彼女が嘘をつくのは、彼女自身に対してだけだ-Elaine- 【期待】①
彼女と初めて接触したのは、エレインの積み重ねた努力が身を結び、副団長へ昇格しようとしている頃だったと思う。
実力主義だと言うロガール騎士団であったが、所属している全てがそれを認めている訳ではなかった。
表に出されている感情と、裏で渦巻いている感情は必ず対になって周囲を取り巻き、昇格への嫉妬や羨望は免れる事は出来ない。
例外なく、この頃のエレインへ向けられる視線の大半に含まれた感情は棘のあるものばかりで、気づかないふりをするのも難しい程だった。
決して地味とは言えない外見と雰囲気のせいで、廊下を歩けば男の好奇の目に晒され、ラディムと同じ村の出身且つ幼なじみでもあったせいで女の醜い嫉妬に身を削り、他団に使いで顔を出せばその団でも力のある者へ媚び諂いに来たと陰口を叩かれ、時には自分よりも上の立場である男に異常なまでの接触を図られることもあった。
ただ昼食を取っているだけでも、周囲で囁かれているのは耳を傾けるに値しない程度の低いものばかりだ。
どこかの団長のお気に入りだから。
女を売ってのし上がった。
そんなやっかみ半分の根拠のない話ばかりで、エレインは否定するのも面倒だと聞こえないふりをする。
反応を示せばかえって彼らを煽るだけであることは、重々承知であったからだ。
昇格は実力を認められたものであるのだから、下賤な噂など気にする必要はない。
多くの騎士が集まる食堂での昼食を済ませると、颯爽と席を後にした。
午後からは執務室での仕事が入っており、戻るにはまだ早すぎる時間ではあったが、居心地の良いとは言えない視線に囲まれながら時間を過ごすよりは執務室で仕事をしている方が気が紛れる。
一度深呼吸して、気持ちを入れ替えた。
暗い顔をしていても、事態が変わることはない。
それならば、上辺だけでも構わないから笑っていたい。
心の内から本当に沈んでしまえば、今の状況に負けたことになる。
それだけは、絶対に嫌だった。
堂々と顔を上げて執務室までの廊下を歩き、時折すれ違う先輩騎士と軽い挨拶を交わし、向けられる痛い視線はさらりと受け流す。
気にしている時間が、無駄。
そんな暇があるならば、もっと実力をつける為に努力を重ねた方が良い。
拳を握り胸を張って歩くエレインに、いやらしい視線を送りながら時折嘲笑をもらす数人の騎士とすれ違った時だった。
「昇格おめでとう、エレイン・ラルエット」
「良いよなぁ、魅力のある女はそれだけで得なんだから」
「ラディム団長の後ろ盾があるんじゃ、嫌でも認めざるを得ないよなぁ」
「しかも配属先が同じ団って言うのが……、ねぇ?」
どこまでも、おめでたい人間だ。
エレインの昇格に幼なじみのラディムの後ろ盾などは勿論無く、何の関係も無い彼を中傷の引き合いに出されることが酷く不快だ。
自分が中傷の的になっても、彼の事まで併せて中傷することが許せず、執務室へ向かっていた足を止めて、エレインは背を向けていた彼らへ向き直った。
「確かに、陰湿な嫌がらせや根拠の無い下賤な噂を流す様な人達よりは、知的だし魅力的な女だと思うけど?」
渾身の嫌味を込めて、エレインはここぞとばかりに妖艶な笑みを浮かべた。
同性であっても一瞬にして虜にしてしまうその笑みに思わず見惚れた彼らだったが、我に返るとエレインの態度に腹を立て、ここぞとばかりに口汚い言葉で罵り始める。
予想通りの展開に、エレインは呆れて溜息を付き背を向けるとその場を立ち去る為に足を踏み出した。
いや、踏み出したはずだった。
進行方向とは逆の向きへ力任せに引かれバランスを崩したエレインは、白い壁に肩を打ちつけ、次いで乾いた音が聞こえたと同時に頬に残った熱と痛みに眉を顰める。
