第五話
「浮かない顔をされていますが、いったいどうなさったのです?」
深夜、いつものように部屋を訪ねてきた白影は、莉璃の顔を見るなりそう言った。
「いえ、とくに何もありませんわ」
形ばかりも彼を出迎えた莉璃は、踵を返して作業台へと向かう。
予定どおり型紙を完成させた今夜は、生地を選び、裁断をしなければいけなかった。
のんびりと白影の相手をしている暇はなくて、つい素っ気ない態度になる。
「わたくし、忙しいのでいつもどおりに――」
好きにすごしてください、との言葉は喉の奥で掻き消えた。
「嘘をつかないでください。何かあったのでしょう?」
いきなり腕をつかまれ、白影と向かい合うよう引き寄せられてしまったからだ。
間近にある琥珀の瞳。
何もかもを見透かすようにじっと見つめられれば、途端に居心地が悪くなった。
腕に感じるのは彼の体温だ。吐息を感じるほどの距離に、鼓動が早くなる。
「さあ、お話しください」
迫るように顔を近づけられる。
どうしよう。上手く息ができない。
「本当に何もありませんわ」
慌てて否定するけれど、それは嘘だ。
実際は白影の言うとおり、かなり落ち込んでいた。
提出した図案に厳しい評価を下され、なけなしの自信を失ってしまった。
さらに夕刻、王家の花である句劾から、過酷な現実をつきつけられればなおさらだ。気分はなかなか浮上しそうにない。
「どうしても話してくださらないおつもりですか」
腕をつかまれたまま溜息を吐かれた。
嫌な人だ。莉璃の髪にしか興味がないくせに、その表情までもよく見ている。
――勘違いしてしまうじゃない……気にかけてくれているのだわ、と。
「そういえば今日、洸句劾さまにお会いしたのですが」
どうにかうやむやにできないものかと、莉璃は話題を変えた。
「洸句劾? 王家の花の彫金師の方ですか?」
いきなりあがった名に、白影はいぶかしげに眉をひそめる。
「ええ、初めてお会いしたのですが、とても素晴らしい御方で」
仕事に対する姿勢や彫金の技術が、との意味をこめて、彼のことを賞賛したつもりだった。
「短い時間でしたが、とにかく勉強させていただきましたわ。できるならもっとずっとお話ししていたかったくらい」
「……もっとずっと、ですか」
莉璃は「ええ」と即座にうなずく。
「あのような御方がいらっしゃるなんて、びっくりです。素晴らしいお話ばかりで、つい聞き入ってしまって」
と、気づけば白影の顔からは、すっかり表情が消えていた。
「白影さま? どうなされましたの?」
「いえ、たしかに有能な方だとの噂は耳にします。彫金の腕はもとより人柄もなかなかに面白いらしく、下級官吏がよく相談に訪ねるのだとか」
そう聞かされて、なるほど、と納得した。
口は悪いが、莉璃のことも気にかけて様々な話をしてくれた句劾だ。裏表のない人柄を好み、頼る者もたくさんいるのだろう。
「そのお気持ち、わかりますわ。一度お会いしただけですけれど、もっとお話を聞いてみたいと思いましたもの」
「また会いたいと?」
「ええ」
その感情はあくまで、彫金師と仕立屋――つまり職人である句劾の仕事ぶりに惹かれてのことだった。
しかし白影は、なにやら勘違いをしてしまったらしい。
「そうですか……ですがそうと聞かされれば、未来の夫としては黙っていられませんね」
彼の琥珀色の瞳に、苛立ちの色が混ざる。
「黙っていられないとは……どういうことですの?」
わからなくて、小首をかしげた。
「莉璃姫、あなたはあまりにあさはかな方だ。夫となる私の前で、他の男のことをそんなにも褒めるのですから」
溜息混じりに言われて、ようやく気がついた。
彼が誤った解釈をしているということに。
「ちょっと待ってくださいませ」
「ですが洸句劾殿にいくら惹かれたとて無駄なこと。今すぐあきらめてください」
「違います! そういう感情ではございませんわ」
「何をいまさら。珍しく嬉しげな顔をして、彼のことを語っていたではありませんか」
莉璃の腕をつかんだままの白影は、おもしろくなさそうにあさっての方角を見る。
「いくら私のような男の妻になるのが不満だからといって、なにも今、他の男に惹かれなくとも――」
「わたくしはただ、彫金師としてのあの方を素晴らしいと賞賛しただけですわ」
思い違いをされては困ると、重ねて否定した。
「あくまで職人としてのあの方が素晴らしく思えて。それ以外で心を動かされたわけではありません」
きっぱり言い切れば、白影がゆっくりとこちらを向く。
「……本当に? 彼に心を奪われたわけではない、と?」
「しつこいですわよ」
「信じてよろしいんですね?」
「ですからしつこいですわ」
「申し訳ありません。ですがあなたの仕事の件で意見の相違がある上に、別の男のことまで想われてしまっては、いよいよこの結婚は難しくなるのかと考えてしまいまして」
「仕事のこと以外ではとくに問題はございませんわ」
すると白影は、あからさまにほっとした顔をした。
「よかった、安心いたしました」
やがて莉璃の黒髪のひと房に、あいているほうの左手をのばしてくる。
「……ではまたこうしてこの髪にふれられるのですね?」
まずい。
なんだか妙な雰囲気が漂い始めた。
髪をなでる白影の手が、次第に莉璃の耳や額にふれるようになって、反射的に身をすくめる。
ふと気がつけば、彼の瞳が、狙いを定めたかのように莉璃の瞳を見つめていた。
――何をする気なの?
さきほどまでとは明らかに違う空気を感じ取り、莉璃は焦りを覚えた。
だから話題を変えようと、あのことを口にする。
句劾から聞いた、白影の――司家に関する噂のことを。
「そういえば、白影さまに関する噂話を耳にしましたわ。なんでも白影さまは司家の正当な嗣子ではない、とか」
何の気なしに、そう告げたつもりだった。ただ白影との間に生まれた艶めいた空気を一新したくて。
「どうせただの噂話なのでしょうけれど」
おどけるように言って、彼の反応を待つ。
そうですね、と。くだらない噂です、と、彼が同意してくれるものだと予想して。
けれど白影は、一瞬、雷に打たれたかのように全身を強ばらせた。
「白影さま?」
そして笑う。「ああ、それでですか」と。
「なるほど……これで合点がいきました。なぜそんなにも浮かない顔をしているのかと思っていたのですが、その話を聞いたからなのですね。ははっ」
それはどこか自虐するような調子の笑い方だった。
「白影さま?」
どうなされたの? と、莉璃は首をかしげる。
すると彼は、にやりと唇の片端を持ち上げた。
それはいまだ、莉璃が見たことのない、新たな彼の一面だった。