忘れるものか -Angelo- 【親友】③
「第二騎士団副団長、アンジェロ・アルベルティ、入ります」
山のような執務もひと段落した徹夜明けの早朝、医療団総合救護室の端にある小さな扉の前で律儀に挨拶をしたアンジェロは、ドアノブに手をかける。
鍵は掛かっておらず、容易に開いたその部屋は殺風景な白い空間で、誰もいないせいなのか、無駄なものが何も置かれていないせいなのか、空気が他よりも冷たい気がした。
部屋の中に探している人物の姿が無かったことに落胆し、小さな溜息を吐いて扉を閉めると、
「セシリヤなら、今日は非番ですよ」
「マルグレット団長……、お疲れさまです」
いつの間にかアンジェロの背後に立っていたマルグレットが、勤怠を示す掲示板に貼られているメモの一つを指差した。
そこに書かれていた文字を確認し、この時期がどんな意味を持っているのかを改めて思い知らされたアンジェロは、微かに疼く胸の痛みに眉を顰めた。
「……失礼しました」
一見、何の変哲もない彼女の非番。
けれど、この日だけはアンジェロにとっても、忘れ得ない日だった。
一人の人間の存在が、始めから無かったかの様に有耶無耶にされたまま、誰一人としてそれに首を傾げることなく生活を送り続けていることに疑問を抱いた日。
そして、隠し通そうとする周囲に失望し、その所在を訪ねる事をやめた日だ。
誰に何を訊ねても、明確な返答を得られないまま、その人の時間はそこで止まってしまった。
その姿は、今でも鮮明にアンジェロの記憶に残っていると言うのに……、その人の存在は、決して夢でも幻でもなかったと言うのに、だ。
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騎士学院に入学して早三年、卒業も控えた冬の終わりのことだ。
入学してから騎士になる為に様々な事を学んだ学院生達の実力を発揮できる行事が、ロガール騎士団の手掛ける演習討伐で、いよいよそれが明日に迫っている今日、アンジェロは日誌を記入しながら目の前で浮足立っているアレスの話に相槌を打っていた。
「とうとう明日が騎士団の演習討伐の日か……、やっぱ騎士団の中でも実力のある人が見に来るんだよな」
「卒業後の配属先も左右される、いわば入団試験みたいなものだからね。自分がどこの団への適性があるかも、そこで見られるそうだよ」
「どうしよう、どこの団にも入団できないとか言われたら……、緊張する!」
「そう言う割には、何だか楽しそうな顔をしているじゃないか、アレス・ウォートリー」
「だって、騎士になるのがまず第一の目標だったし、この日をどれだけ楽しみにしてたことか!」
アンジェロの指摘に笑って答えるアレスは、相変わらず肝が据わっていると感心する。
学院に入学して間もない頃、雑務や面倒な仕事を押し付けて来る同級生や指導教員へ、アレスは臆することもなく正論を突きつけ、クレアの介入がなければ舌戦からのあわや惨事へ発展していただろう事件を思い出し、懐かしいと笑っていれば、
「ところでアンジェロ。いつになったらそのフルネーム呼びやめてくれんの?」
友達になってからもう三年も経っているのにと、アンジェロの名前の呼び方に不服を洩らしたアレスは拗ねた様に頬を膨らませた。
他の友人とは少し違う独特の空気を持つアレスの隣はアンジェロにとって心地良く、無遠慮に他人の領域には侵入して来ない、けれど、いつでも他人を受け入れることのできるアレスの器用さは憧れでもあり、彼に出会ってからと言うもの、こうして気が付けば一緒にいる事が多かった。
何か困っていればアレスが相談に乗ってくれたし、アルマンがやらかした後のフォローもアレスが手伝ってくれていた。
(時折、クレアも手を貸してくれる)
