思い過ごしであれば良いのだが -King-Ⅲ【予感】②
意識を手放したのは、規則正しいリズムで胸の辺りを優しく叩く彼女の微笑みに小さく頷いたのと同時で、ぐっすり眠って次に目が覚めたのは、翌日の正午の事だ。(起きた時、彼女がそう教えてくれた)
昨日とは違って、ここが異世界であると認識している状態で起きたせいか取り乱すことは無く、それに安心した彼女は、シンプルな食事をベッドへ運んで来てくれた。
しかし思っていたよりも食欲が無く、中々手を付けようとしない様子に気が付いた彼女は、食べられる時に食べれば良いと笑って食事の載ったトレーをベッドサイドの小さなテーブルに置き、傍にあった椅子に腰かけた。
「先に、話を聞いてもいい? 答えたくなかったら、答えなくていいよ。貴方は、どこから来たの?」
軽い世間話をするような口調でそう問いかけて来る少女に、自分の身に起った事を話して信じてもらえるだろうかと躊躇い俯けば、それ以上は何も聞かず、そのまま彼女は話を振って来る。
「この森、とっても深くて普段は人なんて来ない所なの。何かの拍子に道に迷うか、この辺りの事を詳しく知っている人じゃないと近寄りもしないから、倒れてる貴方を見つけた時は本当にびっくりしちゃった」
聞けば、必要な薪を拾い集めに森の中へ入って作業をしていた所、偶然倒れていた姿を見つけて保護したと言う。
(もしかすると、あの葉擦れと小枝の折れる音は、彼女が近づいて来ていた音だったのかも知れない)
家まで一人で運ぶのが大変だったと、少しおどけて話す少女の声を聞きながら、ここで彼女と出会えた事は不幸中の幸いであったと心の中で思った。
深く事情を聞かず、そうかと言って、特に怪しむ素振りのない彼女の傍が今は何となく、居心地が良い。
(右も左もわからない世界で、初めて優しく接してくれた人だと言うせいでもあるのだろうけれど)
ふと、助けてくれたお礼を言っていない事に気が付き顔を上げると、いつの間にか彼女が両手に着替えらしきものを持っており、自然とそれに視線を寄越せば、汚れた服を洗うから着替えて欲しいと差し出して来る。
サイズが合うかどうかはわからないけれど、と付け足した彼女は持っていた服をベッドに置くと、着替え終わったら教えてねと背を向けた。
ここまでしてもらって良いのかと言う戸惑いはあったが、いつまでも汚れたままの服で他人のベッドを占領するわけにも行かず、昨日走り回ったせいで筋肉痛のする腕や足をどうにか動かしながら、手早く着替えを済ませて声をかけると、脱いだ服を集めた彼女は、汚れが落ちるかどうかを心配しながら立ち上がる。
元の世界とは違って、おそらく手洗いするのだろう彼女の労力を考えると全て任せてしまうのも申し訳ない気がして、引き止めようと手を伸ばすと、その手がギリギリ掴んだ汚れた服のポケットから、生徒手帳がするりと床へ落ちて行った。
一瞬の沈黙の後、床に落ちた生徒手帳を拾い上げた彼女は興味深そうに表と裏を眺め、それから、何かを考え込むように首を傾げながら、
「……フ、シ……ャ……、オイ?」
聞き慣れた文字の羅列が彼女の唇から紡がれた事に、驚きを隠せなかった。
あの残虐な王の治める国を出た時、至る所で見かけた文字は今まで目にしたことの無いものばかりで書かれていて、自分には読むことが全く出来なかった。
故に、異世界であるここには、自分の元いた世界の文字を読める人間がいるとは、思いもしなかったのだ。
「文字……、その文字、読めるのか?」
彼女が読み上げた文字の羅列は、間違いなく自分の名前だ。
産まれてから両親がつけ、今まで多くの人に呼ばれ続けた名前。
この世界では、まだ誰にも名乗っていない、元の世界での自分の名前だった。
「俺は、伏谷 葵……」
「……フシャオイ? これが、貴方の名前で合ってる? こっちの複雑な文字は読めないけど、フリ……、ガ、ナ? これなら少しだけ、読めるよ」
