誰かを失望させてしまわないだろうか -Yuki-【当惑】②
術式を描くことにはもう慣れていた。
けれど、いくら呪文を唱えた所で描いた術式はろくな反応を見せず発動しないまま、早一週間が過ぎている。
今日も変わらず発動しない術式に溜息を吐き、治療魔術を教えてくれているユーリを見やれば、眉を八の字に下げてもう一度やって見ましょうと繰り返した。
薄々自分には治療魔術を使う事が出来ないのではないかと気づいていたが、一生懸命に教えてくれているユーリには言い出せず、言われるままに同じ作業を繰り返している。
本当に、初級の治療魔術すら使えない自分が勇者と言う存在であって良いのだろうか。
そんな疑問が徐々に強く優希の心に影を落としていた。
先日のアルマンとの邂逅のせいもあったが、何より大勢の前で「勇者とは認めない」と宣言された事が大きい。
何も出来ない自分がすぐに勇者だと認められることはないだろうと覚悟していたが、こうもハッキリ宣言されてしまうとやはりショックが大きい上に、尚更どうすれば良いのか、何をすれば良いのか、何を出来れば認められるのかと焦ってしまう。
アルマンに投げつけられた練習用の剣を手に取る事も出来ないまま、彼の怒りと失望の入り混ざった瞳を、ただ見つめることしか出来なかった。
あの時、無理をしてでも剣を握って立ち向かって行けば何かが変わったのだろうか。
誰かを失望させると言うことが、こんなにも重くのしかかって来るものだとは思わなかった。
そんな事を考えていると、自然と作業する手が止まっていたのかユーリが心配そうに優希の顔を覗き込んでいることに気が付き、慌てて止まっていた手を動かすと、それを邪魔するかのように仔猫が指先にじゃれついて来る。
大人しく待っていてと子猫を机の下に降ろしてもすぐに登って来てしまい、これでは練習になりませんねと苦笑しながらユーリが休憩を提案した。
練習を始めてからおよそ一時間半。
休憩するには早すぎると思ったが、何となく集中出来ないせいもあって素直にユーリに同意すると、彼は少し席を外しますと言って部屋を出て行ってしまった。
恐らく、医療団での仕事も並行してこなしているのだろう。
いつまでも結果を出せない自分の為に時間を割いてもらう事が、申し訳なかった。
……僕が勇者だなんて……、間違いであれば良かったのに。
じゃれつく仔猫の相手をしながら今度は心の底から溜息を吐いた所で部屋のドアがノックされ、優希が返事をする間もなく遠慮なしに踏み込んで来た男に、驚いた仔猫が小さな牙を見せて威嚇する。
その様子に苦笑しながら優希の座っている机の前まで近づいて来ると、彼は恭しく一礼して見せた。
「初めまして。キミが勇者様だね? 僕は第二騎士団長のシルヴィオ・イグレシア……、気軽にシルヴィオって呼んでね」
顔を上げてウィンクする仕草は、甘いマスクのせいもあって年頃の女の子であれば多くが心をときめかすに違いない。
シルヴィオの自己紹介に応えるように優希が名前を名乗ると、彼は部屋をぐるりと見渡した後、右手の指を鳴らす仕草を見せる。
僅かに空気が揺れて、この部屋だけが違う空間にでもなったかのような錯覚にとらわれた。
(あくまで体感であって、気のせいかも知れない)
「さて、早速本題なんだけどね。ユウキくんに協力を求める書類が各団に回ってるんだ。剣技、魔術、その他諸々この世界で必要な事を教える為にね」
異界から来た勇者だと言うだけでそんな大事になっているのかと恐縮し顔が引きつってしまい、それに気づいたシルヴィオはクスクスと笑って話を続ける。
「僕もそれに乗ろうかと思ったんだけど、第二騎士団は戦闘には向いてるとは言えないから剣技や魔術は論外。その代わりと言っちゃなんだけど、こっちの世界の文字を教えようかと思ってね。多少の読み書きくらいはできないと、困るでしょ?」
シルヴィオの話に口を挟む間もなく勢いに負けて頷くと、彼は人好きのする笑顔を浮かべ、何か異界から持って来たものはないのかと訊ねて来た。
そう言われれば、持っていた鞄が部屋の隅に置いてあったような気がして、
「確か、鞄も一緒にこの世界へ持って来ているので……、教科書くらいならあると思います」
「じゃあ、そのキョウカショ? 今度用意してくれる? キミがそれを読んでくれたらそれをこっちの世界の文字に直してあげる。そうしたらユウキくんの勉強にもなるし、僕も異界の文字が読めるようになってお得だよね」
「あの……、シルヴィオ……さんは、僕のいた世界の文字に興味があるんですか?」
良い案じゃない? と言いたげなシルヴィオに同意しつつもそう訊ねれば、彼はよくぞ聞いてくれたとばかりに優希の肩に手を置いて得意気な顔をし、
「あっちの世界の文字って、読める人が王以外に存在してないんだ。だから、秘密の暗号として使えるんじゃないかと思ってさ。第二騎士団って機密事項を扱ったりするから、情報の漏洩をしない為にも取り入れたらどうかって、前々から考えてたんだよねぇ。あっ、これは第二騎士団だけで共有するつもりだから、他の誰にも言っちゃダメだよ?」
念を押すシルヴィオにこくこく頷いて見せ、それを確認した彼は約束だからね、と再び右手の指を鳴らして見せた。
その直後、部屋のドアが勢いよく開き、その勢いについて行けなかったのかユーリがそのまま床に倒れ込んでしまい、優希は慌てて彼を助け起こす為に駆け寄った。
「どうしたんですか、ユーリさん……? そんな勢いよく部屋に入って来るなんて……」
「いや……、ついさっきまでドアが全然開かなくて……、全力で押したらあっさり開くから……」
おかしいなと床にぶつけた鼻をさするユーリにすかさずシルヴィオが声をかけると、すぐにユーリは姿勢を正して挨拶をする。
(ユーリの態度に、本当に彼が団長なのだと実感した)
「治療魔術の練習中だったんだね。じゃあ僕はこれで失礼するよ。ユウキくん、またね」
ひらひらと手を振り鼻歌まじりに部屋を出て行くシルヴィオを見送ると、ユーリが二人で何を話していたのかと訊ね素直に答えそうになる優希だったが、秘密である事を思い出して当たり障りなく文字の読み書きを教えてくれる事になったとだけ伝えると、少し腑に落ちない顔をしていたようだが、特にそれ以上追求される事もなかった。
治療魔術の練習を再開すると、先程までシルヴィオを威嚇していた仔猫が、退屈そうにあくびを漏らしていた。




