嘘つき世界の創世神話 ① /鬼沢晃(外ヶ浜巽)
「なんだこれ……」
「なにが起こってるの……」
俺と常盤坂さんは唖然と立ち尽くした。目の前の光景を受け入れることができない。ただ口を開けて、それを眺めているだけだ。駐車場や病院近辺にいる人たちもみな、同じように異様な光景に言葉を失くし、立ち尽くしていた。
細越という書店員から聞いた市民病院に俺たちは駆けつけた。彼が言っていた通り、俺たちがそこで見たものは木だった。見間違いようもない。変哲もない。ただの木だった。青々とした葉をまとい、立派な幹を、枝を、空に向かって伸ばしている。
だが、その普通の木は、どういうわけか普通ではない生え方をしている。
ガラスや壁、天井を突き破り、木は病院の内側から伸びていた。
瑞々しい葉や、いまもメキメキと伸びている枝に、点滴やそれをぶら下げていたポール、車いすが引っかかっている。
「あぶない!」
常盤坂さんに押され、俺はよろめいた。俺たちのすぐ近くにストレッチャーが降ってきたのだ。びりびりに破けた死体袋も一緒だった。袋のなかは空っぽで、ジッパーが弾け飛んでいる。内側から突き破られたみたいだった。
「常盤坂さん。もしかして、これって細越さんみたいに……」
「そ、そうかも知れません。いずれにしろ、この世界から逃げないといけないんですけど、緊急信号も機能しないみたいなんですよね……」
八九二を操作しながら、常盤坂さんは眉間にしわを寄せた。
本来、緊急信号を受け取った四季ノ国屋超時空支店の観測所は、信号を発信した書店員を強引に支店へと戻す。しかし、物語世界からの強制離脱にはリスクが伴う。肉体に負荷がかかり、筋を痛めたり骨が折れるかも知れない。もし時差があれば意識を失うこともある。そのうえ、支店が存在する物語世界のどこに放り出されるかわからない。正確で安全な行き来を可能にしている錨――店舗がなければ、世界間の移動は推奨されない。
それでも、八九二を装備している俺たちには、移動負荷と言われる最悪の症状は起こらない。言語を喪失したり、急激に老化したり、首だけになって生き続けたり、時間的に不安定な体になったりと、考えるだけで恐ろしいそれらは起こらない。
最悪の場合でも、骨を折って意識を失い、見慣れない場所に投げ出されるだけだ。
だから、強制的に回収してほしい事態にさらされた場合――たとえば、砲煙弾雨の戦場に投げ出された場合だ。そういった場合、俺たち書店員は迷わず緊急信号を発信することを義務付けられていた。
「書店の開門リクエストも応答なし。緊急信号も受け付けない。もしかして、わたしたち見捨てられた? この現象がなんであれ、物語世界崩壊を引き起こす可能性は高いのに……」
「こちらの信号が届いていない可能性だってあります。ハザードが起こる前に、問題に対処して脱出しましょう」
「そ、そうですね。鬼沢くん、意外と頼もしいですね」
常盤坂さんは、そう言って力なく笑った。
「これでも戦場帰りですからね。一目散に逃げ帰っただけですけど」
冗談めかしてみるも、募る焦燥感と危機的状況は改善しない。
支店からの応答はなし。そんな状況で、俺たちにできることはなんだ?
