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嘘つき世界のサンタクロースと鴉の木  作者: 麻婆
幕間 ロストエピソード.Ⅲ
44/51

嘘つき世界の創世神話 ④ /鬼沢晃(外ヶ浜巽)

 目が覚める。

 落ちかけていた顔を上げる。投影されたスクリーンと、投影キーボードが視界に入った。

 そうだ。寝ている場合じゃない。俺にはやることがある。成すべきことがある。


「鬼沢くん、大丈夫ですか?」

「……はい。一瞬、眠っちゃってただけです。大丈夫です」


 体が熱い。重い。鎮痛剤のせいなのか、傷のせいなのか、ときおり意識が刈り取られてしまう。俺の左脚は、もう痛みも感触もない。怖くて見られないが、もう消えて無くなっているのではないだろうか。

 だけど、いい。構うものか。どうせ、放って置いたらこの世界もろとも消えてしまうのだから。諦めにも似た腹の括り方。だが、いまはそれでいい。


「すこしずつ、理解できるようになってきました」

「すごいな、あんた。この文字が読めるのか?」

「いえ、さすがにまだそこまでは……。でも、類似を見つけて、推測と実験を繰り返せば理解できるかも知れません」

「すごい……。すごいですよ、鬼沢くん」


 外ヶ浜さんと常盤坂さんは、壁に映された文字列を俺の肩越しに眺めている。

 意味不明の文字列のなかには、見知った数字や記号も混ざっていた。どんな文脈だったかは憶えていないが、『数字は神の言語だ』と友人が言ったのを思い出した。そのときは鼻で笑ったが、いまはあながち間違いでもない気がしている。いずれにしろ、数字や記号を見つけると、とてつもなく安心する。


「外ヶ浜さん、俺が寝そうになったら叩いてください」

「……わかった。お安い御用だ」

「ありがとうございます」

「いやなに、俺の世界を救ってくれるっていうのに、俺自身はなにもできなくて歯がゆかったところだ」


 彼はすでに“木”に関しては疑問を持っていない。人が死ぬと木になるという現象は、この物語世界では常識になっているとみていい。しかし、病院での突発的な大量死や、いま目の前でときおり起こっている“剥離現象”は、彼にとってまだ世界の終わりを信じるに足る状況なのだろう。


「わっ! また……」


 常盤坂さんが、思わずといった感じで声を上げた。それはそうだろう。俺もいまだに慣れない。慣れそうもない。

 いま、俺たちの周囲で景色が剥離している。遠近感などクソくらえと言わんばかりに、奥行きもなにもかもを無視して平面的に視界が剥がれ落ちる。

 視界に残るのは、真っ暗闇だ。物語世界と物語世界の間で見た、底なしの沼。物語の墓場。黒歴史の廃棄場。


「っ痛い!」


 突然、外ヶ浜さんに平手をお見舞いされた。


「あ。すまん。強かったか?」

「いえ……、それで大丈夫です。でも、いま寝てませんよ」

「そ、そうか。それはすまん。顔が逝っちまってたから」


 そんなにひどい顔をしていたのだろうか。

 まあ、いい。顔など気にしている場合ではない。集中しろ。

 壁には、文字化けした意味不明の文字列が大量に並んでいる。更新され、外ヶ浜さんの認識や記憶を捻じ曲げたファイルを開いているのだ。

 この文字は、この世界が自動的に書き込んでいるものだと推測する。いわば、システムにしか認識できない文字なのだ。この文字を人間である俺がキーボードで打ち込めるはずがない。だから、俺は思い切って日本語で打ち込んでみた。


 “死者の木=木になった死者

  埋葬林=死者の木が埋葬される墓地”


 その結果、世界の剥離現象を呼んだ。おそらく、この現象は物語世界崩壊(ハザード)の途中経過なのだろう。剥がれた世界の欠片は、真っ暗闇に落ちた。

 それでも、俺は続ける。

 剥離現象が起こったということは、打ち込んだ文字が影響を及ぼしているということだ。結果、美しいソースコードを破壊してしまうかも知れない。しかし、もうほかに手立てが思いつかない。続けるしかないのだ。真っ暗闇と背中を合わせて、世界を書き換える。世界を崩壊させる違和感や異物の類を、違和感がなくなるまで後付け設定で誤魔化し続ける。辻褄を合わせ続ける。


 “埋葬林=人には認識できないよう実像に重なる亜空間

  埋葬林=敷地はほぼ無限大

  埋葬林=生者は立ち入れない”