正しい名前を名乗ったものの、どうやら彼女の耳にはそう聞こえたらしく、けれど、どこか誇らしげに胸を張って文字を読めると話す姿に訂正する気は起きず、そのまま頷いた。
それにしても、何故彼女が元の世界の文字を読めたのかが気にかかる。
よく好んで読んでいた異世界の物語では、主人公は難なく異界の文字を読み書き出来ていたけれど、自分にはそれが出来なかった。(言葉だけでも通じているのが幸いだ)
この世界の人間が特別なのか、それとも、この世界のどこかに元いた世界と同じような国が存在しているのだろうか。
もしもそんな国があるのなら、まずはそこを目指して旅をするべきだと考え、彼女に文字が読める理由を聞いてみると、
「ずっと前に、教えてくれた人がいるから」
思っていたものとは随分違ったが、それよりも更に衝撃的な回答に、心臓が早鐘を打った。
この世界のどこかに、自分と同じ世界から召喚された人間がいる。
同じようにあの王に呼び出され、自分と同じようにその人も魔王を倒せと命令された挙句に追い出され、何かの切っ掛けで目の前の彼女と出会ったのかも知れない。
「その人は今、どこに? ここに来ることは? 名前は? 性別は?」
少しでもその人の手がかりが欲しいと矢継ぎ早に質問をしたが、目の前の彼女は少し寂しそうな顔をし首を横に振って、数年前にいなくなってしまったと答えた。
「必ず帰って来る」と言って出て行ったにも関わらず、いなくなってしまった理由はわからないけれど、もう一度その人に会えたら謝らなければならない事があると続けた彼女は、いつかその人を探す旅に出るのが目標だと言って、持っていた生徒手帳をサイドテーブルへ置き、力になれなくてごめんなさいと頭を下げ謝罪する。
謝る必要はないと慌てて下げた頭を上げさせ、有力な情報をくれた事にお礼を言うと、彼女は小さく頷いた。
もしも、最初に召喚されたその人が、この世界を脅かしていると言う魔王を倒す事が出来ないまま、今もどこかで隠れて生活していたと仮定して、いつまでも成果が得られずに痺れを切らしたあの王が新たに自分を召喚したと言うのなら、一連の流れに納得が出来る。
行方不明のその人が本当に生きているかどうかはわからないけれど、この世界を旅して運良く合流出来れば、一緒に魔王を倒す為に協力できるのではないだろうか。
(仮に亡くなっていたとしても、その人の意志を継ぎ、魔王を倒せば無念を晴らす事は出来るはずだ)
それに、彼女もその人と再会することを望んでいる。
まずは現実を受け入れて、この世界で生きる為の力をつけ、その人の行方を見つけ、それから魔王を倒せば助けてくれた彼女への恩返しにもなるはずだ。
何もかもを諦めていたが、ここへ来て掴んだ重要な情報に、僅かな希望が持てた気がした。
「俺に、この世界の事を教えて欲しい。この世界で生きる為の力をつけたら、俺も旅に出る。俺は、魔王を倒して世界を救う為に召喚された勇者だ」
「勇者?」
あの王に、一度も勇者と呼ばれはしなかったけれど、魔王を倒すと言う名目上、そう名乗った。
そう名乗るだけで、本当に勇気と力が湧いてくるような気がして、けれど、どことなく照れもあって、誤魔化すようにサイドテーブルに置いてあった食事に手を伸ばす。
この世界で初めて口にした味の薄いスープと少し硬いパンは、最高に美味しかった。
「わかった。フシャオイが世界を救う勇者なら、私も協力する。だから、必要な力をつけたら私も一緒に連れて行って」
「勿論、その時は一緒に!」
この世界を救うのは、勇者・フシャオイだ。
この世界で一番最初に彼女に呼ばれたその名前は、自分にとって、特別なものになった。
すっかり食事を平らげた後、ふと、まだ名前を聞いていなかった事に気がつき、空になった食器を下げる彼女の後姿に問いかける。
言われて見ればまだ名乗っていなかったと、少し恥ずかしそうに振り向いた彼女は、
「私の名前は、――――」
【16】




