キミはまた、あの時みたいに笑ってくれるのかな -Silvio-Ⅴ【齟齬】②
陽光の一筋の漏れもない曇天。
憂鬱な気分とは裏腹に、シルヴィオの身体の調子は良かった。
昨日襲って来た頭痛も手の平の痛みも嘘のように引いており、手袋の下の文様から滲んでいた血も綺麗さっぱりとなくなっていた。
とは言え、警告は徐々に段階を上げているので油断は出来ない。
またいつ襲って来るかもわからない痛みに溜息を吐き出すと、目の前にある目的地へ続くドアを開いた。
直後、
「あっ、危ないっ!」
叫び声と共に、人の頭程の火球がシルヴィオに向かって物凄い勢いで飛んで来る。
咄嗟に右手の指を鳴らせば、一瞬で火球が霧散して大惨事には至らずに済んだ。
部屋の中を見れば、火球を放った張本人であるユウキと(かなり焦ったのか、顔面から血の気が引いている)、彼に魔術を教えていたイヴォンネが冷めた目でシルヴィオを見ている。
「イヴォンネ団長……、今の、僕じゃなかったら危なかったよ?」
「逆に、貴方だから何もしなかったのよ。私が防御魔術なんか使っても、貴方のその魔術もどきで破壊されるんだから無駄でしょう?」
イヴォンネの指摘はもっともで、そのまま反論せずにドアを閉めるとユウキが席を立ち「申し訳ありません」と頭を深く下げた。
「ああ、大丈夫大丈夫。こう言うのは慣れてるから。それにしても、順調に色んな魔術を使えるようになったね」
以前、ユウキを食事に誘った時には魔術が全く使えないと落ち込んでいたのに、建国祭での一件があってからは目まぐるしい成長をしているようだ。
現にイヴォンネもそんな彼に興味を示しているのか、こんな所にまで足を運んで様々な属性の魔術を教えているのだから、その才能は本物なのだろう。
「僕の力だけではないんです。リアンが……、あ、えっと、この子猫の名前なんですけど……、リアンが一緒だから使えるようなもので、僕一人だったら全然……」
相変わらず謙虚なユウキに苦笑しながら"リアン"と名付けられた子猫を見やれば、やっぱり嫌われているのか敵意を剥き出しにしていて、思わず肩を竦めてしまった。
「いつもすみません……、普段は威嚇するような子じゃないんですけど……、何でかな……?」
「その子、雌でしょう? 女性に対して軽々しい奴だって事、わかってて警戒しているんじゃない?」
「えっ、僕の魅力って猫には通用しないの?」
的外れな返答をすればイヴォンネは心底嫌そうな顔をして、机に広げていた魔術の本を閉じる。
どうやら魔術の授業はここでおしまいのようだ。
「それじゃあ、また時間が出来たら魔術を教えてあげる」
「はい、ありがとうございました!」
ぺこりとお辞儀をしたユウキとシルヴィオに見送られながらドアを開けたイヴォンネだが、ふと何かを思いついたようにドアを閉めると踵を返し、あろう事か、嫌悪しているはずのシルヴィオに向かって歩いて来る。
どう言う風の吹き回しかと考えていれば、彼女はポケットから折りたたまれた紙を差し出し、
「これ、調べておいてくれる? 以前、結界が薄くなってると報告があったでしょう? その場所を地図に記してあるわ。できれば、他の依頼よりも優先して」
「他の依頼よりも優先って……」
「私自身、見た事のないものだったからわからないけど、……あまり良くない感じがするの」
妙な依頼に首を傾げならそれを受け取ると、「頼んだわよ」と念を押すようにして今度こそイヴォンネは退室して行った。
イヴォンネの物言いから少々深刻であるような気がしたが、ここでユウキとの言語の勉強を放って予定を変更する気はさらさらない。
まずは自分の目的を達成させなければと受け取ったメモをポケットにしまうと、不安げな顔をしたユウキを安心させるように笑って見せ、彼の前にある椅子に腰かける。
まだ威嚇を続けているリアンの瞳をじっと見つめれば、すぐさまユウキの陰に隠れてしまった。
どうやら、本格的に嫌われているらしい。
「すみません……」
「君が謝る事じゃないよ。何にでも、相性って言うのはあるからね」
申し訳なさそうに眉を下げて謝るユウキにそう言って、目の前に置かれた教科書を手に取った。
