track03. 秋の少女は英雄を待つ-Autumn Girl Is Waiting for Her Hero-(3)
時が過ぎるのは早いものだ。亜季はひしひしとそれを感じていた。
春原が書いてくれた楽譜のお蔭で、或る程度弾けるようにはなったと思う。しかし、バンドで合わせてみると、しっくりこない。自宅では原曲をMDで流しながら練習をしているのだが、ピアノとシンセベースでは音が違うのでどうしても違和感がある。シンセベースで他の楽器と合わせたら意外に上手く聴こえるかも知れないと、少し期待を持ってスタジオを訪れたが、実際には一人で先走ってしまったり、隣の鍵盤を誤って弾いたりと、なかなか上手くいかない。
「いいじゃん、一週間でこれだけ弾けるようになったんだから。まだ三週間あるから三倍上手くなるよ、亜季」
夏野が笑顔で言う。「そうかな」亜季が少し沈んだ声を出すと、春原が近付いてきた。
「高梨さん、家にあるのってピアノでしたよね」
「うん、そうだけど」
「――もしかして、鍵盤の軽さに慣れていないんじゃないですか? だからちょっとテンポが走ったり、勢い余って違う鍵盤を弾いてしまうのかも」
言われてみると、確かに一週間ぶりに触るシンセの鍵盤は、家のピアノとは随分重さが違うように感じる。
「成る程な。……わかった、ちょっと俺対策考えるから、亜季はひとまず今日何度か合わせる練習してみよう」
亜季は一時間半ずっとシンセを弾き続けた。こんなに真面目に練習したのは、初めてかも知れない。
思い返してみれば、亜季はピアノを弾く時はいつも一人で、誰かと合わせて演奏をした経験があまりなかった。クラス皆でリコーダーの合奏をしたことはあるが、同じ音色の何十分の一と、異なる音色の四分の一では、性質も重みもまるで違うように感じられる。
そして、下校のチャイムが鳴った――タイムアップだ。
「俺、先帰るわ」
冬島が鞄を持ってスタジオを出て行く。亜季は、今日冬島と会話を交わしていない。それどころか、彼は一度も亜季の方を見なかった。気にしても仕方がないが、自分の存在が認められていないように感じて、小さく溜め息を吐く。
六月公演まで、あと――三週間。
そして明くる日、夏野が昼休みに声をかけてきた。
「亜季、ちょっといい?」
手短にお弁当を食べ、夏野に言われた通り楽譜を持ち、彼について廊下を歩く。
「なっちゃん、どこ行くの?」
「まぁ、ついてくればわかるって」
そして辿り着いたのは、廊下の端にある物理室だった。夏野はそのまま室内を進み、奥の準備室の扉をノックする。
「坂本センセー、いますか?」
坂本というのは、物理担当の教師で、軽音楽部の顧問だった。亜季は習ったことがないが、一年生の時他のクラスの友人から噂を聴いていた。
――曰く、かなりのカタブツで、とっつきにくい先生だと。
亜季自身の彼とのコンタクトは、先週軽音楽部に入部する為、入部届を出しに行ったのが初めてだ。確かに高二になって入部するというのに、特に理由を聞かれることもなく、事務的に書類を受け取られて終わった。眼鏡の奥に潜む眼にギロリと睨め付けられると、気の弱い生徒であればそれこそ蛇に睨まれた蛙のようになってしまうだろう。バンド活動などに全く興味もなさそうな彼が何故軽音楽部の顧問を担当しているのか、亜季は不思議に思ったものだ。
そんなことを思い返している間に、準備室の扉が開いて坂本が顔を出す。前髪はオールバック、羽織っている白衣にはアイロンがしっかりとかけられており、几帳面であろう性格がひしひしと伝わってくる。年齢は四十前後だと思われるが、威厳というよりは近寄り難さに近い空気感を纏っており、もう少し年上に見えた。そんな坂本が夏野に視線を向けた瞬間――その圧がふっと緩んだ。
「――何だ、君か」
「先生、この前教えてもらった『LIPS』のライブ盤良かったっす。俺『You Stole My Love』が好きかな」
夏野が笑顔でそう話すと、坂本が小さく笑みを浮かべる。亜季は初めて坂本の笑顔を見た。
「そうだろう。私はやはりオープニングの『Hollywood Rock City』だな。あのアルバムの収録バージョンは歴代最高テイクだと思っている」
そのまま亜季にはよくわからない話を夏野に語り続ける。夏野もそれに楽しそうに乗っていたが、ふと「そうそう、先生。お願いしていた件、どうです?」と切り返した。そこで坂本も我に返る。
「――あぁ、そうだったな」
