容易く蝕まれて行く心 -Dino-Ⅲ【醜悪】③
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陽も傾いた頃、第三騎士団の執務室へ戻るとそこにジョエルの姿は無く、代わりにオリヴェルが書類整理に没頭しているのが見えた。
間もなく定時になると言うのに、彼は全く気付く素振りも無くテキパキと書類を整理している。
まだディーノの存在に気づいていないオリヴェルに労いの言葉をかけると、書類から視線を外した彼は、律義に椅子から立ち上がって挨拶をした。
「ディーノ副団長、お疲れ様です」
「あぁ……、ジョエル団長は?」
「ジョエル団長なら、少し前に医療棟へ向かわれました」
「……医療棟?」
反復したディーノに、オリヴェルは「マルグレット団長がいらして、話しをしていましたから」と付け加えた。
マルグレットが来ていたのなら、その内容は大方見当がつく。
あの場所からジョエルに関わるものとして連想できるのは、セシリヤしかいない。
もしかすると、セシリヤの容態に何らかの変化が見られたのかも知れない。
気にはなったものの、余程の事情がない限り、マルグレットの監視が厳しいセシリヤの元へは行けそうもないと、小さな溜め息をついてオリヴェルに職務を切り上げ帰宅する様に指示を出す。
しかし彼は、まだ仕事が残っているからと首を横に振り、生真面目なオリヴェルに苦笑すると、ディーノは彼の手にあった書類を取り、後は自分に任せて欲しいと言えば、彼は素直に頷いてディーノに残りの書類の処理を願い出た。
ざっと見た所、ある程度はオリヴェルによって的確に処理されていた為、全て終わらせるまでそう時間は掛からないだろう。
帰り支度をしているオリヴェルに、お疲れと一言声をかけると自席について書類に目を通した。
「そう言えばディーノ副団長。この中にジョエル団長へ早急にお目通しいただかなければならないものがあるんです」
ふと帰り支度をしていた彼はそう言うと、積んであった書類の中から数枚を掴み取るとディーノの前に差し出した。
見た所、別段急ぎと言う程の事でも無さそうだが、どう言う事だとオリヴェルの顔を見上げれば、
「早急だから仕方ありませんよね、医療棟内の例え監視の厳しい病室であっても、入らないわけには行きませんし。なんせ、早急ですから」
と、うんうん頷きながら独り言を言っている。
真面目な上に気の利く男だと心底感心しながら、お疲れさまでしたと律義に挨拶をして退室していく彼の背中を見送った。
ジョエルに、早急に会わなければならない用事ができた。
一応、ディーノの判断で処理できると言えばできるものだったが、それはそれで、まあ何とかなるだろう。
受け取った書類を持って、ディーノは執務室を後にした。
医療棟へ入ると、医療団員達の視線が一斉に向けられる。
おそらくマルグレットの指示で、医療棟に出入りする人物に注意を払うようにしているのだろうが、突き刺さるような視線が痛い。
「ディーノ副団長、どうされましたか?」
医療団の副団長であるフレッドが声をかけると、ディーノは持っていた書類を見せ、ジョエルへ早急に伝えなければならない事があるのだと建前の事情を説明する。
フレッドは少し考えて、マルグレットに相談をと言いかけたが、ディーノは時間は取らせないと半ば強引に言葉を遮りジョエルがいるはずの部屋へ向かった。
後ろからフレッドが止めに来ない事を確認し、ジョエルの部下である事で信頼されているのだろうと心の中で溜息を吐く。
(これがシルヴィオやレナードが上官なら、そう簡単には行かなかっただろう)
暫く廊下を進んだ所で、完全に閉まりきっていない扉を見つけ足を止めた。
部屋の中から微かに聞こえる声は、間違いなくジョエルとセシリヤのもので、無事にセシリヤの意識も戻り、会話も出来る程に回復している事に心の底から安堵する。
何を話しているのか、はっきりとは聞き取れないが、穏やかな話声は二人の信頼関係を物語っているようだ。
部屋の中に入ろうかと躊躇し、やはりやめて置こうと考え直したディーノは、去り際に薄く開いた扉の隙間から部屋の様子を覗き込む。
ただ、セシリヤの無事な姿を一目見たい一心で。
覗いた先の光景を目にしたディーノは、ほんの一瞬、信じられないものを見たと硬直し、そして次の瞬間には足早にその場から立ち去った。
医療棟を飛び出して、ディーノは混乱する頭を落ち着かせるのに必死だった。
愛しそうにセシリヤを胸に収めるジョエルの姿。
甘える様に身体を預けているセシリヤの姿。
あれは、どう言うことなのか。
以前から、ジョエルがセシリヤと何らかの形で親しい事は知っていた。
度々、ジョエルから預かった書類をセシリヤへ届ける機会があったからだ。
直接二人が並んでいる姿を見た事はなかったけれど、ディーノが騎士団へ入団する前から二人はそこにいて、同志として親しい程度だと思っていた。
しかし、先程の二人の姿を見る限り、それ以上である事が窺える。
端から見れば、それは慕情にも似た感情を匂わせる関係に思えた。
あんな顔をしたセシリヤを、見た事がなかった。
いつも気丈で、どんなに傷ついても決して他人に寄り添う事をしなかったセシリヤが、ジョエルだけに見せる顔。
セシリヤの全てを受け止め、彼女を支える事ができるジョエルを羨ましく思った。
彼女に容易く触れる事ができるジョエルを、羨ましく思った。
「……羨ましいって、何だよ」
脳裏にちらつく姿と感情を追い払う様に頭を振った。
「何を考えてるんだ、俺は……っ!」
セシリヤを、支えてやりたいと言う望みは、抱いてはいけない。
セシリヤの全てを、受け止めてやりたいと言う望みは、抱いてはいけないのだ。
彼女の大切なものを護ることすらできなかったのに、そんなことを望むなど許されるはずがない。
せめて、彼女の傍らにいたい。
そんなささやかな事さえ、望むことすら罪だというのに。
「……あの人の、望むままに生きることだけが、全てじゃなかったのかよ」
一度気がついてしまった感情に容易く蝕まれて行く心は、酷く醜いものだと言うことを、初めて知った。
【END】