密かに好意を抱いているクレアとの仲を取り持つのも、誰かから雑務を押し付けられそうになっている所をさり気なく助けてくれていたのも彼だ。
アレスは、少なからずともアンジェロにとって親友と胸を張って言える人間の一人だった。
「アンジェロ、聞いてる?」
物思いに耽ってしまっていたのか、ぼんやりしているアンジェロの目の前でアレスが手をひらひらと振っていて、慌てて止まっていたペンを動かしながら、
「聞いてるよ。別に他意はない。どうしても、フルネームで呼ぶ方がしっくり来るんだ」
照れのせいもあって、そうそっけない返事をすると、
「……クレアの事は名前で呼ぶのに?」
「クレアの事は関係ないだろ……!?」
突然アレスの口から出た名前に必要以上に動揺してしまい、思わず否定してしまった。
確かに、アレス同様クレアにも色々と世話になっていたし、彼女に好意があると言えばあったが決してそう言う訳ではないと、自分でも何を言っているのかさっぱりわからない事を慌てふためきながらアレスに説明していると、その様子を愉快そうに笑う声が聞こえて来て、恥ずかしさのあまりに机に突っ伏して顔を隠す。
「からかうのはやめてくれよ、アレス・ウォートリー」
「だから、名前!」
意地でも呼んでやるものかと恨めし気にアレスを見上げれば、彼は困ったように笑って「ごめん」とアンジェロの頭を撫でた。
アレスに悪意が一切ないことはわかっていたし、こんなやり取りもいつもの事で、この取り繕わなくても良い関係が心地良いとさえ思っていたくらいだ。
本当に名前を呼ぶのが今更すぎて、逆に気恥ずかしいと思っていたから呼ぶに呼べなかった。
理由なんて、ただ、それだけだ。
「早く騎士学院卒業して、一人前の騎士になりたいなぁ……」
そんな呟きと共にアンジェロの頭を撫でていた手が離れて行き、顔を上げると、アレスは夕陽の差し込む窓から見えるロガール城を眺めていた。
オレンジ色の髪が夕陽を浴びて、より一層、深みを増している。
「演習討伐が終われば、すぐに卒業だよ。そうしたら、君のその口癖も聞けなくなるんだろうね」
入学したあの頃から、アレスは口癖の様に何度もその言葉を繰り返し、そしてアンジェロもまた同じ言葉を繰り返していた。
始めの内は軽く流していたアレスの言葉だったが、繰り返される度に、卒業が近づいて来る度に、その言葉は重みを増している。
……何故、そんなに急いて騎士を目指すのか?
何度も繰り返されて来た割には真意の掴めない会話に、アンジェロは卒業も迫っている今日こそ終止符を打とうと、いつもはそこで閉ざすはずの口を開き、
「そう言えば、言ってなかったっけ? 俺、姉さんに早く追いつきたいんだ」
アレスから返ってきたのは、思っていたよりも簡単な答えだった。
聞けば、彼には母親代わりでもある姉がいるそうだ。
アレスが幼い頃、家族の乗った乗合馬車が賊に襲われ、負傷しながらもアレスを抱え必死に逃げていた母親が道中で事切れてしまい、寒さと空腹で泣いていた所に彼女がやって来たのだと言う。
女の身でありながら第七騎士団の騎士として活躍し、血のつながらない赤の他人の子供を不慣れなりに懸命に育ててくれた、強く、優しい姉。
境遇のせいか、様々な憶測や噂で姉やアレス自身を非難し傷つける人も多くいたが、彼女はそれらからアレスを護ってくれていた事も、後になって知ったそうだ。
それから成長するに連れ、いつまでも姉に護られているわけにも行かず、弟としても男としても、今度は彼女を傷つけるものから護ってやりたいと言う思いが強くなり、彼女の反対を強引に押し切って、半ば家出に近い状態で騎士学院へ入ることを決め、卒業して一人前の騎士になるまで彼女とは会わない事を誓ったのだと、記憶を振り返りながら、時折懐かしさに目を細めてアレスはそう話してくれた。




