確実に、彼は追い詰められていた -Joel- Ⅳ【目撃】①
国境での駐在任務を終え、城に戻って来るのはおよそ三週間ぶりになる。
陽が世界を紅く染め上げるこの時間帯の城内は、やけに静かだった。
(別段異変を感じるわけでもなく、本当に偶然、人のいない時間帯にあたったのだろう)
兵舎へ続く廊下を歩き、曲がり角にさしかかった所で何やら小さな衝撃がジョエルの腹の辺りに走り、反射的にその小さな物体を両腕で抱き止める。
よくよく見れば正体はまだ小さな子猫で、一体どこからやって来たのだろうと自分の視線と同じ高さまで持ち上げた。
円らな瞳がまるで悪戯を失敗したと言わんばかりに細められ、見逃して欲しいと言うように小さく鳴き声をあげると、それに続くように聞き慣れた足音がジョエルの耳に届き、音のする方を見やれば音の主は思っていた通りの人物で、子猫を左腕に抱えて右手を上げると、それに気づいた彼女はペコリと頭を下げながら足早に近づいて来る。
「良かった……、ここにいたんですね」
ジョエルの左腕に視線を向けたまま、ほっと胸を撫でおろすセシリヤへ子猫を手渡すと、彼女は逃がさないようにしっかりと両腕で抱き、観念したのか子猫もあくびをひとつして大人しくその細い腕に収まった。
「セシリヤ、この子猫は……?」
「ユウキ様の子猫です。召喚された時に一緒にこちらの世界へ来たそうで、お世話をしているんです」
「今は散歩の時間だったのかい?」
「いいえ。ユウキ様が魔術や剣の稽古で留守の時に、隙を突いて部屋から抜け出してしまう事があって……、今日も見事に逃げられてしまいました」
ジョエル団長が捕まえて下さって助かりましたと言うセシリヤに「なるほど」と頷き、わざと恭しくお役に立てて光栄ですと子猫に一礼すれば、その様子を見ていた彼女が小さく噴き出し、失礼なと眉を下げて笑うと、子猫が首を傾げてジョエルを見上げた。
こうして冗談を交じえてセシリヤと接したのは、久しぶりだ。
最近は、彼女と接する機会があってもこんな余裕は無かったような気がする。
(間に子猫と言う存在があったからこそ出来たのかも知れない)
駐在任務を終え、まだやらなければならない仕事も抱えていたが、もう少しだけこの穏やかな時間を共有したいと思ったジョエルは、何気なく勇者の様子はどうかとセシリヤへ話を振って見た。
勇者が召喚されて数ヶ月が経過したが、未だに顔合わせの機会も無いままで気になっていたのだ。
本当に、ただそれだけで他意はない。
しかし、話を振られたセシリヤの表情が僅かに曇り、選択を間違えたとジョエルは心の中で後悔した。
「毎日、魔術の勉強や剣の稽古を頑張っていらっしゃいますよ。……でも、魔術がどう頑張っても使えない事を気に病んでいるようで……。どうにかしてあげられたら良いのですが……」
それを聞いたジョエルも、魔術に関しては専門外であると困り果ててしまう。
確か先代勇者もその前の勇者も、初級程度ではあったが魔術は多少なりとも使えていたはずだ。
魔力が備わっているのか適正はあるのかと訊ねては見たが、イヴォンネにそれらがあることを確認済みであり、更にそのイヴォンネでさえも魔術が使えない原因がよくわからないと言うのだから、専門外のジョエルではお手上げだ。
何と答えるべきだろうかと悩んでいれば、セシリヤがじっとジョエルの顔を見つめ、
「ジョエル団長……、随分とお疲れのようですね。今日はもう、休まれてはいかがですか?」
そう言って僅かに乱れていたジョエルの髪に手をのばし、軽く整える。
そんなに疲れた顔をしていたのだろうかと思いながらも、これから少し調べものをしたいと答え、懐にしまってあった書状を取り出した。
「少し前に、ディーノが隣国へ魔物の調査依頼を出していたようで、その返答が届いたんだ」
最近、ロガール国内で散見される魔物の特徴として、倒した後に黒い霧状になって消えるモノが増えている。
以前はそんな魔物がいても数える程度であったし、もっと言えば、ずっと昔はそんな魔物自体存在していなかった。
突然変異種であるのか、それとも魔王が関係しているのかはわからないが、ここ最近、その手の魔物の増え方は異常だと言える。
そこに疑問を持ったディーノが隣国に調査依頼を出し、その返答を受け取ったジョエルが一足先にそれを確認させてもらったのだが、黒い霧状になって消える魔物の存在は認知されていなかったのである。
「些細な事かも知れないけれど、それについて調べてみようと思ってね」
「……そうですか。無理はしないで下さいね」
心配そうに眉を下げるセシリヤに勿論と答え、寧ろ彼女の方が疲れているのではないかと、頬に手を添え薄いクマの浮いた目元を優しく指でなぞる。
「君も、無理はしないように」
「私は大丈夫です。ありがとう、……ジョエル」
頬に触れたジョエルの手にそっとセシリヤの手が重ねられ、けれどすぐに離れて行ったその熱が、いつまでもジョエルの胸を焦がすように残っていた。
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