切に願い、強く抱き締めた -Joel- Ⅲ【切望】③
いつもならばこんな事ではざわめくことのない心臓が、煩い程に音を立てる。
とりあえずは、あまり精神的によろしくないこの状況を打破するために、セシリヤを気遣いながら両腕で身体を支え起き上がらせると、
間近に感じる彼女の吐息に混ざって、微かな笑みが洩れた事を耳が拾い上げた。
どうやら、眠っているわけではないらしい。
「セシリヤ……、意識があるなら悪い冗談はやめてくれ」
色々な意味で安堵の溜息を吐くと、ジョエルは今度こそ回されたセシリヤの腕を除け、彼女に覆い被さっている身体を離した。
……つもりだったのだが、今度は先程とは比べ物にならないくらいの勢いで腕を引かれ、逃げ出す事は許さないと言わんばかりに彼女の両腕がしっかりと背に回される。
流石にこれはまずいと、ジョエルは焦る気持ちを必死に落ち着かせようと意識を逸らすべく思考を切り替えようとするも、先程より更に密着した身体から感じる熱と柔らかい感触に上手く頭が回らない。
これまで数えきれない程にセシリヤを抱き締めた事はあったけれど、それは極めて普通の状態での話だ。
深夜にベッドの上で、しかも彼女に覆い被さるような体勢になったことなど、まず、あり得ない。
いよいよ焦りを隠せなくなったジョエルが、実力行使もままならないかと溜息を吐いた所で、ふと、彼女の指先が震えている事に気がつき首を傾げた。
「……あの人の隣には、あの人に相応しい相手が並ばないといけない。未来を奪ってしまうことは、絶対にしてはいけない」
呟くように紡がれた言葉はひどく抽象的で、けれど、何か悩んでいる事だけは辛うじて理解出来る。
しかし、セシリヤの言う"あの人"が一体誰の事を指しているのか、ジョエルには知る由もなかった。
「呪いの事を知れば、どうせ離れて行ってしまうのだから。……私は、何も聞いていない、気づいていない。ねえ、ジョエル……、私は間違っている?」
今のこの状態で、出来得る限りの僅かな距離を取ってセシリヤの顔を見れば、潤んだ瞳が真っすぐにこちらを見つめていた。
酔っているせいか、いつもならば感じる事のない色香がほんの一瞬ジョエルの心を惑わせたが、すぐに視線を逸らし、深く息を吸い込み吐き出して気持ちを落ち着かせる。
彼女の行動に深い意味はなく、酒に酔っているのなら尚更だ。
間違っても彼女の信頼を裏切るような真似はしたくない。
動揺を隠しながら、右手でそっとセシリヤの頭を撫でた。
「君がそれで良いと言うのなら、私は肯定する。ただ、本当にそれで良かったのかを判断することは、私には出来ない。君の心は君だけのもので、他の誰にも覗き見ることは不可能だ……。ただ、もしも……」
話を続けながらもう一度セシリヤの顔を見れば、その瞳からは止め処もなく涙が溢れていて、思わず彼女の問いかけに答える声も途切れてしまった。
「ジョエル……、あなただけは、私から離れて行かないで。もう、何も望んだりしないから……」
「……セシリヤ」
「私を……、独りにしないでね、ジョエル」
頬を伝ってシーツを濡らして行く涙を指で拭うと、セシリヤは反射的に瞼を閉じる。
「何も……、誰も失いたくない……」
大分酔いも回っているせいか、夢うつつに言葉を紡ぐ彼女の頭を暫く撫で続けていると、ジョエルの背に回された腕から力が抜けて滑り落ちた。
眠ってしまったのかとセシリヤを起こさないように慎重に起き上がり、今度こそ薄手の毛布をかけ、改めて彼女の隣に添うように寝転がる。
セシリヤを独りにする事など、この命が尽きるまで決してあり得ない。
彼女は今でも、憧れであり大切な人に違いなかった。
ただ……、何れセシリヤはこの手を離して、別の誰かの元へ行ってしまうかも知れない。
このままセシリヤにかかる呪いが解けなければ、どう考えても自分の方が先にいなくなってしまうからだ。
そうなった時、自分ではない誰かが、彼女の支えになっているのかも知れない。
……或いは、もう既に、彼女の心に入り込んでいる人物が、いるのかも知れない。
決して自分には立つことのできない、その場所に。
繋ぎ止めておけるのは彼女の存在だけで、心だけは、どうしたって繋ぎ止める事などできないとわかっていたはずなのに。
僅かに燻る心を、無理やり打ち消した。
セシリヤにとって最も信頼できる存在であれと、何度も言い聞かせながら。
夜が明ければ、この奇妙な気持ちもきっと落ち着きを取り戻すはずだ。
だからどうか、今だけはこうして傍にいる事を許して欲しい。
「お休み、セシリヤ。明日には、またいつもの君に戻っている事を願うよ」
その傍らで、彼女が安らかな一時の眠りにつける事を祈って。
―――どこにも、行かないで。
微かに聞き取れたセシリヤの願う言葉に、ジョエルは何を答えるでもなく、けれど、その両腕にはしっかりと彼女を抱いたまま、瞳を閉じる。
朝になればきっと、この腕の温もりは何事もなかったように消えているのだろう。
それが当たり前だったはずなのに、今、初めて消えて欲しくないと切に願い、強く抱き締めた。
【END】




