにされている。
文庫の位置が前、見た時とは違う。
そう気付いた。二月に一度、ここのものは虫干しすることになっている。シヅ子がいやがるので、おさとが指揮を執るのだが、一番最近虫干しをした時とは文庫の位置が違った。
蓋を開け、なかを見る。そこには以前、手紙がぎっしりつまっていたのだが、今はそれが半分くらいに減っていた。
暖炉の火除けの衝立を蹴飛ばしていたタヅは、おさとの手から文庫をひったくった。
「アヤメさんのね」
「はい、タヅお嬢さん」
アヤメがなくなり、祖父母も居なくなった今、タヅはアヤメに対する悪感情はなくなっている。命の恩人でもあるアヤメのことを悪く云えるような神経はしていない。シヅ子といがみ合うこともないし、シヅ子からアヤメのことを聴いている筈だ。
おさとの考えはあたっていた。タヅは文庫を開け、手紙を検分してから顔を上げた。
「アヤメさんのお母さまからのものがないわ。ほんの二通だけだったから、覚えているのだけれど、あとはなにがないか、わからない」
「その……タヅお嬢さんは、そのお手紙を読んだことが?」
「あるわ」
タヅは手紙を文庫に仕舞い、丁寧に蓋をして、少々落ち着きをとりもどしたのか長椅子へ座る。衝立と同じ色の帳が、タヅが壊した窓から吹き込んだ風で揺れた。
「アヤメさんのお母さまの手紙はどちらも、里帰りしてほしいってものよ。アヤメさんはわたしの世話をしないといけないからって断ったの。それだけよくしてくれたのにわたし、わからなくって、お父さまがあんなだから……」
タヅは眉間に深い皺を刻む。彼女の眉間は、そういう皺をつくるのに慣れているみたいだ。まだ十六なのに、彼女の顔には苦悩と憤りが様々な陰影をつくっていた。
おさとは云う。
「前の奥さまのお里は……」
「知らない。在所も忘れたわ。アヤメさんのお母さまはもう亡くなっているし……ただ、海の傍のようだった。波の音が聴こえるところよ」
おさとは扇田邸から走り出た。なんでもいい。とにかくここから東南へ向かえば、いつかは海に出る。シヅ子お嬢さんは頭にきてた。まともに考えずに、海へ向かったのかもしれない。
おさとは道中、ひたすら祈っていた。観音さまでも阿弥陀さまでも菩薩さまでもなんでもいいから、シヅ子お嬢さんになにごとも起こらないようにまもっていてほしいと。なにかあったとしても、たいしたことにならないようにしてほしいと。
シヅ子は道端に、うずくまっていた。鼻緒ですれた足は皮が破れ、血が出ている。特に、指の股が酷いことになっていた。「シヅ子お嬢さん、お家に帰りましょう」
つめたい匂いがする。海はすぐそこだ。村の海とは違う、つめたい匂いの海が横たわっているのは、ごみごみした建物の向こうに見えた。色が違う。白波が立っているのがここからでも見える。なんておそろしいのだろう。
おさとはシヅ子の隣にうずくまる。通行人は誰も足を停めない。海と一緒でひともつめたい、とおさとは思って、いや違う、と思い直した。こんなにつめたい匂いの海の傍に居るから、みんな体がひえていく。みんな、なにかに急かされたみたいにしているのは、網を繕う時間も、貝をとって焼いて食べる時間もないからだ。
シヅ子は膝に顔を埋め、泣いている。左手にはくしゃくしゃになった封筒を握りしめていた。黄ばんだ便箋がひょこっと顔を覗かせている。
「シヅ子お嬢さん」
「おばあちゃまのとこへ行こうと思ったの」
シヅ子はしゃくりあげ、今朝もおさとが結ったみつあみを揺らして頭を振った。「これを持ってたら、おばあちゃまのとこへいけると思った。お母さまのとこへ」