咳払いをして亜季に振り向いた坂本の表情は、いつもの仮面を纏っていた。
「ついてきたまえ」
――そして、坂本が夏野と亜季を連れてやって来たのは……
「……音楽室?」
そう、音楽室だった。
「さすが、話付けてくれたんですね」
「当然だ。但し、六月公演までの昼休みの間だけだからな。その後は吹奏楽部が練習で使い始める」
夏野に促されて部屋の奥の方に進むと、キーボードが置いてある。スタジオで使用しているシンセに比べると音数は少ないが、ベース音も出せるようだ。これで少なくともスタジオ練習以外の日にもシンセに近い練習をすることができる。亜季は思わず夏野の顔を見た。
「なっちゃん、ありがとう」
そして、坂本にも礼を言おうと亜季が振り返るが、既に坂本の姿はない。もう物理室に戻ったのだろうか。
「坂本先生と仲良しなんだね」
「ん? あぁ、あの先生LIPSっていうバンドが超好きで、それで音楽のこととかよく話すようになったんだ。プライベートでベースも弾くんだって。普段のイメージと全然違うよな」
夏野の屈託のない笑みを見て、亜季は胸が熱くなるのを感じた。
そう、夏野は小さい頃から、いつも人に囲まれていた。一見怖そうな春原や、周囲に対して威圧感のある冬島、そして付け入る隙のなさそうな坂本も、夏野にはどこか心を許している。それは一番長く夏野を見てきた亜季が誰よりもわかっていた。
夏野は確実に、自分を取り戻していっている。その事実が亜季を奮い立たせた。
――昼休みの残り時間はあと十五分。少しでも練習をする為に、亜季はキーボードの前に立ち、楽譜を広げた。
翌週のバンド練習では、亜季は全体のテンポに合わせて大体弾けるようになっていた。
「高梨さん、かなりシンセに慣れてきましたね」
春原が褒めてくれたのは素直に嬉しかったが、まだ十分ではない。明らかに自分以外のピースは完璧で、それについていくのがやっとだ。少しでも気を抜くと、途端に崩れてしまう。バンド練習以外にも、亜季は自宅で、そして昼休みの音楽室で懸命に練習した。
気付けば公演前のバンド練習は残すところあと一回となっていた。
今日も亜季は昼食を早々に食べ終え、音楽室で練習に励んでいた――すると。
「おーおー、怖ぇ顔」
いきなり響いた声にはっと顔を上げると、音楽室の入口に冬島が立っていた。
「冬島さん……?」
冬島はずかずかと室内を横切り、壁の近くに置かれていた小太鼓をスタンドごと持ち上げる。そのままパイプ椅子と小太鼓を抱えてキーボードの前にそれらをセットし、座った。亜季はそれを見ていることしかできない。
「……あの?」
冬島が顔を上げて亜季を見た。
「――高梨、だっけ?」
「はい」
「あんまり、他の奴と一緒に演奏したことないだろ」
――図星だ。言外に責められているような気がして、亜季は小さく俯く。冬島から溜め息を吐く声が聞こえた。
「勿論間違えないで演奏するのは大事だが、それよりセッションで大事なのは『呼吸』だと俺は思ってる。――で、俺と高梨はバンドではリズム隊だから、俺と高梨の呼吸が合わないと上手くいかない。だから」
一度冬島の言葉が途切れる。少し間が開いて、亜季が視線を上げた瞬間――思いがけない台詞が彼の口から飛び出した。
「――だから、俺と付き合おう」
「……え」
思わず冬島の顔を見つめる。彼の顔は大真面目で、亜季は呆気に取られたまま、それ以上言葉が出なかった。
「――というのは、冗談で、つまり」
表情を変えずに冬島が続ける。
「……呼吸を合わせる為には、そんな難しいカオしてちゃあ駄目だ。もっと楽しそうにやんな――ほら、こんな風に」
冬島が手にしたスティックで目の前の小太鼓を叩く。しかしその表情は真顔のまま、亜季を睨み付けるようだ。言葉と行動のギャップに、亜季は思わず吹き出した。
「こんな風にって……全然楽しそうじゃないんですけど」
「あ? 誰がどう見ても楽しそうだろうが。どんな目ん玉してんだ」
冬島の小太鼓が小気味よくリズムを刻む。
「ピアノでもメトロノーム使ってテンポの練習するだろ。俺がこのバンドのテンポを決める。だから――困ったら、取り敢えず俺の音を追え。わかったな」
そこまで一息に言うと、冬島は小太鼓とパイプ椅子を元の位置に戻して、出て行った。
まるで嵐のようだ。まともに話したのは初対面の時以来だが、あんな冗談を言う人だとは思わなかった。
「――楽しそうに、かぁ」
少し肩の荷が下りた気がする。冬島が去っていった扉の方を見て、亜季はもう一度小さく笑った。




