track01. 夏鳥は銃弾を噛む-Summer Bird Bites the Bullet-(2)
「――あの」
いきなり話しかけられ、夏野は一気に現実世界に引き戻された。
慌てて顔を上げると、ストリートミュージシャンが目の前に立っている。
目元を大きなサングラスで隠し、黒いニット帽で頭を覆うその出で立ちは、対峙する者に圧迫感を与える。
一瞬その雰囲気に吞まれかけたが、動揺を悟られまいと夏野は強い声を出した。
「――何?」
目の前の男は沈黙の後に、遠慮がちに口を開く。
「……いや、何かすごく俺の演奏聴いてくれているから、もしかして知っている曲かなと思って。『Mr.Loud』、好き?」
良い声だな、と思った。
そして同時に、『Mr.Loud』という単語を久々に聞いて、夏野の心はざわめいた。
それは、あの日佑と視聴覚室で観た速弾きバンドの名前だった。
「あぁ……うん、昔よく聴いてた」
心を落ち着かせながら答える。
サングラスで表情は少し読みづらいが、夏野の目には彼が心なしか嬉しそうに見えた。
平静を取り戻した夏野は、ふと気になったことを口にする。
「――でも、アコギで弾くような曲じゃないよな? 他にもあるじゃん、『Be With Me』とか、『Super-realistic』とか」
「それもうさっき弾いたよ。聴いてなかった?」
彼がちらと夏野の手元を見た。
「あ、CD聴いてたんだ。何聴いてたの?」
「『Swords & Flowers』知ってる? さっきライブ盤中古屋で見付けて」
「勿論。俺も好き」
そして彼は今度はSwords & Flowersの代表曲を弾き出した。
またもやそれはアコースティックで弾くような曲ではなかったが、夏野の心にすとんと自然なスピードで届く。
思わず夏野の顔から笑みが零れた。
「その曲、アコギで初めて聴いた。うまいね」
「ありがとう。何だか俺達すごく趣味が合うみたい」
彼の瞳がサングラスの奥で笑ったように見えた。「――あ、そうだ」そして彼は思い付いたように続けた。
「ねぇ、折角だから、1曲歌っていかない?」
想定外の誘いに、夏野は目を丸くした。
「……なんで?」
「え? だって――あなたが、すごく、歌いたいように見えるから」
歌いたいように見える?
夏野は心外だった。
俺は、こんなにも――歌いたくないのに。
「――はっ、無理無理」
心に立ち込めた黒い靄を振り切るように、夏野が乾いた笑いで否定する。
「いきなり歌えるわけないだろ」
「そう? そんな風には感じないけど」
夏野の心のざわめきに気付くことなど当然ないように、目の前の彼は続けた。
「――あなた、歌うひとでしょ。なんとなく、わかる」
そして彼はギターを弾き出した。
それはMr.Loudの曲で、夏野も好きな曲で、そして――かつて佑と組んでいたバンドで歌った曲でもあって。
「無料カラオケとでも思ったら? 知っている曲なら何でも弾けるよ」
夏野の中で、どくん、と音が鳴る。
それが胸の高鳴った音なのか、それとも恐怖に怯えた音なのか、夏野には判別がつかなかった。
その中で、一つだけ確かなことがある。
――こいつのギターを、もっと聴きたい。
それは夏野の純粋な願望だった。自分がバンドを組んでいた時も、佑の演奏以外にそう感じたことはない。
しかし、夏野は目の前の彼がどれだけ弾けるのか、ただ興味があった。
そして夏野が口を開こうとした――その時。
『――ヘタクソ』
ふと記憶の中の声が頭を過って、夏野は硬直した。
直後、ギターの音が止まる。
はっとして彼を一瞥すると、彼も夏野の方に顔を向けたままでいた。
その視線にいたたまれなくなり、夏野は思わず首を横に振る。
「……こんな所で歌えねぇよ」
「――そういうの気にするひと?」
彼は自転車の荷台にあるリュックを漁り出した。
「じゃあ、これかぶったら。顔が見えなきゃいいでしょう」
そして差し出されたのは、ニワトリのかぶりものだった。
ご丁寧に口元は声が通りやすいように穴が開いている。覆面ボーカリストというわけだ。
何故こんなものを持っているのか、そもそも夏野を『歌うひと』だと思ったのは何故なのか――訊きたいことは山程あったが、夏野が口を開く前に彼はまたギターを弾き始めていた。
逡巡する夏野を置いて、彼はイントロを弾き終える。
「――もしかして歌詞わからない? 歌詞カード、要る?」
歌詞は知っている。何十回も練習したのだ。まだ鮮明に覚えている。
しかし、夏野は歌うことを躊躇していた。黙っている夏野を見て、彼は首を傾げた。
「……ひとまず、ニワトリになったら」
お言葉に甘えて、夏野はニワトリの覆面を被った。
視界が大きく遮られたことで、少し平静を取り戻すと同時に、瞼の裏には過去の情景がよみがえっていた。
夏野は、混乱していた。
コンテストの会場を出てから、佑は一言も口を利かない。ベースとドラムのメンバーは、空気の重さに耐えかねていつの間にか姿を消していた。
コンテストの結果、夏野達のバンドは何の賞も獲ることができなかった。