 なんだ亜空間って。我ながら都合が良すぎる設定だ。

 しかし、俺が日本語で設定を打ち込むたび、読めない文字列も一緒に増えていく。まるで、俺の設定をシステム側が補強してくれているようだった。


 “遺木=木になり始めた遺体の呼称”


 そう打ち込むと、また謎の文字列が付け加えられた。


「外ヶ浜さん、彼の()()を埋葬してもらえますか?」


 俺の左脚の具合を見ていた外ヶ浜さんに、試しにそう言ってみた。


「ん? あぁ……、そうだな。いくらなんでも可哀想だもんなあ」


 木になりかけている林崎の部下を見て、外ヶ浜さんは頷いた。


「ええと、埋葬林はどのあたりだったかな?」

「ここですよ。ここはもう埋葬林のなかです」


 言いながら、俺は背中を駆け上がる悪寒を感じていた。たったひとりの人間が、たった数行の文字を打ち込んだだけで、世界の有様や人の認識、記憶までを捻じ曲げてしまえる。ファイルを自動的に管理しているこのシステムが、世界にとっての“神様”ってやつなのかも知れない。

 なら、俺はなんだ。神様にアクセスして、その手足を勝手に操っている。最上級の狂言回しだ。そんなもの、本来なら人の手に余る。

 きっと、八九二が収集している物語もここにアクセスして取得しているに違いない。


「……あぁ、そうか。そうだった。ここは埋葬林だったな。じゃあ、俺は出て行かないと。生者は立ち入っちゃいけないからな」

「はい」


 場所の指定方法がわからなかったので、八九二が取得している現住所をそのまま埋葬林の住所として入力した。


「鬼沢くん……」


 常盤坂さんは、俺を辛そうな顔で見つめている。

 俺の周囲は、いまにも真っ暗闇に飲み込まれそうなほど剥離現象が起こっている。だから、巻き込まれてしまう前に外ヶ浜さんを逃がそうとしている俺の思惑は、常盤坂さんには悟られてしまっていた。


「鬼沢、あんたは埋葬林にいて大丈夫なのか? いや、あんたはたしか世界を……。いかんな……、なんだか混乱してきた」

「俺は普通の人間じゃないんですよ? 死んでも木にはならない。なんせ、埋葬林を守護する墓守なんですからね」


 苦しい。

 早くも言い訳が苦しくなってきた。しかし、諦めてなるものか。

 俺はファイルへの書き込みを続ける。たとえ、人の手に余る行為だろうと、“神様”への冒涜だろうと、もうやめるわけにはいかない。だけど、人の道を外れるのはひとりだけでいい。


「常盤坂さんも、外ヶ浜さんを手伝ってください。一緒に行ってください」

「ふざけたこと言わないで」


 ぴしゃりと、強く否定された。

 常盤坂さんの目は、本当に怒っていた。


 外の人間である俺や常盤坂さんには、まだシステムの上書きが至っていないのだ。そう考えると、あの細越という書店員は、この物語世界で採用した書店員だったのかも知れない。俺たちよりも現地人に近すぎたんだろう。だから、“木”になるのが早かった。そして、林崎の部下は、死んでしまったから問答無用で木になった。

 しかし、それらはすべて推測でしかない。いつ俺自身が上書きに巻き込まれるかわからない。もしかしたら、それよりも早く剥離現象に巻き込まれるかも知れない。そして、それは常盤坂さんも同じだ。一刻も早く俺の近くから離れて欲しい。そうすれば、きっと命は助かる。


「邪魔なんですよ。ここにいたって常盤坂さんは邪魔でしかない。なにもできないじゃないですか。犬死するだけですよ。これは、俺にしかできない仕事です」

「そ……、そんなの嘘だってわかってますからね!」


 バシンと、肩を強く叩かれた。

 どうやら常盤坂さんにはバレバレであるようだが、もう押し切るほかない。


「わたしだって……書店員だし、責任がある。わたしは先輩ですよ。鬼沢くんをひとりになんてしません!」

「邪魔だって言ってるじゃないですか。どっか行ってくださいよ……!」

「そ、そんな泣きながら言われたら、わたし……」


 またやってしまった。

 ポーカーフェイスとやらは、俺には無理だ。

 ひとりは怖い。世界の命運とかいうふざけた重荷を背負うには、ひとりでは荷が勝ちすぎている。

 死ぬのは怖い。たんなる死だって怖いのに、真っ暗闇に落ちたらと思うと、震えてくる。

 でも、鎮痛剤のおかげなのか、ぼんやりした頭は恐怖すらもすこしぼかしてくれている。


「お願いします、常盤坂さん。知らなかったとはいえ、俺なんですよ。致命的なプログラムを運んできて、この世界を滅茶苦茶にしたのは俺なんです。俺だけにやらせてください」