「お嬢さん」
「あたし泳げないのよ、おさと」
シヅ子の声は酷く掠れている。あれだけ叫んだら、そうなる。
「おさとは、幾らだって泳げるんでしょ」
「ええ」
おさとは優しい声を出し、シヅ子のせなかを軽く叩いた。「村の子はみんな、魚やふかに泳ぎを教わるんですよ」
「いいわね」
シヅ子はちょっと笑う。それから、か細い、頼りない声を出した。「このまま海にとびこんじまったら、お母さまにまた会えるかな」
おさとはなにも云わず、シヅ子の肩を抱いた。
「さとちゃん」
おさとははっとして、声のほうを見た。
赤銅色の肌をした青年が立っている。潮風と海水とお天道さんでぼさぼさになった短い髪に、まだ若いのに皺の目立つ顔、網をひっぱる大きな手と太い腕、栄螺とりも悠々こなす厚い胸板――。
おさとは立ち上がる。「竹吉さん」
竹吉は軽く頭を掻き、肩にひっかけたずだ袋を示した。「さとちゃんとこのお母さんから、これ持っていけって、干物預かってきたよ。おいしい干物。太刀魚のやつなんだ」
シヅ子は立ち上がろうとしない。竹吉はものめずらしげにそれを見ながら、おさとへと近寄ってきた。「竹吉さん、昨日手紙を出したのよ」
「そっかあ。ごめん、行き違いだあ」
竹吉は大声で笑う。傍を通ったひとが、その大声で転びそうになっていた。海の男は声が大きい。
おさとはつりこまれて、ちょっとだけ笑う。竹吉は身長はさほどではないが、分厚くて横にも幅のある体をしている。顔立ちはよくわからない。大概いつでも、栗が割れたみたいに大袈裟な笑みをうかべているからだ。笑い皺は子どもの頃からだ。
おさとは竹吉の肩を軽く叩く。
「どうしたの? 一体?」
「さとちゃんが心配になったんだ」
竹吉は笑みを消し、優しい目をする。「兄さんがやっとかたづいたし、次は俺の番だから、さとちゃんに結婚申し込もうと思って」
ぽかんとするおさとに、竹吉は笑う。
「おさと、居なくなっちゃうの?」
シヅ子の声がして、おさとは我に返る。
シヅ子は立ち上がって、右手で顔をこすっていた。おさとがなにか云う前に、竹吉が洗いすぎて透けるようになった手拭いをさしだす。
「お嬢さん、どうぞ」
「……ありがとう」
シヅ子は素直に手拭いをうけとり、目許を拭う。竹吉ははっはっと笑う。「洟をかんでもいいよ」
シヅ子はちんと洟をかんだ。まっかになった目が、おさとを見ている。
竹吉が云う。
「お嬢さん、さとちゃんが奉公してる家の子か?」
「ええ」シヅ子は目をぱちぱちさせる。「……シヅ子よ。あなたは?」
「竹吉っていう。さとちゃんとは同じ村で育った」
「おさとが話してくれたひとね」
シヅ子は竹吉をまじまじ、見詰める。竹吉がおさとを見た。
「なにか、話したの」
「ええ、少しだけ」
おさとは赤面する。一度、錦之介がおさとに縁談を持ってきたのを断った時に、シヅ子に竹吉の話をした。忘れているものと思っていたが、覚えていたとは。
シヅ子は小首を傾げる。
「思っていたようなひとじゃなかったわ」
「思ってたよりも、醜男だろう」
「ううん。でも、おきゑがおはぎをつくる時のお鍋みたいな色をしてる」
竹吉がまた、大声で笑い、近所の犬が吠えはじめた。
シヅ子は竹吉の暢気で、穏やかな雰囲気に、のまれてしまったようだ。その顔にもう涙はなく、封筒と便箋をのばすようにしてから帯へはさみ、懐からはこせこをとりだす。
「おさとのいいひとに、ぜんざいを食べさせてもいい?」
「え?」
「甘いものを食べたいの」
ふーっと息を吐いて肩をすくめるシヅ子に、おさとは苦笑で頷いた。
