Epilogue
忙しなくキーボードを叩く指先を止める、小さな手。
人間とは違い、ぷにぷにとした肉球を持つその手は、リアンのものだ。
「どうしたの、リアン?」
指先に手を置いたままじっと優希の顔を見つめたリアンは、優希の頬にキスをした後小さく鳴いて机から飛び降りた。
時計を見やればいつの間にかリアンのご飯の時間を過ぎていて、慌てた優希は椅子から立ち上がるとすぐにリアンのご飯を準備する。
小さなお皿に決まった量のフードを入れてやると、リアンは勢いよくそれに食いついた。
「ごめんね、リアン。いつの間にかこんな時間になってたんだね」
久しぶりにゆっくりと過ごせた日曜日は既に午後五時を過ぎていて、後数時間で月曜日がやって来る。
少しだけ憂鬱な気分になりながら、優希は薄暗くなった部屋に電気をつけてカーテンを閉めた。
異世界から戻って来て、もうすぐ十年が経とうとしている。
当初はこちらの世界に帰る事を悩んだ優希だったが、やはり元の世界にいる両親の事を思うと異世界に残るという選択は出来なかった。
こちらの世界から逃げ出したいと思う事は沢山あった。
けれど、優希は逃げ出さずにそれらと向き合ったのだ。(勿論、逃げ出す事が悪いという訳ではないし、逃げる事も大事な選択肢の一つであると思っている)
優希が逃げ出さずにいられたのは、異世界で経験した事が精神的にも肉体的にも成長させてくれていたからだ。
最初はいつもの人達から悪質なちょっかいをかけられる事もあったが、それとなく受け流している内に (あまりに悪質な場合は頭を使って反撃に出た事もある)、徐々に優希に構ってくる事がなくなって行ったのだ。
きっと、異世界で鍛えられ雰囲気の変わった優希を相手にしても、彼らの加虐心を満たす事が出来なくなったせいだろう。(本当にそうなのかは本人ではないからわからないけれど)
それからというもの、優希の日常は嘘のように平穏になり、今では就職して親から自立しリアンと共に生活しているのである。
所謂平凡なサラリーマンだが、仕事はそこそこ楽しかったし不満も特にはなかった。
時々、異世界にいた時の事を思い出し懐かしむ事はあったけれど、向こうの世界に行きたいと思う事もなかった。
「……みんな、元気にしてるかな」
そう呟いた優希は、ご飯に夢中なリアンから離れて机に再び向かうと、とあるサイトのページに接続する。
パソコンの画面にずらりと並んだ文字の羅列は、異世界で優希が経験した出来事を小説として書き起こしたものだ。
異世界で騎士達が聞かせてくれた話を織り交ぜ物語としてまとめながら (優希なりの解釈で勝手に補っている部分が多いのだが)、十年近くもかかって書き上げた小説。
誰にも見せる機会がないと思っていた優希だったが、二年程前からインターネットの投稿サイトに投稿し始めたのだ。
今流行りの小説とはまったく異なる為に読者は多くなかったが、それでも読んでくれる人がいると思うと嬉しかった。
……あっ……、また誰かが反応してくれたみたいだ。
もらった感想やスタンプに感謝しながらそのひとつひとつに返信し終えると、優希は自分の小説の冒頭を読み始める。
優希の頭の中で動き回る彼らは、あの頃のまま、いつまでも色褪せることは無かった。
……王様は、元気にしてるかな。セシリヤさんは、どうしてるんだろう。幸せになっているといいな……。
大人になった今でも心が疲れた時には、文字の羅列を読みながら鮮明に甦って来る思い出に浸っている。
そうしてあの時の経験が今の自分を作った事を再認識した優希は、繰り返す日常を頑張って越える事が出来るのだ。
……でも、これが本当にあった話だなんて言っても、誰も信じてくれないんだろうな。
それを共有出来ないもどかしさはあるが、「異世界に行って来た」などと言っても鼻で嗤われるだけだろう。
最悪、本気で心配され、病院へ連れて行かれてしまうかも知れない。
故に、こうして投稿した先で少しでも誰かに読んでもらえる事が、優希にとって救いなのだ。
小説の四分の一程を読み終えた優希は、タイトル画面に戻るとそこに表示された文字を何気なく読み上げる。
「……異世界追想譚 - 万華鏡 -」
人の数だけ違って見える万華鏡のように、様々な人の視点から紡がれていく物語。
これは、誰かにとっては実話で、誰かにとってはただの作り話に過ぎない物語なのだ―――。
【END】
ここまでお読み下さった皆様、ありがとうございました。
このエピローグをもって本編を完結とさせていただきます。




