賽は、投げられたのだ -Ángel-【胎動】③
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ふと目が覚めて辺りを見回し、嫌な予感がして王のベッドの天蓋を捲ると、もぬけの殻であったことに全身から血の気が引いた。
昼間、身体の調子が良いと王は話していたが、こんな夜更けに動き回られては、また倒れてしまうかも知れない。
近くにいて王を見ていたはずなのに、まさか眠りこけてしまうとは不覚だ。
事が大きくなっては面倒だと、城の警護をしている人間には適当な理由をつけて王の寝所から出た。
警護している騎士の目を掻い潜れる力は残っていたのかと、王の人の悪さに溜息を吐きながら、なるべく足音を立てずに走る。
恐らく、王はあの部屋にいるはずだ。
長らく研究を重ねた魔法円の描かれた、あの部屋に。
また、たった独りで召喚の儀式を行うつもりなのだろう。
――― 私たちは、皆が崇める勇者などと言う存在ではないのだ……。
たった独りで事実を背負い、命を懸けてこの世界をあるべき正しい姿へ戻す為に。
――― 私たち異界の人間は……、
例え、王が勇者などと言う存在ではなくとも、皆が慕い尊敬する人物であることに変わりはないのに。
彼の功績は讃えても讃えきれない程にある。
完全とは言えないが、この世界に蔓延る種族の差別を無くそうと新たに国を作り、どんな種族も受け入れた。
職にあぶれる事がないように騎士団を作り、そして同時に国の治安を維持する為に尽力した。
自分の目で国を見て、そして耳で民の声を聞き、どんな小さな事でさえも正すべき所は正していた。
今までどこの国の誰もやろうとしなかった事を、長年かけて実現させてきた彼を、あんな事実ひとつで誰が見放すものか。
例え皆が王に背を向けたとしても、決して自分だけは背を向ける事はしない。
忠誠を誓ったあの日から……、いや、牢獄から助け出されたあの時から、既に心は決まっていたのだから。
目の前の隠し扉を力任せに押し開け踏み入れば、予想通り、壊れたチェーンを握る王の姿が見え、アンヘルの侵入に気づいた彼は驚き、呪文の詠唱を中断してしまった。
「アンヘル……、どうしてここに……?」
「微力ながら、力添えをさせていてだきたく、馳せ参じました」
驚いたまま身動きが取れない王のもとへ歩み寄ると、彼は「何故」と掠れる声で呟いた。
召喚の儀式の際に捧げる代償については理解しているつもりである事を告げると、王は弾かれたように怒りを露わにして「出て行け」とありったけの声を出し、けれど、老いた今ではそんな些細な事ですら身体に障るようで、激しく咳込むとその場に崩れ落ちてしまった。
以前よりも更に細くなってしまった身体を受け止めると、支えるように抱き起こし、真っすぐに王を見据える。
「王……、私の忠誠は、事実を聞いた今でも何一つとして変わっておりません。あの場ですぐに答えられなかったのは、言葉にするには尚早だと判断したからです。もしも仮にあの場で王を信じると言っても、上辺だけだと受け取られてしまい兼ねないと……、そう思ったからです」
皺になって弛んだ瞼のせいで、小さく見える眼が僅かに見開かれ、じわりと涙が溢れ出す。
その眼は、年を取った今でも、あの時と変わらず澄み切っていた。
「申し訳ありません。王が不安を抱いているのは重々承知していました。しかし、信じていただくにはどうしても、時間が必要だったのです」
王の手から壊れたチェーンが滑り落ち、それを一瞥すると、
「私の生命力を使って下さい。その壊れてしまったチェーンを使うより、何倍も効率は上がります」
ずっと前から決断していた言葉を口に出す。
王は怒るでもなく責めるでもなく、ただ、涙を流して俯いていた。
どう答えれば良いのかと、この期に及んでもまだ迷っているのだろう。
呆れるくらいに、愚かな程に、心根の優しい素直な人だと改めて思う。
「例え、ただの器として召喚された人間であったとしても、貴方は間違いなく私にとって勇者であり、恩人です、王。今だからこそ、その恩を返す事をお許し下さい」
「アンヘル……っ」
「それに、あの牢獄にいた時から生命力には自信があるのです。多少捧げた所で、私には何の問題もありません」
目に涙を溜めながら見上げる王に力強く頷くと、その皺だらけの手に自分の手を重ね、目を閉じた。
この手が、どれだけ多くの人々を救って来たのか、王はわかっていない。
王は、王自身がこの世界に存在してはいけない異物であると言っていたが、決してそうではないと、胸を張って言える。
彼はこの世界に必要な存在であり、世界もまた彼を必要としているのだ。
そして、長い間魔王の呪いに苦しんでいるセシリヤを救えるのも……、あの魔王さえも、救えるのは我らが王ただ一人であると。
淡く輝く魔法円が、次第に強い光を帯びて周囲を照らし始めた。
今夜、密やかに行われたこの儀式で一人の人間が召喚され、そしてその話は翌朝、国中を駆け巡る。
……賽は、投げられたのだ。
【END】




