プロローグ
「───私と、付き合ってくれないか?」
声が、響いた。低くて優しい、それでいて、染み出したような、今にでも、消えてしまいそうな、そんな恋の告白が。
その声に操られるようにして、無意識に。ただ、必然的に。彼女の方へと振り向く。
視界の先には、雲の隙間を潜り抜けて照る太陽、沢山の色で染められたパレットのような住宅街。
そして、ただただ桜色に染め上げられた、小さな世界があった。
上を見たって、宙を見たって、下を見たって桜の花びらに色を付けられて、幻想的なまでに彩やかな吹雪で満たされた小さな世界。
───その中心に彼女が居た。
満天の星空なんかよりも眩しい黒い瞳に、夜空のように深い黒色の腰まで真っ直ぐ伸びた髪。
こっちに伸ばされた指は対照的に雪のように淡い白色で、頬は薄い桃色に艶めいていた。
この学校特有の黒いセーラー服を良く着こなしていて、その姿はおとぎ話みたいに神秘的で。
僕の鼓動は不自然なくらいに加速していって、体の内側が溶けてしまいそうなくらいに熱くて、そしてどうしようもないくらいに自覚した。
今この瞬間、彼女に僕が恋をしたって事を。
今まで人生ではっきりと覚えている光景は数えるくらいで、今まで生きてきた約15年間の中でも間違いなく、1番の衝撃だった。
声に出来ないほど言葉が詰まって息が止まって、直前の思考なんて彼女の存在に全てを奪われて、ただ彼女を見ていたいなんて考えで上書きされて足が止まる。
その中で、ただ分からない事があった。彼女が僕に告白する理由だけが分からなかった。
一目惚れって理由はまず有り得ない。彼女の容姿に比べて僕の見た目は優れてないどころか酷いはずだ。伸びっぱなしの髪も眼鏡の向こうの瞳もくすんでいて誰かに一目惚れされるなんてことはまず無い。
そうなると、初対面なはずの僕に告白する理由もない。
でも、僕を見つめる彼女の瞳は切実で、言葉を紡いだ声は勢い任せな不安げで、その告白が嘘なんて事も到底思えなかった。
ただ、することは変わらない。心の中で数を数えて覚悟を決めた。
だけど、僕が言葉にするよりも早く、彼女が声を上げる。
「返事は言わなくてもわかる…でも、少しだけ待ってくれないか?私が君を、惚れさせてみせるから!だから、もし私が君を惚れさせられたら…私と、付き合って欲しい。」
彼女が僕に向けて言ったのはそんな提案だった。告白を受けて貰えない前提の提案。
心の中を読まれたような彼女の発言に、僕は声には出なかったけど十分驚いた。
何故なら僕は彼女の告白を断る気だったからだ。彼女と僕は釣り合わないと思うし何より互いを知らない。
内側に迷い込んだ思考を制御して彼女の方を見る。彼女の瞳は不安の色を濃くして、よく見ると少し涙ぐんでもいた。
そんな瞳を見てしまうと提案をこのまま断ってしまうのは気が引けて、OKしてしまう。
僕がOKをしたのを見て少し照れながら嬉しそうな彼女を見ていると、胸が締め付けられるような痛みを感じた。恋は病なんて言葉も浮かんで、本当にその通りだと思う。
「さよなら。」とだけ言って去っていく彼女を眺めながら、この感情を誤魔化すように僕も帰路につこうとして、そもそも1度出た学校に来たのは忘れ物を取るためだったことを思い出し校舎へと歩き始めた。
忘れ物を取り終えた辺りでようやく気持ちが落ち着いてきて春の陽射しを感じることが出来た。
ただそれでも彼女が居なくなった後の桜吹雪は何か足りない気がして、ふとした時に彼女が頭を過ぎるものたがら少しの抵抗として寄り道をして本を買った。
結局、寝るまで頭の片隅に居たから無駄な抵抗だったかもしれない。
今日は、4月10日。1年間の4つの季節の中で、1番の出会いの季節だという春に、出会いを讃えるような校門の桜吹雪の中心で花も霞むような彼女に出会った。
おかしな告白に、生まれて初めての提案。喜びとほんの少しの後悔、照れなんかが混ざった彼女の瞳。
今思えば、この時から僕は、須永樹は。
───全て先輩の思い通り、だったのかもしれない。