目についた甘味処へ這入った。その辺をうろついていた少年に小金を握らせ、扇田のお邸まで届けてほしいと、書き付けを渡す。シヅ子を見付けたことは報せないといけない。少年はすぐに走っていった。
シヅ子は妙に落ち着いていて、ぜんざいをぺろりとたいらげ、俺はもういいやとまったく箸を付けずに竹吉がさしだした二杯目もすぐに食べてしまった。番茶をすすり、並んで向かいに座るおさとと竹吉を見ている。
「うん」シヅ子は頷いた。「このひとなら大丈夫よ、おさと」
「お嬢さん?」
「竹吉さん、おさとに不自由させないでね。ないがしろにしたら、あたしや姉さんがおさとをとりもどすからね」
「困ったなあ」
竹吉はおさとを見る。「不自由はさせるかもしれないよ」
「いいのよ、竹吉さん」おさとは笑う。「シヅ子お嬢さんはお優しいから、こういってくれるの」
「あたしのお母さまみたいなことにしないでほしいのよ」
シヅ子の言葉で、おさとは笑いをひっこめた。
シヅ子は湯呑みを置き、俯く。
「シヅ子お嬢さん」
「なんてことないわ。もうへいき。あたし、タヅ姉さんも、誉も居るからね」
シヅ子は顔を上げ、にっこり笑った。「おさと、でも、結婚式はこっちで挙げてよ。だめかしら?」
おさとはシヅ子と一緒に邸へ戻った。
シヅ子は微笑んでいるが、無理をしているのはわかる。おさとが心残りなく嫁げるようにと、泣かないようにこらえているのだ。
邸は嵐が通りすぎたようなありさまだった。タヅはまったく、何事もおろそかにしない性質で、破壊できるものはすべて破壊し、誉はテーブルの下で粗相していた。錦之介は胡蝶の居る病院へ行って戻らない。シヅ子が見付かったと聴いて、娘よりも身重の妻をとったらしい。
「おさとの村では、みんなこうするの?」
「ええ」
おさとは七輪で干物を焼きながら頷いた。少しはなれたところで、きがえた三姉弟が長椅子に並んで座り、それを眺めている。どの部屋も徹底的な掃除が必要だと判断されて、子ども達は外に出されていた。七輪で焼いた干物と、古株女中のおきゑがお勝手から運んできた味噌汁、それに握り飯が、子ども達のはやい夕食だった。
シヅ子が姉と弟に、竹吉のことを喋っている。誉はそれをあまり聴いておらず、おさとが焼く干物を瞬きもせずに見ていた。
「凄い色なのよ。顔も腕も。目は馬みたいだったわ。とてもいいひとみたい」
「それなら、おさとを任せても安心みたいね」
タヅが誉の頭を撫でながら応じ、誉はふたつめの握り飯を嚙みしめる。よほど、腹が減ったのだろう。あれだけの騒ぎを目の当たりにしたのだ。
ぱりっと焼けた干物を皿にいれ、持っていくと、三人はわっと歓声をあげた。今日ばかりは行儀も気にせずに、三人とも指でつまんで干物を食べる。「おいしい」
「おさとのとこではこんなにおいしいもの食べてるの?」
「はい」
実際、干物のなかでも太刀魚のは数が少ないし、売りに出したほうがわりがいい。だから、村人の口にはあまりはいらない。でもおさとはそう答えた。三人は目をくるくるさせて、干物と握り飯を嚙みしめ、あつあつの豆腐の味噌汁をすすった。おきゑが出てきて、握り飯がやまと盛られた大皿を長椅子の端に置く。誉が手についた米粒を食べてから、つやつやした握り飯を掴む。三人とも笑顔になっていた。
そうだ、とおさとは思う。子どもは、これくらいでいいんだ。おいしいものを腹一杯食べて、子ども同士で笑い合って、ぐっすり眠って。
大人の都合で邪魔しちゃいけない。
おさとは頷いた。
「おさと、あれはなに?」
「ふかですよ、シヅ子お嬢さん」