「そんなの、鬼沢くんのせいじゃない。“楽園”の仕組んだことなんですよ」

「あなたを絶対に死なせたくないんですよ、先輩。二人とも死んでしまったら、それこそ“楽園”の思うつぼです」


 息をのんだ常盤坂さんの腕で、八九二が通知を吐いた。まだ物語収集プログラムが起動していたのか、なにかしらの物語の可能性を知らせているようだ。

 その物語は始まらない。永遠に失われる。俺だけが持っていく。文字データになんかさせない。


「外ヶ浜さん!」


 スーツの上着を使って、遺木を背負おうとしている外ヶ浜さん。


「常盤坂さんを頼みます!」

「……わかった」

「鬼沢くん!」


 この物語世界に来ることになった経緯を思い出す。

 二森沙兎に仕入れ作業を頼まれたのは、俺だけだった。常盤坂さんは、たまたま俺を心配してついてきてくれただけ。俺以上に巻き込まれただけなのだ。だから、せめて生きて欲しい。新しい世界を俺が作るから、その世界で幸せになって欲しい。


「埋葬林には、墓守以外の生者は立ち入れない。禁足地なんですよ」

「そうだ。墓守様の言う通りだ。俺たちは、ここにいてはいけない」

「恨みますよ、鬼沢くん……」


 外ヶ浜さんに手を引かれ、常盤坂さんは俺を睨む。その涙にかすんだ目を見て、孤独という恐怖がこみ上げる。


「大丈夫。常盤坂さんは、俺のことなんて忘れてしまいますよ」

「無理だよ……」

「お願いします。外ヶ浜さんと一緒に行ってください」


 ぱらぱらと視界が剥離する。もう時間はそれほど残っていない。急がなくてはならない。崩れた欠片を拾い、作り、はめ直し、世界を救う。外ヶ浜銀次郎と常盤坂園美が生きるこの世界を壊したりするものか。


「行って!」

「さあ、行こう!」

「鬼沢くん! ……離して! 鬼沢くん!」


 もう、俺は振り返らない。

 振り返る気力すら、もったいない。己に残るすべてをかけて、この物語世界をリビルドする。人が木になるなんていう異物、面白いじゃないか。書店員をなめるなよ。


 かあ、と唐突に泣き声がした。

 いつからそこにいたのだろうか。俺の右肩に鴉が乗っていた。逃げ遅れてしまったのかも知れない。


「ほら、逃げろ。ここにいたら拙いぞ」


 振り払おうとするが、ひょこひょこと鴉は上手に俺の手を逃れる。


「いてっ、やめろ」


 鴉は俺の頭をつつき、壁に投影されたスクリーンを見つめる。そして、かあ、と鳴いた。


「なんだよ。一緒にいてくれるのか?」


 今度は、じっと俺を見つめる鴉。明らかに言葉は通じない。生物としても大きく違う。だけど、その目にはやはり強い意思を感じた。

 使う言葉が同じだったとしても、ときに食い違うやっかいな意思。俺の肩に乗るこいつと、俺はわかり合えるだろうか。

 不思議と、親近感がわいた。言葉なんて必要なかった。言葉が必要であるのと同じくらい、不要であるときもまた、確かにあるのだ。言葉の壁や、生物としての垣根さえ超えてしまう意思。


「いいよ。じゃあ、そこで見ていてくれよな。特等席だぞ」




 ◆




 いま、俺は鴉だ。だけど、外ヶ浜巽だ。鬼沢晃じゃない。

 最初は、鬼沢晃の視点で俺の知らない世界の崩壊を見ていた。

 だけど、彼が撃たれたあたりから、俺の視界は空に上がった。近くを飛んでいた鴉の目で彼らを俯瞰していた。


「いいよ。じゃあ、そこで見ていてくれよな。特等席だぞ」


 もちろんだ。

 俺の知っている世界が、いままさに誕生しようというんだ。目を離すなんてできない。


 そうして、鬼沢晃はこの世界を書き換えた。

 ときには読めない文字を予測し、試し、コピーアンドペーストで乗り切り、後付け設定を繰り返して世界を書き換えた。事切れるその寸前まで、彼は投影キーボードを打ち続けた。

 他の物語世界とやらでも同じことが通用するかはわからない。でも、すくなくともこの物語世界の理を解読してしまった男は、邪魔なものすべてを持ったまま巨大な樹木になった。緑の嵐に守られた禁足地にその身を置き、真実と齟齬をすべて隠蔽した。俺が触れた御神木は、真実を抱いて眠った鬼沢晃の成れの果て――死者の木だったのだ。

