いくつも、いくつも、しらみつぶしに。 -Airi- 【懺悔】③
「ママー、早く行こうよ! 遅刻するよ!」
「ちょっと待って、絵里! お弁当忘れてる!」
「先に行ってるよ。ママ、絵里も気を付けてね」
慌ただしい朝の一コマ。
繰り返される平凡な日々は、それなりに幸せだ。
夫を送り出した後、少し遅れて高校生になった娘と共に家を出る。
本当に、何の変哲もなく平凡な世界で、今朝、夢に見た懐かしい世界を思い出し、少しだけ切ない気持ちになった。
若かりし頃、異世界へ召喚されて勇者となり、魔王を封印すると言う冒険物語。
見目麗しく個性のある登場人物たちと共に旅をして、無事魔王を封印し、お目当ての人物と結ばれた夢の世界は、幸せだった。
……残念ながら、現実ではそんな展開にはならなかったけれど。
あちらの世界から元の世界へ帰って来た時には、召喚されてから、ほんのわずかな時間しか経過していなかった。
今でもあれは、夢だったのではないかと思う事がある。
叶わぬ恋をし、嫉妬心からセシリヤを傷つけてしまった苦い記憶もすべて、夢だったのではないかと。
けれど、紛れもなく現実だ。
あれから年月は経ち、今では家庭を持っているからこそ、例え夢であったとしても、自分のしたことは許される事ではないと深く反省している。
彼らをゲームの世界の登場人物として見て、自分の思う通りに動かそうとしていた事。
ゲームの世界の登場人物だからこそ、何をしても良いと思っていた事。
本当に幼稚な考えだったと、あの頃の自分を殴ってやりたいと心の底から思っている。
帰る前日に、せめてもの意趣返しとしてセシリヤに魔王の正体を告げたけれど、それも、ただの嫉妬でしかなかった。
結局、あの世界では"勇者"には、なれなかったのだ。
セシリヤを酷く傷つけてしまった事を悔いて、魔王について出来得る限りの情報を書いたノートの一番最後のページに、こっそりと彼女への謝罪を書いたけれど、それも見つかるかどうかわからない場所へ隠すように置いてきてしまった。
魔王の事実を知ったセシリヤの酷く傷ついた顔が、今でも忘れられない。
もっと、彼女の話を聞いて仲良くなるように歩み寄っていれば、何かが違ったのかも知れないのに。
今でも胸の内に残っている後悔だけは、やけに生々しさを残していた。
「ママ、早くしないと置いて行くよ?」
ふと隣を歩いていたはずの絵里が、いつの間にか先を歩いていることに気がついて、慌てて彼女に走り寄る。
今は、現実にいる家族を全力で、嘘偽りなく守る事が自分の仕事だ。
セシリヤを傷つけて置いて、こうして幸せである事に少しだけ後ろめたさを感じることもあるが、それでも生きて行かなければならない。
絵里に追いついた所で、曲がり角から現れた一人の少年とすれ違った。
ひどく慌てているようで、何か忘れ物でもしたのだろうかと振り返った直後……、
……少年が眩い光に包まれ、目の前で消えたのだ。
見間違いかと思って目を擦り、もう一度少年のいた場所を凝視する。
けれど、そこにあるのは彼が履いていたと思われる、片方の靴だけだった。
暫くして同じ曲がり角から数名の男子高校生のグループと思しき少年達がやって来て、左右を見渡すと、リーダーらしい少年が落ちていた靴を拾い上げる。
どうやら雰囲気を見る限り、先程の少年は彼らに追われていたようだ。
どこに行きやがったと憤り探し回る少年達に背を向けて、絵里と共にその場を早々に立ち去った。
目の前で起きた嘘のような現実。
彼は一体何処へ消えて行ったのだろう。
思い当たるフシがないわけではない。
かつては自分の身にも同じことが起こったのだから。
けれど、
「まさか……ね……」
目の前で消えた少年が一体どこへ行ったのか、それは、神のみぞ知る事であると、亜衣里は静かに目を背けた。
【END】