“応答なし”にも種類がある。大きく分けて三種類。
最初の二つは、往路に問題がある場合と、復路に問題がある場合。その両方の経路が問題なく繋がってはじめて、ひとつのセッションが確立される。セッションが確立されなければ、送信、受信、どちらもできない。握手を交わしてからじゃないと、取引はしませんよ、というわけだ。
そして、三つ目はサーバ自体がダウンしている場合。この場合は、経路に問題がなくともセッションは確立しない。握手を交わすべき相手がいなくなってしまったようなものだ。
一つ。送信したリクエストは、往路に問題があって支店に届かず、タイムアウトして破棄された場合。
二つ。支店のサーバに届いたが、支店からの復路に問題があり、タイムアウトした場合。
三つ。経路に問題はないが、支店のサーバがダウンしており、タイムアウトした場合。
三つ目だった場合、きっと支店側で対応を急いでいるだろう。その場合は任せるしかない。こちらにできることはない。
一つ目と二つ目だった場合、問題は経路にある。俺たちでも対処できるかも知れない。
つまり、いまの俺たちにできる最善は、通信経路に問題があると仮定して行動することだと判断できる。
「常盤坂さん、ひとまず俺たちの行動指針を決めましょう」
「そもそも、この現象がすでにハザードである可能性だってあるわけだし……」
俺の声が聞こえているのかいないのか、常盤坂さんは青い顔でネガティブな思考に沈んでいた。
俺も、一瞬ぞっとしてしまった。ゲートとゲートの間。一瞬の狭間で、足元に見える真っ暗な底なしを思い出した。
話にだけは聞いていた物語世界崩壊現象。
本来その物語世界には存在し得ないもの、あり得ない出来事、それらを察知し、物語世界は自浄を行う。存在し得るもの、あり得る出来事にしてしまうのだ。いわば、後付け設定である。
そういう自浄ですら払拭できないほどの異物――違和感が発生してしまった場合、辻褄が合わなくなった物語世界は崩壊する。容赦のないツッコミに沈む拙い物語、というわけだ。
それでいけば、俺たちはその“存在し得ないもの”ではあるのだが、物語世界の根幹を揺るがすような存在ではないはずだ。自浄の必要すらない。物語世界とは関係のない外側の存在、辻褄を合わせる必要のない存在だからだ。
そうなると、やはりハザード現象の原因には、あの“木”が関わっているとみていいだろう。
「大丈夫ですよ、常盤坂さん。諦めないでくださいよ。俺はまだ戦争小説企画、諦めてないですよ」
「あ……、あらら……。そうですね。先輩のわたしが不甲斐ないところをみせちゃ駄目ですよね。……よし!」
ぱちん、と常盤坂さんは自分の頬を叩いた。
「一緒に解決しましょう、鬼沢くん!」
「はい! まずは、きちんと現象の確認を行いましょう」
しかし、そんな俺たちを嘲笑うかのように、八九二が警告音を発した。
「そんな……!」
常盤坂さんは目を丸くして、自分の八九二を見た。
「ハザード警告だ! ちくしょう……」
俺も自分の八九二を見て、思わず嘆いてしまった。
周りを見る。悲鳴が聞こえる。ガラスの割れる音、コンクリートが崩れる音、車のクラクション。それらに混じり、きし、きし、と木の擦れるような音が聞こえる。
「た、たすけて……!!」
よろよろと歩み出てきた入院服の男が目の前で倒れ、木を生やした。
「はは、は……。人が木になるなんて辻褄の合わせようがないよなあ」
乾いた笑いが漏れた。
これがハザードなのか、それとも、これがハザードの原因なのか。
どちらだろうと、俺たちにはどうしようもない事態のように思えた。諦めるなと言った舌の根が乾く間もなく、諦めの言葉を口にしてしまった。それくらい、目の前の状況は異常だった。
「実は人間には木の遺伝子があったとか、そういうことにしませんか? 無理やりすぎますかねえ……」
誰にともなく話し、常盤坂さんはお手上げとばかりに座り込んで頭を抱えた。
