track03. 秋の少女は英雄を待つ-Autumn Girl Is Waiting for Her Hero-(1)
何度でも言おう
君の歌が、私の日々に彩りをくれた
track03.
今でも昨日のことのように思い出せる。
圧倒的な歌声、弾けるような笑顔、歓声の中で躍動する肢体――誰もが君に心を奪われた。
あの日、あの瞬間まで、君は皆のヒーローだった。
――そして。
それは今も、変わることなど、決してない。
***
亜季が夏野に抱いた第一印象は、『よく笑う男の子』だった。
父の仕事の関係で引っ越してきた日、両親に連れられて、隣家である夏野の家に挨拶に行った。
緊張で上手く話せない亜季に、夏野は手を差し出し「あくしゅ」と言って笑った。
翌日から、夏野は近所の子ども達の輪に亜季を連れ出すようになった。
皆で日が暮れるまで追いかけっこをしたり、サッカーの真似事をしたりして遊んだ。
いつも人に囲まれている夏野のことを、亜季も慕うようになった。
或る日、亜季は週一回のピアノのレッスンに向けて、自宅で練習に励んでいた。
幼稚園の頃から習っているが、最近は少し曲が難しくなってきた。
なかなか上手く弾けず、溜め息を吐いて指を止めた時――どこかから、誰かが歌う声がする。
その声は、亜季の心にぽたりと色を付けた。
衝動的にピアノを離れて窓を開ける。
しかし、歌声はぴたりと止んで、辺りには静けさが戻っていた。
仕方なく亜季は再度ピアノの前に座った。
そのまま曲の頭から弾き続けたが、突っかかりやすいパートに差し掛かる。弾き違えた亜季が指を止めると、先程の歌声が響き――また、引っ込むように消える。
どうやら、亜季のピアノに合わせて誰かが歌っているようだ。
亜季の心に染み付いた色が、じくじくとその存在を主張する。
――もっと、聴かせてほしいと。
亜季はその歌声が聴きたい一心で、ピアノの練習を続けた。
耳を澄ませてピアノを弾いていると、その陰に確かに歌が響いている。
それが楽しくて、憂鬱だった練習が楽しみになったのを覚えている。
その後、亜季は小学校の音楽の授業で、思いがけずその歌声の主を知った。
最初はまさか、と思った。通常の夏野の話し声とは全く違ったからだ。
しかし、その歌声は耳に心地良く響き、聴く者の胸を打つ。
亜季はざわめくクラスメート達の中で、一人感動の再会に心を震わせていた。
「――あの歌、なっちゃんだったんだ」
帰り道、興奮する心をひた隠しにしながら夏野に話しかけると、彼は「あぁ」と照れくさそうに笑った。
「亜季のピアノ、聴いてたら歌いたくなっちゃって……うるさかった?」
「そんなことないよ。私、なっちゃんの歌、好き」
亜季のその言葉を受けて、夏野はまた笑う。
その日から、亜季にとって夏野はそれまで以上に『特別な男の子』になった。
平凡な自分とは違う、才能を持った存在。
彼の歌を誰よりも早く知っていたことを、誇りにさえ思った。
だから、中学で夏野がバンドを組んで歌う機会が増えた時は、素直に嬉しかった。
バンドの練習の為にあまり一緒に帰れなくなったのは少し寂しかったが、ライブで夏野が歌う姿を観られるだけで、亜季は満足だった。
そう――あの中三の文化祭の日までは。
あの日、夏野の歌は原曲のメロディーラインとは異なっており、歌詞もなかった。
夏野に限って、あんなミスはありえない。佑達が彼を裏切り、大衆の面前で貶めたのは、亜季の目には明らかだった。
「練習不足かな?」「歌詞とんじゃったんじゃない」と囁く聴衆の中で――亜季は一人、呆然としていた。
――何故夏野が、こんな目に遭わなければならないのか。
文化祭が明けた翌週、登校した夏野からは溌溂さが失われていた。
あんなに一緒に居た佑は、彼に見向きもしない。
ステージ上で辱めておきながら、更に追い打ちをかける元メンバーに虫唾が走った。
「なっちゃん、おはよう」
努めて明るく亜季が話しかける。
それに対し、夏野は力なく顔を上げ、「……あぁ」と返し、笑った。
亜季は頭を殴られたような衝撃を感じ、絶句する。
それは、これまで亜季が見てきた彼の笑顔のどれにも似つかない、弱く儚いものだった。
ざわざわと肌が粟立つ。
彼女の中にあったのは、とてつもない怒りと――焦燥だ。
夏野は特別な存在なのだ。
あの歌声が喪われることなど、決してあってはならない。
その日、亜季は決意した。
「自分が、夏野を守る」と。
それから亜季は日々夏野について回った。彼がバンド活動を始める以前、そうしていたように。
二人の関係を揶揄するような声は全て無視した。そんなものを気にする余裕はなかった。
今の高校への進学を勧めたのも亜季だ。佑達から離れることができるし、なにより鬼崎達哉という現役高校生ミュージシャンが通う高校だ。
もしかしたら、また夏野が音楽を始める切っ掛けになるかも知れない。
しかし、亜季がどれだけ手を尽くそうと、あれ以来、夏野が歌うことはなくなった。
たまにカラオケに誘っても、何かと理由をつけて来ようとしない。
もしかしたら、と中学に上がる時に辞めたピアノを引っ張り出して弾いてみても、空しくピアノの音が響くだけだ。
あの日、亜季の心を彩った歌声が返ってくることはなかった。
それでも、亜季は粘り強く待ち続けた。
夏野の歌を取り戻すことは、自分の心を取り戻すことにも似ていた。
そして、時が過ぎること一年半――そんな幼馴染みの様子が変わったのは、ほんの一ヶ月程前のことだ。
いきなり鬼崎が夏野を訪ねてきた。
いつの間に彼と繋がりができたのか――亜季の全く知らないところで、夏野に変化が起きている。
あの日から、少しずつ、何かが動き出した。
それまでは亜季から声をかけて、クラスメートを交えて放課後遊ぶこともあったが、あれ以来終業のチャイムが鳴ると、夏野はそそくさと教室を出ていくようになった。
多くは語らないが――何だか、楽しそうに。
何が起こっているかはわからないが、確実に良い方向に向かっている。
それは、亜季にとって、非常に重要なことだった。
チャイムが鳴った。今日はこの後のHRが終われば、帰るだけだ。
亜季は二列程離れた席に座る夏野に視線を送る。
彼は机に肘を付いて、何やら考え事をしているようだ。それでも、その表情は決して暗くはない。
――ここしかない、そう亜季は思った。
「ねぇ、なっちゃん」
彼の机の前に立つ。顔を上げた幼馴染みに、亜季は優しく微笑みかけた。
「――たまにはおいしいもの食べに行こうよ」




