そんな関係が心地良かった -Margret- 【変貌】③
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今の彼女は壊れた万華鏡の様だ、とマルグレットは思う。
「マルグレット団長」
安置室を後にし、亡くなった騎士の所属していた第一騎士団へ提出する報告書を作成する為に執務室へ歩いていると、悲報を聞きつけて来たのか、憔悴しきった女性を支えるように安置室へ向かって歩いて来る騎士と目が合った。
第一騎士団長・レオンだ。
「レオン団長、そちらの方は……?」
「ああ……、先程、連絡をもらった僕の部下の……、」
そこまで言うと、レオンは言葉を濁した。
皆まで言わずとも、マルグレットは理解する。
恐らく、安置室で眠る騎士の妻だろう。
その表情と左手の薬指に嵌められた指輪で、見て取れる。
「彼に、会わせてあげることは出来ないだろうか?」
大切な部下を失ったレオンの願いを、ましてや夫を失った妻の願いをどうして断れようか。
静かに頷くと、元来た方へ身体を向けて安置室まで案内した。
無言のまま、徐々に空気は重苦しいものに変わって行く。
「あっ、マルグレット団長……」
安置室の前には、ぽつんとユーリが座り込んでいた。
まだ安置室から出てこないセシリヤを心配していたのだろう。
気まずそうにしている彼に「ありがとう」と声をかけ、安置所の扉を開き、同時に、中へ飛び込む影に誰もが驚きを隠せなかった。
レオンに支えられていた女性が、感情を抑えられずに勢い良く遺体へ駆け寄ったのだ。
遺体の傍らに立っていたセシリヤは、思いがけない彼女の入室に反応出来ず、押し退けられるままその場に尻餅をついてしまった。
「どうして死んじゃったのよ! どうして私を置いて行ったの!?」
冷たくなった彼の身体に縋りついて泣き叫ぶ彼女から、皆、目を背けた。
こんなに悲痛な叫びを、聞いたことがなかった。
目も、耳も、塞ぎたくなるくらいに、痛い。
痛くて痛くて、心が張り裂けそうになる。
常に死と隣りあわせでいることは解っていても、やはり受け入れ難いものだ。
言葉にならない叫びと涙に濡れる女性は、何度も「どうして」と繰り返す。
呪いのように、何度も、何度も。
セシリヤは、その光景を真っ直ぐに見つめていた。
今日この日のことを忘れないように、刻み込むかのように、真っ直ぐに。
「さあ、そんなに泣いていると、彼も貴女の事を心配してしまう」
取り乱す女性を宥めるように、レオンが優しく諭すも、まだ、彼女が落ち着く気配はないようだ。
「セシリヤ……、最期まで彼を見捨てずに治療してくれたこと、感謝するよ」
穏やかな笑みと共に床に座り込んだままのセシリヤへレオンが手を差し伸べ、けれど、その手を遮るかのように表れた人影のせいで、セシリヤの身体はレオンに引き上げられることなく、床に叩きつけられてしまった。
あまりにも突然のことで、何が起こっているのか、誰もがすぐには理解できなかった。
「あぁぁぁっ、セ、セシリヤさんっ!!」
「セシリヤ!!」
理解が追いついた頃、目の前に広がっていた光景は逼迫していて、ユーリもマルグレットも狼狽えるばかりだ。
突然セシリヤに飛び掛った人影は騎士の妻であるその人で、床に叩きつけた彼女の身体に馬乗りになって首を絞め上げていた。
「どうして助けてくれなかったの!? どうしてあの人を殺したの!?」
悲痛な叫びにも似た声は、歪んだ感情と言葉の刃に変わり、鋭いその切っ先は容赦なくセシリヤの心を切り刻んで行く。
「どうしてあなたみたいな無能な人間が医療団になんているの!?」
愛しい者を失い、自我をも保てなくなったその女は、やり場のない怒りをぶつけながら更にセシリヤの首を締上げ、抵抗することなく両手を床に投げ出したままのセシリヤは、ただその理不尽な言葉を、暴力を受け入れているだけだった。
まるでこれが、自分への報いであるかのように。
救えなかった自分への罰であるかのように。
我に返ったユーリとマルグレット、そしてレオンが二人を引き離すと、セシリヤの首を絞め上げていた女は、果ての無い慟哭に崩れ落ちた。
圧迫されていた喉から空気が肺に入ると同時に、激しく咳込むセシリヤの背にマルグレットの手が添えられる。
「大丈夫ですか、セシリヤ」
「……はい」
セシリヤの首に残った痣に、マルグレットが眉を顰める。
……下手をすれば、彼女はあのまま……。
「ユーリ、応援を呼んでその方に鎮静剤を。それから少し、休ませて差し上げて。それが終わったら、セシリヤの手当を」
「承知しました」
ユーリに指示を出し、駆け付けた団員に鎮静剤を打たれた女が運ばれ、セシリヤがユーリと共に出て行くまでを見送ると、マルグレットはレオンへ視線を寄越し、その視線に気がついた彼は、申し訳ないと謝罪を口にする。
「僕の認識が甘かったせいだ。セシリヤには、本当に申し訳ないことをした」
「ええ、いつもの貴方らしくありませんね。…とにかく、先程の方は落ち着くまでこちらでお預かり致します」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げるレオンを置いて、マルグレットは安置室を後にした。
「セシリヤ……」
何故、彼女は抵抗しなかったのだろう。
セシリヤであれば、あの程度なら容易く振りほどけたはずなのに。
微かな苛立ちが、マルグレットの中で燻っていた。
*
マルグレットの指示で鎮静剤を打たれた女は、今、救護室の一室で眠っている。
そしてその傍らには、セシリヤが座っていた。
眠る女の側に付き添うようなセシリヤに、マルグレットは胸を痛めた。
セシリヤの首に巻かれた包帯の下には、痛々しい痣が残っているのだろう。
暫くは、この日の事を嫌でも思い出してしまうかも知れない。
けれど、きっと彼女はこう言うのだ。
―――これは、私への罰だから。
誰もが延命を諦めていた中、懸命に治療を施していたセシリヤが、何故なじられなければならなかったのか。
命を救うことが出来ずに一番後悔していたセシリヤが、何故傷つかなければならなかったのか。
何故、セシリヤはその理不尽な感情に、暴力に、抗わなかったのか。
まして、自分を殺そうとした女の付き添いをするなど…、最早狂気の沙汰だ。
全てにおいて、マルグレットには理解し難いことだった。
「ねえ、マルグレット……」
不意にかけられた声に、答えることなくマルグレットはセシリヤの元へ歩み寄る。
「私は誰かの為に、役に立てている?」
「……セシリヤ」
「私は、本当に……、此処にいても良いの?」
痛々しいセシリヤの言葉に、マルグレットは耐えられず彼女の口を手で覆った。
「自愛なさい、セシリヤ」
「……」
「もっと、自分を愛して……、大切にして下さい」
マルグレットの手に落ちた雫は、あまりにも冷たく、重たい。
あの頃の彼女は、こんなにも簡単に涙を流していただろうか?
あの頃の彼女は、こんなにも痛々しい姿だっただろうか?
一体、何が彼女を変えてしまったのか。
一体、何が彼女に暗い影を落としてしまったのか。
華やかで美しく、くるくると回る世界を覗かせていた万華鏡は、暗く歪な世界を覗かせる万華鏡に変わり果てた。
【END】