叩かれたのだと、直ぐに理解できた。
床に崩れ落ちる事こそしなかったものの、制服の襟元を掴まれたままの体勢の為に、エレインは熱を持った頬を抑えながら彼らの顔を睨みつけることしかできない。
しかし、妬みを暴力と言う形に変えた行為に、流石のエレインも黙ってはいられなかった。
制服を掴んでいる騎士の手を捻り襟から放すと、すかさず右手を振り上げる。
右手が振り下ろされるまでの時間がやけにゆっくりと感じてしまい、その間、この後の事を考えた。
きっとこのまま目の前にある頬を叩いたら、それこそ彼らと同等になり酷く気分が悪くなるのだろうと、心の底で手を振り上げた事を後悔する。
けれど、既に振り下ろされた手が止まることはない。
「はい、そこまで」
エレインの手が頬にあたる直前、穏やかな声がその場の殺伐とした空気を一転させ、詰め寄っていた彼らの顔に緊張が走る。
エレインは、自分の手をギリギリの所で掴んで止めた人物へ視線を向けた。
……見た事の無い、女の騎士だ。
団長や副団長である事を示す階級章をつけているわけでも無い。
けれど、明らかに目の前にいる彼らは、その人物を見て表情を硬くしていた。
「セシリヤ・ウォートリー……」
呟かれた名前に、エレインは聞き覚えがあった。
セシリヤ・ウォートリー。
第七騎士団に所属する、唯一の女騎士だ。
実際に見たことは無かったけれど、彼女の噂はエレインも何度か耳にしたことがある。
その中でも、連絡の行き違いにより魔物数十体を一人で殲滅し生還したと言う話は騎士団内では有名な話だ。
(実は当時、彼女が嵌められたのではないかと言う噂もあったが、真相はわからない)
大勢いる男の騎士にも引けをとらない彼女の強さは、並みの騎士には遠い存在であり畏怖の対象でもあっただろう。
エレインの振り上げた手を掴んだまま、セシリヤは彼らに笑顔を向けて経緯を訊ねると、不思議な事に皆青ざめたまま首を横に振って走り去って行ってしまった。
「……話くらい聞かせてくれても良いのに」
頬を膨らませて不満そうに呟くセシリヤに掴まれたままの手をぼんやり見ていると、その視線に気づいた彼女は慌てて手を放す。
「ごめんなさい。えーと……エレイン……ラルエットさんで、いいのかな?」
名前を確認するセシリヤにエレインはただ俯く事しかできず、けれど彼女は特に気にした様子もなく、
「貴女の振り上げた手を止めて、正解だった。あんな人達、貴女が手を上げる程の価値はないもの」
綺麗な手を無駄に汚す必要はないと、そう言って笑ったのだ。
てっきりお説教でもされるものとばかり思っていたエレインは拍子抜けしてしまい、取り繕うかのように笑うと、セシリヤの両手が伸びてエレインの頬を軽く抓り上げた。
「そうやって、取り繕ったような笑顔を浮かべるのは良くないです。たまには感情を素直に表さないと、心が壊れてしまいます」
ね?と優しく笑いかける彼女の顔を見て、張り詰めていた糸がプツリと途切れた音がすると同時に、エレインの瞳から涙が溢れて来る。
毎日毎日、言いたい事も言えずに我慢して、聞き流そうと努力する度に疲弊していく心を押し込める事が、どんなに辛かったことか。
すぐに悪い噂を立てられる為に誰にも頼る事が出来ず、孤独だったエレインの世界へ突然入り込んで来たセシリヤの言葉と存在が、当時の自分にとってはとても貴重なもので、そこから彼女と親交を深めて行くのに時間はかからなかった。
……セシリヤの姿を見て逃げて行った彼らが、本当は彼女に畏怖していた訳ではなく、忌んでいたのだとエレインが気づいたのは、それから少し後の事だった。
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