小さな秘密 -Priscilla-【無邪気】②
実験塔に来た時には真上にあったはずの太陽は傾き、廊下を行き来する人影もまばらになった頃、プリシラはとうとうその場で動けなくなり、膝を抱えて座り込んでしまった。
どれだけ歩いても見回しても、知っている人……、ましてやイヴォンネの姿など見当たらない。
歩き回った疲れと空腹と寂しさに、我慢していた涙がぽろぽろと大きな瞳から落ちて来る。
どんなにイヴォンネの帰りが遅くなろうと、一人で心細い留守番をした時も泣いたことの無いプリシラだったが、この時ばかりは泣かずにいられなかった。
イヴォンネ達がいる暖かい世界しか知らなかったプリシラが、初めて一人で目にした外の世界は、あまりにも冷たく寒い世界で、寂しさと不安に押しつぶされてしまいそうだった。
「マ、マ……っぅっ……ママぁぁぁっ!」
プリシラがいつも握る、あの手の暖かさを思い出しながら呼んでも、優しく答えてくれる声は聞こえない。
気が付けば、まばらだった人影もなくなっていて、夕日に染まった廊下にはプリシラただ一人だけが取り残されていた。
このまま、誰も見つけてくれなかったらどうしようか。
もう二度と、イヴォンネに会う事は出来ないかも知れない。
そんなことばかり考えていた。
「良かった……、ここにいたんですね」
「!」
突然背後からかけられた声に、プリシラは振り返る。
自分の記憶の中にはない、知らない女の声だ。
声の主の顔を見ようとするプリシラの邪魔をするように、止まらない涙は視界を歪ませ、ごしごしと両手で目を擦って涙を拭いていると、いつの間にかプリシラの前にしゃがみ込んだ女が目を擦る手を制した。
「そんなに擦ると、目が腫れて痛くなりますよ」
そう言って、彼女は持っていたハンカチで優しくプリシラの涙を抑えた。
イヴォンネとは全然違うけれど、暖かくて優しい手が安心させるように頭を撫でてくれた事で、不安でいっぱいだった心が落ち着いて行く。
「医療棟であなたを見て迷子じゃないかって声をかけようとした人がいたんです。でも、ちょっと、顔が怖いお兄さんだったから、びっくりさせてしまいましたね」
確かに怖い顔をした人が、後ろから何かを叫んでいた事を思い出したプリシラが頷けば、目の前の彼女は「悪い人ではないから許してあげて下さい」と続け、手にしていたハンカチと、ポケットから取り出した綺麗な色のキャンディをプリシラに握らせた。
ふわふわの手触りの良いハンカチは、イヴォンネがいつも洗濯した後のタオルと同じ匂いがして、恋しさに収まっていた涙が溢れて来る。
「わっ、わたし……、魔術団のっ、実験、塔に行きたいの……、ママに、会いたいの……っ!」
声を出して泣くのを必死に堪えているせいで微かに声が震えていたが、うんうんと頷いている所を見ると相手には十分伝わったようだ。
「大丈夫、私があなたをママの所へ連れて行ってあげます」
「ほんと?」
快くイヴォンネの下へ連れて行ってくれると言う彼女に、プリシラは思わず抱き着いた。
どんなに周囲を見渡しても、誰一人としてプリシラに手を差し伸べてくれる人のいない冷たくて寒かった世界が、目の前の彼女の言動ひとつで、よく知っている暖かい世界へと姿を変えたような気がして、今度は別の涙が溢れ出る。
「心配しないで下さい。すぐにママと会えますから」
「……うんっ、うん!」
抱き着いたプリシラを引き離すことなくそのまま抱き上げた彼女は、優しく髪を撫でて顔を覗き込んで来る。
「泣くのは我慢しなくて良いんですよ。そんな顔でママに会ったら、きっとママも悲しくなってしまうから、ここでいっぱい泣いて、落ち着いたら、ママに笑って会えるように楽しいことを考えましょう。私が一緒にいますから」
「うんっ……! でも、ここで、泣いてたことは、ママに……、ひみつにしてねっ! ママが心配しちゃうから」
プリシラの言葉に頷きながら頭を撫でていた手が耳を掠め、ふと帽子を落としていた事を思い出して両耳を隠すように手で押さえれば、その行動を不思議そうに見ていた彼女と目が合い、廊下で自分の姿を目にした人のように、この耳に気が付いて態度が変わってしまわないだろうかと、少しだけ不安になって視線を落とした。
少なくとも、この耳を可愛いと言ってくれていたのは、イヴォンネと魔術団の知っている人たちだけで、他の人が皆そうではない事をプリシラは知ってしまった。
どうしてなのかはわからないけれど、この耳はチャームポイントでも何でもなかったのだと、生まれて初めてこれが恥ずかしいものだと思った。
「帽子……、だいじな帽子をどこかで失くしたのっ! わたしの耳、みんなとちがって変だから……、かくさないと……」
自分を抱き上げている彼女がどんな顔をしているのか、見るのが怖くてぎゅっと目を瞑ると、また涙が零れ落ちて余計に悲しくなって来る。
この腕から抜け出して逃げる事は容易いが、そう出来ないのは、この世界で今、プリシラが頼れるのは彼女ただ一人だけだからだ。
恐る恐る目を開けて、何も言わない彼女の表情を窺うと、
「それじゃあ、あなたと違う私の耳も変ですか?」
「ううん、変じゃない」
困ったような顔をして問いかけて来る彼女に、ふるふると首を横に振って否定した。
「それなら、あなたの耳も変じゃありません。皆が同じ姿かたちをしているわけではないので、勝手に決めつけて否定するのは良くないです」