俺たちには、頭を抱えるほかできることがないのか。そうして、地面に向かって特大のため息を吐いたとき――、
「おい、あんたら! 昼寝するなら場所を選んだ方がいいぞ!」
――ビジネススーツ姿の見知らぬ男が、呆けていた俺たちに近寄ってきた。
「さあ、二人とも立って。逃げましょう。ここは消防や警察に任せたほうがいい」
その男は、俺と常盤坂さんの腕を持ち上げて急かす。まるで、駄々をこねる子供たちを引きずる父親のようだった。
「え!? ……は、はい。あなたは?」
ひょいっと軽く常盤坂さんを持ち上げた男を見上げ、彼女は男の所在を問うた。
「俺は外ヶ浜銀次郎。たんなる風邪っぴきサラリーマンです。病院から木が生えて、診察どころじゃなくなってしまいましたけどねえ」
俺の腕で、八九二がラブコメの可能性を通知してきた。
状況にそぐわない要らぬ通知が腹立たしくて、俺は物語収集プログラムを停止した。
「自分で立てますから。言われなくても逃げますから」
俺は外ヶ浜さんの腕を拒絶し、土埃を払って立ち上がる。
思わぬ刺々しい声と態度に、自分でも驚いた。
◇
「これが普通のネットワークの話なら、どうにかなりそうなんだけどなあ……」
「鬼沢くん、なにしてるんです?」
「ここに来たとき、物語をデータに例えて話したじゃないですか」
「たしかに。でも、ただの例えですよ?」
「そうなんですけど、なにか取っ掛かりがないと打開策を考えることもできません」
「それもそうだね。詳しく教えてください」
「はい。物語をデータと捉えるなら、それを保管して提供するサーバ、閲覧する端末。そしてそれらを繋ぐネットワークがあると考えたんです。物語のデータは支店にもバックアップ用の一時データとして送信されていますから、支店とここはセッションが確立されているはずなんです。だから、うまくやれば支店と連絡が可能になるかも知れない」
「なるほど。それで、八九二を弄ってるわけですね?」
「そうです。こいつも“端末”に当たると思いまして。経路に問題があるなら、主にファイアウォールやルータに該当するものに異常があるわけで……、ええと。でも、待てよ。コマンドがわからないな。というか、CUIどこだ?」
「わたし、鬼沢くんの言っていることについて行けなくなってきました……。もしかして、そいう仕事してました?」
「はい。前職はエンジニアでした」
「おぉ、それは希望が持てそうですね」
だけど、これはたんなるネットワークやコンピュータの話じゃない。多重世界とかいうSFやらファンタジーみたいな領域の話だ。コマンドを実行しようにも、どこからどこを目標にすればいいかわからない。IPアドレスみたいなものがあるのだろうか。そもそも、技術体系が不明なのだ。俺の知っているコマンドが搭載されているかどうかもわからない。
「君ら、なんで急にパソコンの話してるんだ?」
「え!? あ。ええと、業務の話ですよ」
ハッとした常盤坂さんは、どうにか誤魔化そうとしていた。現地人である外ヶ浜さんには、聞かせられない内容だったかも知れない。
「この状況で仕事の話とは、なかなかの肝の据わり具合だな。恐れ入る」
外ヶ浜さんは、そう言って苦笑いで俺たちを見た。
それはそうだろう。病院から離れたとはいえ、喧騒は遠くに聞こえる。いまいる駐車場にもいつ木が生えるか知れたものではない。俺たちの事情を知らない彼からすれば、苦笑いも浮かべたくなるだろう。かといって、みだりに事情を話すわけにもいかない。それこそ、ハザードを加速させかねない。
「答えられたらで良いんだが……。あんたら、もしかしてあれについてなにか知ってるのか?」
外ヶ浜さんは自販機でコーヒーを買い、俺たちに缶と一緒に問いを投げて寄こした。
「いえ……。わあ、ありがとうございます」
「ど、どうも……」