 埋葬林、林宮、墓守、馴鹿、国際埋葬林管理研究連盟、硬実、緑の粒子、亜空間と実空間の境であり楔である鳥居。それらはすべて、鬼沢晃が世界を救うために合わせた辻褄だった。


 そして、外ヶ浜銀次郎が、のちに墓守様となったのはなんの因果だろうか。

 鬼沢晃の記憶のなかの外ヶ浜銀次郎。その顔。幼いころに見たサンタクロース。うちの庭で泣いていたサンタクロース。その顔。今わの際、あの人が迎えに来てくれたと言った祖母。俺の知っている祖父の名前は、外ヶ浜銀次郎。それらが、すべて繋がった。


「俺のじいさんだったんだな……」


 俺の声に合わせるかのように鴉が鳴き、スナックを飛び出して大空へと舞い上がった。


「うわっ!」


 俺は、思わず目をつむる。

 ものすごい速さで鴉が飛び始めたのだ。こんな高速で飛ぶだなんて知らなかった。

 いや、どうやら違った。恐る恐る薄目を開けると、ぐるぐると太陽と月が回っていた。視界に入るすべての景色に落ちる影が、伸びては縮みを繰り返す。雲がものすごい速さで形を変える。雨と雪が入れ替わる。桜と新緑と紅葉。そして、雪化粧が競うように繰り返される。四季が早送りされていた。俺の視界も、幾度となく入れ替わる。


「時間が……飛んでる!?」


 何匹目の鴉だろう。いったい、どれくらいの歳月が早送りされたのだろうか。

 気が付くと、御神木の周辺は森になっていた。市民病院があった場所をも飲み込み、巨大な御神木を抱く埋葬林になっていた。岩木の大鳥居もある。そして、天候が内と外できっぱりとわかれていた。俺の知っている埋葬林だった。いまなら、なんとなく理解できる。推測でしかないが、埋葬林の異常気象は、齟齬なのだ。隠蔽された齟齬の一部が、埋葬林の四季や天候の異常なのだ。

 その埋葬林の深奥で見た鴉の像。御神木を守るかのような阿吽の鴉。そのうえに、俺は舞い降りた。

 きょろきょろと、俺はあたりを窺う。きっと、鴉が餌を探しているように見えたことだろう。いや、俺が動かしたのではなく、本当に鴉があたりを見回しただけかも知れない。俺は鴉の視界を間借りしているだけなのだから。

 ここは、埋葬林の深奥。禁足地と言われた場所。俺が目指し、たどり着いた中心部。御神木のすぐそばだ。

 かあ、と鴉はひとつ鳴き、御神木のほうへ飛んでいく。

 混乱する頭を落ち着けて、俺は鴉の視界に集中する。


 やがて、天を衝く威容が迫る。巨大な木造の壁と言ったほうがしっくりくるような、視界を覆ってしまうほどの巨大樹。その根元に、鴉は着地した。いったい、俺はなにを見せられているのだろうか。


 きしっ。

 と、木の軋む音がした。

 鴉がぴょんと跳ね、上を向いた。

 御神木から無数にわかれている枝の一つが、ゆっくりと下降してくるのが見える。きしきしと音を立てて降りてくる枝には、実がなっていた。直感的に、その実は硬実だと思った。死者の木から採取される遺品。生前、大切にしていたもののうち、いずれか。

 どんどんと枝が近づくにつれ、その実の形がはっきりと見えてくる。全身に鳥肌が立った。まさしく俺はいま鳥なわけだが、鴉も羽を広げてぶるぶると体を震わせた。

 そして、目の前まで降りてきた枝から、実が切り離される。すぐに、()()()()()()()()。俺の――鴉の目を見つめ返してきたそれは、二歳か三歳。人間の赤ん坊だった。


「なっ……、なんだお前!」


 背筋が凍りつき、声が漏れた。

 鴉の鳴き声に驚いたのか、赤ん坊は怯えた顔で逃げ始めた。うええ、うええ、と嗚咽を漏らしながら、裸の赤ん坊が御神木を離れ、ゆっくりとどこかへ這って行く。

 やがて、死者の木がアーチ状に重なった部分にさしかかると、ぱっと緑色が輝き、赤ん坊はどこかへ消えた。それを追うように、鴉は大きく空に上がり、埋葬林の外を目指した。もしかしたら、埋葬林で迷うのは人間だけで、動物や虫たちはこの鴉のように行き来していたのかも知れない。それとも、鴉だけは特別扱いなのだろうか。