「ユウキくん、こっちの世界の文字は大分覚えた?」
「はい! シルヴィオさんのお陰で、つっかかる事もなく読めるようになりました」
書く練習もしてますよとノートを見せてくれたユウキは、達成感があったのか随分と嬉しそうな顔をしている。
やはり、異世界人は勤勉だ。
一方シルヴィオは、見慣れない異世界の文字の羅列に連日頭を悩ませている。
何度見てもひらがな、カタカナ以外は何と読めば良いの判断がつかないものが多い。
読み方を教わった事のある漢字でさえも、特定の条件になると読み方が異なる場合があると言うのだからお手上げだった。
これならばいっそ、読めない漢字を書き写してユウキに読み方を教えてもらった方が効率が良い。
そう思って、事前にポケットに忍ばせておいた紙を取り出して見せれば、ユウキはシルヴィオの意図が読めたのかすぐに目を通してくれた。
「シルヴィオさん、上手に書けてますね。漢字って、慣れないとバランスが難しかったり細かい所が違ったりするのに、ほぼ合ってますよ!」
慣れてる人だって綺麗に書くのは難しいのにと、渡した紙を見た彼の口から出て来る称賛が妙にくすぐったい。
(思えば、こうして他人から素直に褒められるなど無かったような気がする)
柄にも無く照れているのだと気づいて誤魔化すように咳払いを一つすれば、ユウキは本来の目的を思い出したのか、漢字の横にこちらの世界の文字で読み方を書いてくれた。
【契約】【生贄】【人間】【邪神】【異世界】【願望】【魔王】【魂】【存在】【消滅】【凌ぐ】【魔力】【生命力】
「この単語だけ見てると、アングラな宗教の経典みたいですね」
「アングラ……? キョウテン?」
「えーと……アングラって言うのは表にでないとか秘密とかそう言う意味があって、経典は信者への教えが書いてある本のことです」
確かに、そう言われて見ればこの【契約】【生贄】【人間】【邪神】あたりは、まっとうではない神を崇める邪教徒たちが好んで使いそうな言葉だ。
それに、アイリのノートにはシルヴィオの手の平に刻まれている文様と同じものが描かれていた。
そう考えると、あのノートには邪神に関係する事が書かれているのではないだろうか。
そして、シルヴィオの手の平にある文様とは別の二つの文様は、その邪神が他に二体存在している事を示しているのではないか。
しかし、それが「魔王」と何の関係があるのか……。
書き出された文字を指先でなぞっていれば、ユウキがこれらの言葉をどこで見つけたのかと聞いて来る。
まさか三代目勇者のノートだとは答えられる訳もなく、書庫で偶然見つけた本だと曖昧に濁せば、彼は機会があったら見せて欲しいとだけ言って、それ以上特に深く突っ込んで来る事もなく授業を促した。
てっきり突っ込まれるとばかり思っていたシルヴィオは拍子抜けだ。
同じ異世界から来た人間の残したノートがあるなど聞いたら、少なからず気になってもおかしくないはずなのに。
「……何も聞かないの?」
「だって、シルヴィオさん……、聞いて欲しそうな顔してなかったですし、聞かない方が良いかなって……」
聞いた方が良かったですかと苦笑するユウキに首を横に振って見せると、シルヴィオは教科書に視線を落とす。
……そう言えば、ユウキくんはそう言う子だったな。
ユウキは自分の気持ちよりも他人の気持ちを優先するような、勇者だ。
勇者と言う立場を振り翳し、強引に聞き出したとしても誰も咎めはしないと言うのに、それをしようともしないのだから。
(そもそもそう言う発想が無いのかも知れない)
礼儀正しく謙虚で、ほんの少しだけ頼りない。
だからこそ、多くの人が彼に惹きつけられて何かをしてあげようと思うのかも知れない。
「キミ、天然たらしって言われない?」
「え……? 天……?」
よく聞き取れなかったらしいユウキに、何でもないよと笑って見せたシルヴィオは教科書にあった意味のわからない文字の羅列を追う。
しばらく不思議そうな顔をしていたユウキも、ほどなくして同じように教科書へ視線を落とし、文字の羅列を読み上げ始めたのだった。