甲板で、シヅ子ははしゃぎまわっていた。右舷から左舷、左舷から右舷へとうろちょろしては、あれはなにこれはなにとおさとに尋ねる。
髪は今日も、おさとが結った。萌黄色のリボンは、アヤメの形見だ。
「シヅ子、あっちに島があるわ!」
舳先近くに居るタヅが、手庇しながら云った。シヅ子が其方へ走る。「お嬢さん達、落ちないでくださいよ」
「落ちたら竹吉さんが助けてくれるわ!」
シヅ子はぴょんと跳びはね、タヅと手をつないで、遠くを見ている。
竹吉が出てきた。「お坊ちゃんは、だいぶ酔いがおさまったみたいだよ。半日もすれば慣れるだろう。お嬢さん達、ご機嫌だな」
「ええ。ありがとう、竹吉さん」
「うん」
竹吉はこっくり頷いた。
シヅ子が姿を消した騒動のあと、おさとは胡蝶の入院している病院へ行き、錦之介に直談判した。
三姉弟を自分の村で休ませたい。それがおさとの願いだ。
シヅ子と誉は母が死んで間もなくあらわれた義理の母に対して、タヅはそれに加えて祖父母とアヤメのことでも、常に神経を尖らせて生きてきた。ここらで一度、子どもらしく、浜辺を駈けまわって遊ぶだけの日々を与えてやってもいい。そんなようなことを云った。
錦之介は、三番目の妻の妊娠のほうが大きな問題だったのだろう。話を聴いているのかいないのかわからない、唸りのようなものが返ってきた。だからおさとは、奥さまが無事に出産するまで、また騒ぎを起こさないように、三人を預かりますと云った。そういうと錦之介は、すぐに諸々のことを手配してくれた。
三人は学校を休み、旅支度をして、おさとと竹吉、それにおきゑなど数人の女中と下男と一緒に邸を出た。錦之介はよほど、あたらしい子どもの誕生に水をさされたくなかったのだろう。おさと達はまったく快適に大阪まで移動し、そこで錦之介が手配した貸し切りの船にのって、今は瀬戸内海をのんびりと航行している。
三姉弟は、邸をはなれて、だいぶ明るい表情になった。タヅは帝都に婚約者が居るのだが、出発前にその婚約をどうするのか、扇田家と相手の家とで一悶着あった、タヅ自身はそれを深く考えてはいないらしい。眉間の皺は消え、今は笑い皺ができている。「おさと、誉はまだ寝てるの?」
「ええ」
「あの子は弱虫ねえ。わたしはこれくらいの波、なんてことないわ。シヅ子とふたりで水夫にだってなれるわよ」
タヅが笑い、タヅの腰にしがみついたシヅ子も一緒になって笑う。ふたりはようやくと、なんでもないことで笑えるような心持ちになったらしい。
おさとは歩いていって、海を見た。これが海だ。ゆったりした波に、穏やかな色、甘い匂い。
竹吉がおさとの隣に並ぶ。「村に着いたら、すぐに泳ぎを覚えてもらわなくちゃな」
「ええ」
「よっちゃんとこは子どもが沢山居るから、教えてもらおう。一緒に遊んでくれるよ」
おさとは懐かしい波から目を逸らし、婚約者を見た。「それがいいわね」
村へ戻ったら結婚する。そう、返事をした。彼は喜んで、いつにもましてにこにこしてくれた。
おさとは思い出して、にっこりした。明日のことは、明日考えればいい。つらいことや哀しいことは、穏やかな波に洗わせて、楽しいことや嬉しいことは、網のようにみんなで編み込んでひろげていく。ひとの営みは、それくらいでいいのだろう。
おさとは村に着いたらまず、竹吉の家へ行って、彼へ出した手紙をとりもどすつもりだ。手紙には、この三年の手紙のやりとりで初めて、弱音を書いた。会いたいと書いた。まるで、それで竹吉が来てくれたみたいで、だから彼が手紙を読んだら、なにもかも消えてしまうような気がするのだ。
この充たされた気持ちも。