泣くのは、我慢しなくて良いんだよ -Priscilla- 【続・無邪気】②
とりとめのない話をしながら暫く二人で丘の上からロガール城を眺めていると、不意にプリシラのお腹から空腹を訴える音が響き、そう言えば、王都で退屈している時からお腹の虫と我慢比べをしていたなと、恥ずかしそうに顔を上げれば、しっかり音が聞こえていたらしいセシリヤがクスクスと笑い、
「私も、お腹が空いていた所です。少し遅くなりますが、今から王都に戻ってお昼ご飯にしませんか?」
その言葉にすぐさま頷いたプリシラは、イヴォンネと一緒に行こうと思っていたお店があるからそこへ行きたいと提案し、快く頷いてくれたセシリヤに飛びついた。
少し足は疲れていたけれど、セシリヤと一緒ならば、こんな疲れなどへっちゃらだ。
プリシラの心配をするセシリヤにそう答えると、来た時と同じように彼女の手を取って足を踏み出し、ふと、耳が拾い上げた小さな音に顔を上げると、広がっていた青い空に僅かな違和感を覚えて首を傾げた。
―――その直後、突然、穏やかだった空気が不気味に揺れ、ビリビリと肌を刺激する嫌な気配に思わず肩を竦め、慌ててセシリヤを見ると、彼女は先程までプリシラが見上げていた空をじっと見つめていて、再び視線を空へ戻せば、白い雲を従えていた穏やかな青空に大きな亀裂が入っているのが見えた。
正確に言えば、亀裂が入っているのは魔術団が施している結界だ。
「結界に亀裂なんて……、どうして……」
そう呟くセシリヤにしがみつきながら、プリシラはイヴォンネからよく聞かされていた話を思い出す。
ロガール魔術団の施した結界は、余程の事がない限り破られることは無いと、イヴォンネは言っていた。
ただし、魔王やそれにとても近い強い魔力を持った魔物なら、その限りではないとも。
万が一にでも、結界が破られるような危険な状況に陥った場合は、すぐにそこから逃げること。
それから……、
プリシラの思考を遮断するように、亀裂の入った結界がガラスの割れるような音を立てて崩れると同時に黒い影が飛び込んで来るのが見え、セシリヤが庇うようにプリシラを抱き締めた。
飛び込んで来た黒い影は間違いなく魔物で、こちらを威嚇しながら不気味に咆哮すると、結界が破られ無防備になったその場所から、次々と呼び寄せられた魔物が入り込んで来る。
正確な数はわからないが、人が乗れる程の大きさの四つ足の獣型の魔物が数体と、人間の形を模しきれなかった大型の異形の魔物が一体。
まだ生み出されたばかりなのか、濃い瘴気と異臭が形を維持でき損なっている身体から漏れ出していて、緊張と恐怖で吐き出しそうになるのを何とか堪えたプリシラは、護るように自分を抱き締めているセシリヤを見上げた。
「セシリヤちゃんっ、逃げようっ……!」
怖いとセシリヤにしがみついて訴えたが、逃げ道を塞ぐように囲まれている上に、背後にある墓石の先は切り立った崖で、落ちればただでは済まないだろう。
どう考えても、ある程度の魔物の数を減らして道を作る他に方法がない。
「大丈夫です。すぐに結界の異変に気づいて、誰かが来てくれます。それに、プリシラちゃんの事は、私が護ります」
しっかり掴まっていて下さい、とプリシラの身体を抱き締めるセシリヤの腕に力が入り、同時に四つ足の魔物が二人目掛けて襲い掛かって来る。
鋭い牙と爪がプリシラの視界に入り、思わず目を瞑ったが、直前に張られた防御魔術に遮られ、弾かれた魔物は防御魔術に重ね掛けされていた状態異常の魔術で麻痺状態に陥ったのか、地面に倒れ痙攣を起こしていた。
数体はこれでしばらく起き上がれない状態になったが、それでもこの包囲網から逃れるには難しい。
状態異常にかからなかった残りの四つ足の魔物が後ずさり、警戒しながらこちらの様子を窺っていると、異形の魔物が地面に倒れ痙攣している魔物の足を掴み上げ、二人へ向かって勢い良く投げつける。
極単純な攻撃を、難なく跳んで避けるセシリヤから落ちない様しがみついたプリシラの眼が、着地する瞬間に狙いを定めて向かって来る四つ足の魔物を捉え、咄嗟に炎の魔術の術式を空に描き詠唱すると、そこから小さな炎の矢が勢い良く放たれ、向かって来る魔物の足止めをする。
プリシラの瞬時の判断と魔術のお陰で無事に着地したセシリヤが礼を述べ、誇らしげにプリシラが頷くと、その一瞬の隙を突いた異形の魔物が勢い良く地面に両腕を叩きつけ、大きな振動とめくれ上がり隆起する地面にバランスを崩したセシリヤが体勢を崩して転倒し、抱えられていたプリシラもその腕から転がり落ちてしまった。
幸い怪我はなかったが、転がり落ちた拍子に帽子が飛ばされてしまい、手を伸ばしたものの捕まえる事ができなかった帽子は風の悪戯にされるがまま、プリシラのいる場所よりも少し先の地面に落ちた。
遠くまで飛ばされなくて良かったと安心したプリシラは、ふとその帽子にイヴォンネがつけてくれた魔石のブローチがついている事を思い出して、彼女に聞かされていた話を頭の中で復唱しながら、慌てて帽子を取りに走った。
万が一にでも、結界が破られるような危険な状況に陥った場合は、すぐにそこから逃げること。
それから……、
「すぐに、ママに連絡をすること……!」
現状、遠く離れた相手と話や意志を疎通させたり、物や人をどこかへ転送するような魔術や魔具は存在していない。
イヴォンネがそれについての研究をしているようだが、完成には至っておらず、けれど時々、研究途中の試作品を持って帰って来る事があった。
もしかすると、今日の別れ際に帽子につけてくれたあのお守り代わりのブローチは、その試作品なのでないかとプリシラは思う。
イヴォンネは、嘘と無駄な事が嫌いだ。
ただの気休めで、何の効力も持たないお守りなど持たせるはずがない。
「ママ……、ママに言わなくちゃ!」
視界の端で、セシリヤが四つ足の獣と交戦しているのが見えるが、騎士ではない彼女は帯剣をしていない為に魔術で抵抗するしかなく、接近戦且つ助けが来るまでの持久戦ともなると分が悪い。
早くしなければ、セシリヤの身も危険だ。
帽子が落ちた場所まであと少しの所で目の前を眩しい光が走り、紙一重で前方に飛んで避けたものの、自分がいた場所を振り返ると、地面が深く抉れていた。
見たことのない魔術に、一体誰がと視線を寄越せば異形の魔物が目に入り、その濁った瞳がプリシラを捉えると、向けられたままの醜い大きな手の平に禍々しい術式が浮かび上がり、再び閃光が走る。
幸い、緩慢な動きで放たれたおかげでうまく二発目の閃光を後ろに跳躍して避け、抉れた地面に落ちずにスタート地点に戻る事は出来たが、スカートの裾が僅かに閃光に触れてしまったらしく、無残に裂けていた。