彼は、きっとそういう性分なんだろう。会ったばかりだというのに、外ヶ浜さんは俺たちに対する敬語をすぐにやめてしまった。しかし、それでも嫌な感じがしないあたり、彼は善良な人間に思える。なにより、病院から逃げ切ったというのに、彼はこの場から立ち去らない。それが彼の善良さを補強している気がした。おそらく俺たちを放っておけないのだろう。乗りかかった舟。安全を確信するまでは見捨てない。そういう男に思えた。
外ヶ浜銀次郎。なんとも古めかしい名前だ。それでいて、現代的なビジネススーツにスマートな体形ときた。足も長い。そして、爽やかで整った顔。
格好良い。イケメン。きっとそう言われて生きてきたに違いない。ちくしょう。すこし憎たらしい。でも、俺はそんな彼を嫌うことができない。自分と比較して僻む以外、彼を嫌う要素が見当たらない。
どうせ日陰のモヤシである俺は、日向の花からコーヒーをおずおずと受け取って、八九二の操作に戻る。
「わたしたちも、なにも知らないですよ。知ってることといえば、世界が終るかも知れないということくらいです……」
受け取った缶コーヒーのプルタブを引き、常盤坂さんはそう言った。
同意するように俺も頷いて見せる。とんでもなく詳細を省いてはいるが、嘘ではないし間違いでもない。まったくその通りだ。
「世界が終るか……。ウイルスとかか? いや、でもなあ。人が木になるウイルスとかあり得るのかねえ」
俺はプルタブを引き、缶コーヒーの栓を開けた。気持ちの良い開放音。その音とともに、なにかが閃きかけた。
「ウイルス……」
「どうかしましたか、鬼沢くん」
俺のつぶやきに反応して、常盤坂さんは希望に満ちた目で見つめてくる。
「もし……。もしも、ですよ? 支店側からも、なにかをどこかへ送信しているとしたら? さっき、支店とここはセッションが確立されていると話しました。それなら、データの受信だけでなく、ネットワーク的には送信も可能なはずなんです」
「受信専用ってことはないの?」
「ファイアウォールのようなもので制御されていれば、一方通行ってことはあり得ます。その場合でも、少なくともネットワーク層以下では繋がっているはずです」
そうなると、そのファイアウォールは、どこのだれの管轄なのかが問題になる。多重世界間通信を制御するファイアウォールなんて、想像もつかない。
しかし、それでもそれは、“普通の通信”の範疇におさまる話だ。俺の知識や考えが及んでいる時点で、想像できている時点で、そうなのだ。最悪なのは、今回の場合、どんな例外もあり得るということだ。この八九二のように、支店にいる愛子のように、俺の知らない未知の技術や魔法が関わっている可能性が高い。そうなると、本当にお手上げだ。
「仮に支店からも送信できるとして、鬼沢くんは四季ノ国屋がウイルスを送信したと考えているわけですね?」
「はい。あくまでも可能性の話ですが。人が木になるような……」
そこで、ハッとして外ヶ浜さんを見る。事ここに至っては無意味かも知れないが、彼には聞かせられないと思ったからだった。
「ふふっ」
俺の視線に気づいて、常盤坂さんも外ヶ浜さんを見る。常盤坂さんが思わず吹き出すのも頷けた。彼は両手で耳を塞いで、恐る恐る俺たちを見ていたのだ。
「え? なに? もう大丈夫か? はは……。俺は聞かないほうがいいような気がしてな。というか、俺はもう帰ったほうがいいな。君らはもう大丈夫そうだしな」
結局、開けていない缶コーヒーをポケットに仕舞い、外ヶ浜さんは立ち上がる。
「邪魔して悪かったな。じゃ、達者でな」
「いやいや、そうはいかないんだな。いちおう君にもいてもらおう。全員、両手を頭の上で組みなさい。ゆっくりね」
突然、するりと緊張感が滑り込んできた。
白髪交じりの中年男が、立ち上がった外ヶ浜さんに拳銃を向けていた。中年男の背後には、精悍な面構えの男が二人。それぞれ俺と常盤坂さんに自動小銃を向けている。
突然の出来事に、俺は阿呆みたいに口を開け放して固まった。ちらりとほかの二人を見ると、俺と同様、開いた口が塞がっていない。
「お前たちは、四季ノ国屋のサークル構成員だな? 我々はCFSだ。世界を救うためにやってきた」