「変じゃない……?」
「私は、ふわふわしているあなたの耳、可愛いと思いますよ。あなたのママだって、その耳を可愛いと言ってくれるでしょう?」
確かに、彼女の言う通りだ。
イヴォンネも魔術団の皆も、一度もプリシラの耳を変だと言った事はなかったし、プリシラ自身も自分と違う人を変だと言った事も、思った事もない。
けれど、やっぱり中には快く思っていない人間がいる事も確かで、どこか腑に落ちない顔をしていれば、
「勿論、中には何が何でも否定する人だっています。……でも、だからと言って、その逆を押し付ける事も良くありません」
「言ってることがむずかしくて、わかんないよ」
「あなたの耳を……、あなた自身を愛して可愛がってくれる人を信じましょう。あなたがあなた自身を否定をすれば、その人たちが悲しんでしまいます」
まだ幼いプリシラには難しい話ではあったけれど、ふと、可愛がってくれている人たちが悲しい顔をしている所を想像して胸が痛くなった。
大好きな人には、悲しい顔より笑った顔でいて欲しい。
この耳を嫌いだと言う人がいても、好きだと言ってくれる人が……、可愛いと言ってくれる人がいるのなら、その言葉だけを信じて顔を上げて笑っていれば良い。
そうすれば、いつでもプリシラの傍にいる人は笑顔でいてくれる。
とても簡単なことだと、幼いプリシラなりに考えて出た結論に納得し、握っていたハンカチで涙を拭きとると、顔を上げてまっすぐこちらを見つめる瞳と視線を合わせた。
「わたし、言ってること、わかったよ! でも、帽子はね、耳をかくすだけじゃなくて、本当に気に入ってるの! ママが作ってくれたから」
「それなら、ママの所へ行く前に、帽子も一緒に探しましょう。歩けますか?」
プリシラが頷くのを確認した彼女は、プリシラをそっと降ろすと小さな手を握り歩幅を合わせながら、魔術団の実験塔へ繋がる道を迷うことなく歩いて行く。
通った覚えのある道を辿りながら、実は実験塔が複雑な造りになっている事を知ったプリシラは、次からは一人で勝手に歩き回らない事を心に誓い、そうこうしている内に落とした帽子を発見し、大事に両手で拾い上げ汚れを払って高く掲げてみる。
見つけた嬉しさにくるくると回りながら帽子を被り、一緒に探すのを手伝ってくれた彼女に、可愛いでしょうとポーズを決めて見せると、自分のことのように喜んでくれる顔が目に入って、つられるように笑った。
「やっぱりあなたは、泣いているより笑ってる方が可愛いですよ」
そう言われて見れば、あんなに感じていた不安も寂しさもなくなっていて、いつの間にか、涙もすっかり引っ込んでいた。
初めて会ったはずの彼女の纏う雰囲気が、どことなく母親であるイヴォンネと似ているせいなのかも知れないと、思い出した顔がまた少しだけ恋しくなって、目の前の彼女にゆるゆると抱き着いてみる。
もう少しでイヴォンネのいる部屋に辿り着くと言うのに、たくさん歩き回っていたせいで小さな身体は体力の限界を迎えているのか、重たい瞼を上げても上げても降りてくる。
「眠っても良いですよ。ちゃんと、ママの所へ連れて行きますから」
優しく語りかけて来る心地良い声と、ほんのり鼻を擽る甘い香りが、懸命に繋ぎ止めようとする意識を沈ませに来る。
ここまで来たら、もうこの眠気に勝てる気がしない。
けれどその前に、言わなければならない事がある。
「……あのね、わたし……、プリシラ。……プリシラ・ヴェストルンド、だよ」
「プリシラちゃん?」
そう復唱する声に頷けば、彼女は良い名前ねと呟いた。
イヴォンネと、顔も知らない父親が、一生懸命に考え自分に与えてくれた名前を、彼女は褒めてくれた。
それが、嬉しかった。
「私の名前は、セシリヤ。……セシリヤ・ウォートリー」
「セシリヤ……ちゃ、ん……。おともだちに……、なれる?」
「はい、もうお友達ですよ」
「……帽子……」
「見つかって、良かったですね」
「うん……。ママ、の……お部屋、連れてって……くれて、あり、が……とう……」
穏やかな彼女の声と、歩く度に優しく揺られる心地良さに、プリシラは意識を手放した。
*
目を開けると、あの甘い香りと心地の良い声は消え去っていて、代わりによく知っている背中に背負われている事に気が付いた。
「……ママ……」
「皆、心配していたのよ、プリシラ」
「……ごめんなさい」
「あなたを一人にしてしまって、ごめんね。本当に、何事も無くて、良かったわ……」
プリシラが知らない世界へ踏み入る事をあまり良しとしないイヴォンネの声は、どこか寂し気で、けれど心底安堵したのか吐いた溜息は深く、おぶさるプリシラを見やる瞳は慈愛に満ちていて、どことなく、セシリヤがイヴォンネと似ていると思ったのは、その瞳に満ちる輝きのせいだったのかも知れないと、まだ少しだけ重たい瞼を閉じる。
――――やっぱりあなたは、泣いているより笑ってる方が可愛いですよ
そう言って笑ったあの人の綺麗な顔が、鮮明に瞼の裏に焼き付いている。
知らない世界へ踏み出したプリシラが、初めて出会った友達だ。
けれどまだ、イヴォンネにはセシリヤのことは秘密にしておこう。
プリシラだけの、小さな秘密。
あの優しい笑顔も声も、甘い香りも暖かい手も、全て、プリシラだけの大事な宝物だ。
【17】