緊張していたのか、いつもより佑のギターが上滑りしているように夏野は聴こえたが、それでも演奏が終わった後はバンドの中にやりきったという充実感があった。
――それが、表彰式で一変した。
「……トモ、よかったな」
ぼそりと佑が呟き、夏野は顔を上げた。
「ボーカル部門最優秀賞なんて、すげーじゃん」
その声はとても祝福をするようなトーンではなく、夏野は何も答えることができなかった。
『バンドではなく、夏野だけがボーカルとして評価された』
その事実が、佑との間に絶対的な溝を生んでいた。
「俺は無冠だもんなー、情けねぇわ」
「……いや、佑のギター良かったよ。今日の審査員、耳がおかしいんじゃねぇの。気にすんなよ」
前を歩いていた佑が振り返る。
無表情だった佑を見て夏野は一瞬息を呑んだが、そんな空気を察知したのか、佑はふっと小さく笑った。
「――だよな。あいつら耳腐ってるよな」
夏野はほっと胸を撫で下ろす。
自分の歌が評価されたのは嬉しいが、佑との関係がぎくしゃくするくらいだったら、賞など要らなかったのにとも思った。
現在の自分が世界と繋がっていられるのは、佑のギターのお蔭なのだから。
次の日登校すると、クラスメート達が夏野に祝福の言葉をかけてきた。
亜季も我がことのように喜んでおり、そこで初めて夏野も嬉しさを感じた。
今になって考えてみると、その頃から、佑との会話は減っていったように思う。
同様にバンドの練習回数も減っていったが、受験勉強の関係だと佑やバンドメンバーから言われ、そういうものだと信じて疑わなかった。
文化祭のライブまでの2ヶ月間、夏野はバンド練習のない日はカラオケで練習して過ごした。佑は他のバンドに頼まれて、掛け持ちするらしい。
「もっとギター上手くなりたいからさ、そっちでも練習してうちのバンドにも活かそうと思って」
その言葉はあくまで佑のホームは自分達のバンドだという証明であり、夏野はそれが少し嬉しく、誇らしくもあった。
そして迎えた文化祭ライブの日、その小さな誇りは砕け散った。
夏野達のバンドはトップバッターだった。いつものようにドラムが音頭を取り、曲が始まった瞬間――夏野は耳を疑った。
流れてきたのは、一度も練習したことのない曲だ。
驚いて佑を見るが、彼は平然とギターを弾いていた。
ベースもドラムも、普通に演奏している。
明らかにこの場の異分子が夏野だとでも言うように。
――何故!?
状況が理解できないまま、それでも夏野は何とか対処しようと目を閉じる。
海は変わらず広がっていたが、夏野の混乱を表すように波立っている。
歌詞はわからない、メロディーは自信がない、それでも夏野は歌うしかなかった。
なんとか歌いきっても、また何となくしかわからない曲が続く。
荒れ始める海の中で、夏野はただ、歌い続けた。
パラパラと拍手が聞こえてはっと現実に戻ると、目の前の観客達は苦笑を浮かべていた。
最前列の亜季は呆然としている。「ボーカル、ドンマーイ!」観客の声が響いた。
何も言えず、夏野はステージを降りようとした。
佑の横を通り過ぎる瞬間、ぼそっと声がした。
「――ヘタクソ」
夏野は、顔を上げることができなかった。
あの後、亜季から聞かされたのは、佑だけでなく、ベースもドラムもバンドを掛け持ちしていたという事実だった。
それぞれ掛け持ち先のバンドの演奏は上手くいったらしい。
「――あいつら、最悪。なっちゃんを陥れる為に、わざとやったんだ……!」
普段はクールな亜季が怒りを露わにする姿を見ても、夏野は怒りを感じることができなかった。
夏野の中にあったのは、ただ一つ――喪失感だ。
佑は仲の良い音楽友達で、最高の相棒だと思っていたのに、そう考えていたのは自分だけだったと大衆の面前で突き付けられ、ただショックだった。
それからも度々、その日の情景が夢に出てきては夏野を追い詰めた。
学校ではできるだけそんな素振りを見せぬよう振舞っていたが、あの時の観客達の視線を思い出すだけで寒気がして、進学先も近場の都立高校から今の高校に変えた。
全てから逃げる自分が情けなくてたまらなかったが、それでも夏野にはそれ以外に自分を保つ術がなかった。
できるだけ自分を知る人が少ない環境に身を置いて、そして――二度と人前で歌うつもりはなかった。
たとえ、世界との繋がりが途切れても、もうあんな思いはしたくなかった。
――しかし、目の前の男は自分に「歌え」と言う。
「……なんで」
ニワトリの覆面を被った夏野は、彼に問う。
「なんで、俺のことをボーカルだと思ったんだ?」
狭い視界の中で、彼の口角が小さく上がるのが見えた。
「――理屈はないよ。あなたが俺の演奏で歌ってくれたら、楽しそうだなと思った。ただそれだけ」
ギターが鳴った。
それは夏野にとって、何かの始まりを告げる合図のように聴こえた。
「少なくとも俺は、感謝してる。今日あなたと出逢えたことに」
遠くから、さざ波の音がする。
ギターがイントロを奏で始め――夏野は、覚悟した。




