周囲から向けられる好奇の視線が、ひどく不快だ -Arman-Ⅳ【落胆】①
母親に抱かれ眠っている小さな存在を"弟"であると認識したのは、いつの事だったろうか。
一つ下の弟は愛嬌があり、不愛想で泣き虫なアルマンと違って、周囲からとても可愛がられていた。
家が貧しいせいか栄養失調気味で年齢の割に小さく、まだ上手に立って歩くことが出来ない弟の手を握りゆっくりと歩く練習に付き合ってやれば、アルマンの顔を見上げてニコニコと笑顔を浮かべて見せる。
時にはつまづいて転んでしまう事もあったが、弟は決して泣くことはせず、自分の手と足で起き上がって再び楽しそうに歩いていた。
父親は「泣き虫のアルマンと違って大物になるな」と泣かない弟をベタ褒めし、その言葉に傷つき思わず眉を顰めてしまう事もあったが、弟の小さな手がぎゅっとアルマンの手を握る度に、すべてがどうでも良くなって行く。
この小さな手には何か不思議な力があるのかも知れないと握り返せば、弟はアルマンの顔を見上げ、より一層嬉しそうに笑うのだった。
数か月後、父が職を失い、とうとうこの町で生活をして行く事が困難になり、職を求め家族でロガールと言う国を目指し出発をした。
ひどく、雨の降る日だった。
安くて乗り心地の悪い乗合馬車に乗り、しばらくの間山道を駆ける様をぼんやり眺めていると、自分の手を捕まえる小さな手の感触に気が付いた。
視線を寄越せば、弟がニコニコと上機嫌で笑っている。
つられるように笑顔を返せば、弟は嬉しそうに声を上げて笑って見せた。
子供ながらに庇護欲が掻き立てられる感覚が不思議でたまらず、捕まれた手をそのままに視線を外の景色へ戻した直後、あまり良いとは言えない道を走る馬車が揺れ、バランスを崩して倒れそうになっていた弟を咄嗟に庇って転んでしまった。
揺れる馬車の中を動き回っては危ないと、転んだ拍子に臀部を打ったアルマンを気遣いながら母親が弟を抱き上げ、アルマンもまた座り直そうと腰を上げると、不意に馬が嘶き、急停車した馬車の外から人の言い争う声が聞こえて来たのと同時に、赤い飛沫が幌を染め上げる。
異変に気付いた乗客たちは荷物もそのままに慌てて馬車から降りて逃げ出し、アルマンも傍にいた父親に手を引かれ外へ飛び出した。
訳もわからず振り返れば、弟を抱えた母親も後を追うように走っている。
父親は「振り返るな、走れ」と言って引き摺るようにアルマンの腕を力任せに引っ張り、途中、靴が片方だけ脱げてしまった事に気づいて訴えたが、それに答えることなくただ真っすぐに前を向いて走るばかりだった。
背後からは金属のぶつかり合う音や悲鳴、そして追って来る複数の足音と下卑た笑い声が聞こえて来る。
中でも、弟の泣き声だけはひと際大きく耳についた。
滅多に大声で泣きわめくことの無かった弟の泣き声は酷く耳に残り、けれど、今の自分には何もしてやれず、逃げる事に精いっぱいだと無力さにくちびるを噛んだ。
ロガールの騎士団が到着し、賊を掃討したのはこのすぐ後の事だ。
騎士団に保護され、事が落ち着いた後にはぐれてしまった母親と弟を探しに出たが、二人の姿はどこにもなかった。
*
まだ静けさの残る早朝に目が覚めたアルマンは、深い溜息を吐き出した。
最近になって、繰り返し同じ夢を見る。
小さな頃の記憶などもうないが、夢の中には顏も名前すらも思い出せない母と弟が必ずと言って良いほど出て来るのだ。
もちろん、夢の中に出て来る人物が本当に母親なのか弟なのかは定かではない。
(そもそも顔に靄がかかっていて、判別できない)
母親はともかく、記憶の片隅にもない弟の事などわかる訳がないのだから。
それにしても、夢の登場人物に過ぎない弟にしては随分と具体的だった。
もしかすると、あれは記憶の奥底に眠っているものの一部なのかも知れないと、馬鹿なことを考えてしまう程に。
夢にしてはやたらと現実的でもあった事が、更にそう思わせるのかも知れない。
握った小さな手の感触、辺りに漂う血の匂い……、そして絶望感。
やけに生々しいそれらは、目覚めた後も尚、アルマンに纏わりついている。
夢の中の自分は幼く、戦う術も持たずにただ逃げる事しか出来なかった。
もしもあの時、戦う術を持った子供ではない自分であったのなら、母と弟を助けられたのだろうか。
ただ泣きながら父親に手を引かれていた小さな自分の姿を思い出し、無意識に舌打ちをする。
「……胸糞悪ィ夢、見ちまったな」
窓の外を見れば夜明けまで後数分と言った所で、二度寝する余裕はなさそうだ。
……起きて、身体を動かすか。
僅かに残る眠気と夢の形跡を振り切るように頭を振って立ち上がる。
耳の奥にこびりついた泣き声は、いつまでも消えることは無かった。
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