その手を離したくなど、なかったのに。-Ares-【崩潰】①※鬱話・やや残酷描写有
幼い頃、家族と乗っていた乗合い馬車が賊に襲われ、孤児になった所を拾ってくれたのは一人の女性だった。
彼女の名前は、セシリヤ・ウォートリー。
ロガール騎士団に所属する、数少ない女騎士の一人だ。
拾った子供を孤児院に入れる事も出来たはずなのに、彼女は周囲の反対にも耳を貸さず自分が育てるのだと言って聞かなかった。
若い身空で、しかも騎士団に所属しながら一人で子供を育てるなど容易ではない。
けれど、そんなセシリヤと親しくあった数少ない人達が密かに協力を申し出てくれたこともあり、二人での生活はそれなりに幸せだった。
アレスが七歳になった時、その幸せはセシリヤが必死になって守って来たものだと知り、ひどく動揺した。
騎士団に所属する一部の心ない人間が流した悪い噂のせいで肩身の狭い思いをしながらも、彼女は毎日それをひた隠しにして笑っていたのだ。
決してアレスには悟られないようにと、細心の注意を払って。
その事実を知ってから彼女の周囲を注意深く見てみると、確かに風当たりはあまり良くないようだった。
困った事があると騎士団に所属するセシリヤに相談して解決させるくせに、相談して来た本人はと言えばそれが当然だと言わんばかりの顔と態度でお礼すらも言わない。
腹立たしいとアレスは怒ったが、彼女は騎士であれば当然のことをしたまでだと言って笑っていた。
いつも買い物へ行く肉屋のおじさんは、表面上は普段と変わらぬ顔をして彼女に品物を売っていたが、値段を通常よりも高く跳ね上げていると子供のアレスにもわかるほどに露骨だった。
果物を売るおばさんも、野菜を扱うおじいさんも、あげればキリがない程に皆彼女に対して陰湿だった。
けれど彼女はそれについて何を言う訳でもなく、「ありがとう」と一言まで添えて普段通りに代金を支払っている。
買い物を終えて店先から立ち去った後に振り返れば、周囲の人間が集まってコソコソと指をさして話をしている姿が見えた。
彼らの表情を見る限り、決して良い話をしている訳ではない事が窺える。
悔しさで無意識にセシリヤの手を強く握ると、どうしたのかと訊ねられ、慌てて何でもないと首を横に振って見せた。
ここで彼女に現状を気づいていることを悟られるのは良くない事だと、なんとなく理解していたからだ。
きっと自分がそれに気づいたことを知ったら、彼女は悲しむに違いない。
噛んだくちびるを無理やり引き上げ、笑顔を作ってお腹が空いたと呟き誤魔化せば、セシリヤは小さく笑って「早く帰って支度しよう」と少し足早に歩き出した。
彼女の、その笑顔が好きだった。
そうやって、いつまでも笑っていて欲しいと、願わずにはいられなかった。
だから、大きくなったら彼女を傷つける全ての物から護れるように強くなりたいと、この頃から騎士学院に入学する事を決めていた。
十五歳以上で入学できることを知り、誕生日を迎えたその翌年のある日に家を出た。
ポケットには、彼女が大切にしていた髪飾りをお守り代わりに忍ばせて。
(随分と古びて髪飾りとしては使えない状態になっていたが、勝手に持ち出したことを知ったら、彼女は怒るだろうか?)
学院へ向かう途中、その後を追って来たセシリヤと意見が食い違い口論になり、お互い一歩も引けない状態になって、アレスは彼女の視線から逃げるように背を向けた。
「もう、護られてばかりじゃダメなんだ。今度は、俺が姉さんを護らないと。俺だって、いつまでも子供じゃないんだ!」
「家には帰って来るの? 休暇だってあるでしょう? 何なら家から通ったって……」
「卒業して、騎士になるまでは姉さんに会わないよ。いつまでも傍にいたんじゃ、強くなんてなれないから。それが、俺なりのケジメだと思ってる」
背を向けている為にセシリヤがどんな表情をしているかわからなかったが、言葉を詰まらせ黙ってしまった事を考えると想像に難くない。
振り切るように足を踏み出し、再び学院を目指して歩き始める。
彼女は、もう追って来る気はないようだった。
広場から出る際に振り返り最後に見たセシリヤは、今にも泣き出してしまいそうな顔をして、両手をきつく握り締めていた。
そんな顔をさせているのが自分だと言う事実に、胸が痛んだ。
【 Intermedio -Ⅱ- 】