 次に鴉が降りたのは、埋葬林と遊歩道の境目に立つ鳥居の上だった。


「ちょ、ちょっと赤ちゃんが……!」

「え。ホントだ! なんで赤ちゃん!?」


 遊歩道を散歩していたらしいカップルが、御神木の硬実である赤ん坊を抱きあげる。


「警察。連絡しなきゃ」

「そうだな。きっと親が必死で探してるはず……。でも、裸で迷子っていうのも変じゃないか?」

「そんな……。捨てられたっていうの?」

「うーん。でも、可能性は高いよ。あ、あああ。ごめんごめん。泣かない。泣かないよ。よしよし。捨てられてないよー、大丈夫だよー」


 慣れない手つきで赤子をあやす男性。それを愛おしそうに見ている女性。

 俺の心臓なのか、鴉の心臓なのか、もうわからないが、破裂しそうなほど高鳴っている。赤ん坊を抱く二人を見てから、俺はわけもわからず泣いていた。


「そんな……。そんな……!」


 鴉は全身を震わせて鳴いている。


「おわあ! なんだ、カラスか。びっくりした」

「むしろ、こっちは龍二さんの声にびっくりしたんだけど……。あー、よしよし。ほら、この子もビックリしてるじゃん」

「ごめんよー」

「とにかく、警察に行きましょ」


 とても若かったが、二人とも見間違いようがない。男性は外ヶ浜龍二。俺の父親だった。そして、女性のほうは俺の母親だ。

 おそらく交番へと駆けていったであろう二人の背中を、俺は呆然と見送る。背後で、しゃらんしゃらんと、スレイベルの音が聞こえた。


 父に似ていると言われて育ってきた。でも、それは奇跡的な偶然にすぎなかったのだろうか。思い返してみると、うちには生まれたばかりの俺の写真はなかった。どれだけ昔の写真でも、不魚住と一緒に写っている幼稚園児の俺だけ。これまでは、不思議に思っても、べつに気にも留めなかった。だけど、真実を知ってみれば当たり前のことだった。

 御神木。いわば、鬼沢晃の死者の木。そこから落ちた硬実。それが、俺――外ヶ浜巽だったのだ。


 そして、四季はまた加速した。

 生まれ変わった世界は、四季ノ国屋標準時間にしてたったの数年で、合計して五十年の歳月を早送りされた。それは鬼沢晃の意図ではないはずだ。彼はすでに御神木となっていた。つまり、システム側が実行したのだ。意思のない自動的な世界管理システムとでも言えばいいのだろうか。世界が崩壊しないように辻褄を合わせ続ける自動的な機構。あまり有能とは思えないそのシステムを、鬼沢晃は“神様”と言った。

 呼び名はともかく、そいつが新しい世界を馴染ませるために必要だと判断したのだろう。記憶や記録は改竄され、真実と齟齬は御神木に押し付けて、またたくまに五十年が経過した。そして、まさに世界五分前仮説のような状況になったのだ。

 二森さんがバートランド・ラッセルに言及したのは、おそらくこの真実について、俺に鎌をかけていたということだろう。


「うっぐ……!」


 胃が迫り上がってくるような感覚をおぼえる。どうにか吐き気を堪えた。


 俺はこの世界のあらましを知った。

 そして、俺自身の出生の真実を知った。

 俺は、外ヶ浜巽でいいのだろうか。それとも、鬼沢晃なのだろうか。すくなくとも、鬼沢晃として育った記憶はない。あるのは、世界を救ったときの彼の記憶と知識だけだ。ならば、別人だと言っていいのではないか。

 だが、そもそも、俺は嘘から生まれ落ちたのだ。鴉が見守るなか、死者の木から生まれ落ちた硬実なのだ。人間だと言っていいのだろうか。とつぜん、両親や不魚住、優衣子が遠い存在に思えた。

 ぐらぐらと揺らぐアイデンティティに、俺の胃がついに耐えきれなくなった。勢いよく床に吐瀉する。

 床……。血の混じった吐瀉物が床に広がっていく。


「床!?」


 勢いよく、俺は顔を上げる。いつのまにか、俺の視界は鴉から切り離されていた。

 手を目の前にかざしてみる。自分の意思で動かせる。これは、見慣れた俺の手だ。小さな花が咲いては落ちる俺の手だ。俺の体だ。


「ここは……」


 見回すと、そこは鬼沢晃の記憶で見た場所だった。

 飲み屋跡。営業していない廃墟。“スナック よしえ”だった。

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