ガラス一枚を隔てた、この場所から -Ceciliya- 【邂逅】②
昨日から降り出した雨は、途切れることなく今も降り続いている。
灰色の空から落ちてくる雫は、容赦なく窓を叩きつけガラス越しに映る景色を歪めていた。
こんな憂鬱な日に限って、医療団は静かだ。
降りしきる雨以外の音が聞こえず、まるでこの空間だけが切り取られてしまったかの様な錯覚を呼び起こす。
……実際にこの空間は、切り取られているも同然なのだ。
嘗てはロガール騎士団の騎士として王へ忠誠を誓い、戦いに身を置いていたセシリヤ・ウォートリーと言う存在を抹消するかの如く。
輝かしく、愛しいと思っていた全てを護るために必死だった毎日から解放された今では、この小さな白い部屋だけが、セシリヤの世界だった。
この小さな白い部屋だけが、唯一存在を許されている場所であると、思っていた。
医療団へ移動してから所持することのなくなった剣は、部屋の片隅に隠すように置いてある。
この一本の剣で、セシリヤは多くのものと戦って来た。
護らなければならないものが、人が、世界が、あったからだ。
一振りの重みに全てを賭け、己の正義と信じた全ての為だけに。
強く、なる為に。
幼い頃から、繰り返し大切なものを失って来たセシリヤには、それがすべてだった。
強くなって、セシリヤ・ウォートリーと言う名前が広まれば、きっとあの人も自分の存在に気がついて、戻って来てくれると信じていた。
――― すぐに帰って来る。だから、大人しく待ってろよ ―――
そう言って、二度と戻らなかったあの人を、待ち続けた。
――― 貴女がいる限り、この世界は……、人々は、何度でも脅威にさらされるの ―――
そんな、思いもよらぬ事実を突きつけられ、折れかけていた心に差した一筋の光を、希望を護るために。
しかし、
――― もう、護られてばかりじゃダメなんだ。今度は、俺が姉さんを護らないと ―――
そう言って、自分の手から離れて行ったアレスも、戻ることなく逝ってしまった。
積み重ねて来た努力で手に入れた強さなど、何の役にも立たなかったと、思い知らされた気がした。
―――― 触んじゃねぇよ! ――――
ふと微かな痛みを感じて、右手に撒きつけられた包帯をそっと撫でる。
昨日この部屋にいたはずのアルマンは、意識が回復した後、絶対安静と言う言葉を無視して強引に部屋を出て行ってしまった。
まるでセシリヤを避けているかの様に、計ったようなタイミングで部屋を出て行ってしまった事をユーリから聞き、けれど、連れ戻す気にはなれずそのままにした。
しばらくは、彼と顔を合わせることはないだろう。
――― 俺だって、いつまでも子供じゃないんだ! ―――
記憶の中で重なる姿に小さな溜息を洩らし、机の引き出しにしまってある古ぼけた小さな靴を取り出して見る。
恐らく母親の手作りであろうこの靴は、随分と変色して形も崩れていたが、唯一残されたアレスの本当の家族の手がかりとして捨てることなく、大切にとっておいた。
いつか、彼が立派な騎士になって自分の元へ戻って来た時、生き別れた家族を探す手がかりになるだろうと渡す事を決めていたが、それも叶わなかった。
たくさんのものを失い、気力もなく、色褪せた世界でただ生かされる日々だった。
そんな時だ。
この小さな白い部屋の窓から、鮮やかなオレンジ色の髪をした彼を初めて見たのは。
窓から見える景色に、良く映える姿だった。
一目見た瞬間に、あの懐かしくて愛おしい姿が重なった。
持っている雰囲気こそ違ってはいたが、あの髪色がそう思わせたのかも知れない。
まるで、そこにアレスが存在しているかの様な錯覚に陥ったことを、覚えている。
*
それは、セシリヤが医療団に移動してから数か月後の頃だった。
彼の存在を知ったのは、以前から異常な程怪我の絶えない第七騎士団の面々に頭を悩ませていた団員が、今度ばかりはお手上げだと愚痴を零しているのを耳にしたのが、切っ掛けだった様に思う。
最近第七騎士団へ入団したと言う青年のやんちゃぶりにほとほと困り果て、つい最近も治療の途中で逃げられたのだと言う。
剣の稽古途中での負傷であったため大事には至らずに済むものではあるが、万が一の場合もあることを考えると心配で目が離せず、更に輪をかけて、先日は一週間の絶対安静の診断を無視して討伐任務に出て行った前科もあるのだとも言っていた。
セシリヤが在籍していた頃の団長は既に引退しており、確か今は傭兵上がりのレナードと言う名の男が団長を務めていたと思う。
団長の代替わりのせいか、昔よりも団のガラは悪く手が付けられなくなっているのだと、彼らは医療団ではあまり歓迎されてはいない存在になっていた。
怪我人は他のどの団よりも多く、常に医療団の世話になっていると言うにも関わらず、傍若無人な振る舞いばかりするのだから当然と言えば当然だろう。
いずれまたその青年が治療にやって来たのなら、その時には直々に治療を施してやろうかと思っていた。
恩義に報いるのは至極当然なことであり、それを仇で返すなど言語道断だ。
小さな溜息を吐き、セシリヤがぼんやりと窓の外を眺めたその時だった。
「こらっ、待ちなさいっ!!」
医療棟の二階から聞こえて来た声に、何事かと思ったセシリヤは、微かな隙間の空いていた窓を開け放した。
籠もっていた部屋の空気を攫う様に新鮮な外の風が頬を掠め、その風に弄ばせるかの様に惜しげもなく髪を靡かせながら、傷だらけの青年が(恐らく)二階の窓から軽々と飛び降りて地面へと着地するのが見えた。
鮮やかな、オレンジ色の髪。
心の奥底に鍵をかけて隠したはずの痛みが、甦った。
あれは……、
――― 姉さん ―――
今はもう、記憶の中でしか見ることの出来ない、色だった。
「アルマン・ベルネック! すぐに病室へ戻りなさいっ!」
アルマンと呼ばれた青年はキョロキョロと辺りを見回しながら、追って来る医療団員をいとも容易く振り切り逃げて行く。
その走り去って行く後ろ姿を、セシリヤはただ真っ直ぐに見つめていた。
この光景は、遠いあの日を、思い起こさせる。
――― 卒業して、騎士になるまでは姉さんに会わないよ。いつまでも傍にいたんじゃ、強くなんてなれないから。それが、俺なりのケジメだと思ってる ―――
アレスを見た最後の姿も、同じ、後ろ姿だった。
追うことすらできずに、ただその背を見送った。
必ず再会できると心の底で、信じていたからだ。
「セシリヤさん、どうかした?」
「え……?」
いつの間にか青年を追い駆けていた団員がセシリヤの元に近づいていて、ぼんやりしていた彼女に問いかける。
誤魔化す様に苦笑しながら「元気の良い青年ね」と答えれば、毎回恒例と化している鬼ごっこに一度も勝てた事がないのだと、団員は両肩を竦めて見せた。
どうやら、あの青年が噂に聞く第七騎士団のやんちゃな青年なのかも知れないと、セシリヤは愚痴る団員の話になんとなく相槌を打った。
アルマン・ベルネック。
それが、彼の名前だ。
一度目の邂逅は、ガラス一枚を隔てた、この場所からだった。




