①冒険者の本
トニカは、うっすらと目を開けた。
灰色の天井が、ぼんやりと見えて。
毛布があついなー、と思いながら、彼女はもぞっと動いた。
「目が覚めたか?」
声が聞こえて、横に目を向ける。
そこに、椅子に座って足を組んだマルテがいた。
マルテとの行為の翌日から。
トニカは、熱を出して動けなくなってしまっていた。
マルテがお医者を呼んで診察してもらったら、ただの風邪らしい。
病み上がりに風呂でのぼせ。
さらには夜を共にした事までマルテに言われてしまい、トニカは恥ずかしかったが。
『初めてかの? そりゃ熱も出るわな。熱冷ましと痛み止めを出すから、あったかくして寝とれ』
ちぢこまる彼女に、老人の医者は呆れた顔を向けただけだった。
二日目から熱はさらに上がり、トニカは苦い薬にうんざりする余裕もないまま。
パン粥を少し口にしては眠ってを繰り返し、ようやく楽になってきたところだった。
マルテがトニカのおでこにある布をどかして、手を置いてからうなずく。
「今朝よりは、下がってるな」
「それ、何……?」
トニカが頭の痛みを感じながら、自分でも情けない声で問いかける。
身を乗り出したマルテのヒザの上に、黄ばんだ紙の束が置いてあるのが見えたからだ。
「これか? 本だ」
「本……」
マルテが、本をバサッと閉じて立ち上がる。
彼は、ごはん作りや買い出しに出る以外では、ずっとトニカのそばにいてくれているようだった。
本をサイドテーブルに丁寧に置くと、トニカの額に乗っていた布を、足元のタライにためた水にひたす。
そして、絞った布をまたトニカのおでこに乗せてくれた。
ひんやりとした感触に頭痛がやわらいで、トニカは軽く息を吐く。
「湯はいるか? 冷ましたものもあるが」
トニカの頭をなで、ストーブの端に置いた鉄製のポットをマルテが指さす。
吹き出し口から、しゅんしゅんと湯気が立っていた。
「冷たいのがいい……」
トニカの要求に、マルテは部屋を出て行った。
でもすぐに戻ってきて、水を陶器のカップに入れたものを渡してくれた。
彼に体を抱き起こされて水を飲み干したトニカは、少しだけ笑みを浮かべる。
「ありがと……」
マルテに会ってから、お礼を言うことが多くなった。
乱暴でキツい言葉を吐き捨てるよりも、申し訳なくはなっても気分が悪くなったりしない。
そんな風にとりとめもないことを考えるトニカをそっと寝かしながら、マルテは首を横に振った。
「……俺のせいだからな」
「違うよー」
後悔するようなマルテに、トニカはクスクスと笑う。
声を出して笑ったせいで頭が痛んだが、もう耐えれないほどでもなかった。
気恥ずかしい。
でも、嫌な気分じゃない。
バツが悪そうなマルテはおかしいが、いつまでもその話題を話すのもどうかと思い、トニカは本に目を向けた。
「マルテは、字が読めるんだね」
「読めないのか?」
「必要なかったから……」
トニカは、字を読める人間は、それなりに裕福な暮らしをしている人だけだと思っていた。
そうマルテに伝えると、彼は少し考えるような仕草をした。
彼はどんなところで生まれたんだろう、とぼんやり思う。
すごく強くて、字も読めて。
言葉はぶっきらぼうで、外見も……かっこいいけど、ちょっと無愛想だ。
でも、よく見てると立ち振る舞いや食事の仕方まですごくきれいだし、気づかいも出来る。
それこそ、裕福な家に生まれたのかもしれないと、思う。
でもそれなら、何で冒険者なんかしてるんだろう。
と、トニカが不思議に思う内に、マルテは考え事を終えたようだった。
「……字、か。冒険者は大体が読める」
「そうなの?」
「ああ、でなければ、契約に難儀するからな。冒険者になったばかりの新米は読めない事も多いが、まともに冒険者として暮らせる奴は、親しくなった他の連中から教わるもんだ」
「へぇ……」
一口に冒険者と言っても、魔物と戦うような仕事をするような者ばかりではない、とマルテは言った。
「旅の間、身を守るために必要な腕はあっても、仕事自体は街中でやる、という奴もいる」
「中で、冒険者の仕事があるの?」
街は、高い柵で覆われていることが多い。
母親に連れられて色んなところへ行ったけど、よっぽど小さい村とかじゃない限りはそうだった。
魔物よけだ。
弱い魔物は柵の間をすり抜けて入り込んでくることもあるけど、冒険者が相手にするような強さじゃない。
ランブル・キティっていう名前の、トニカの両手で抱えられるくらいの小さな魔物は、その代表だった。
見た目は、灰色とか、赤とか、三色の毛とかで可愛らしくて毒もない魔物で。
害はないけど、いっぱい増えるとゴミを荒らされて大変だったりする。
トニカでも、棒切れ一つで追い払えるような魔物だ。
軽く首を傾げたトニカに、マルテは目線を上に向けた。
「お前に分かりやすいのは、憲兵の手が回らない、スラムでの取り締まりとかだ」
「ああ……」
トニカは納得した。
確かに、たまにどう見ても兵士には見えない人たちが、街の公認腕章を付けてうろついているのを見たことがある。
盗賊団の男たちには、絡まれたら金を奪われる事もあるから逃げろ、とだけ言われていた。
あれが、冒険者だったのだ。
「そういう仕事は、報告書も書くことがある。読めるだけでなく、書くほうも必要なんだ。流石に自分の名前以上の書き物ができる奴は少ないが、それが出来ると給金が上がる。書ける奴は腕がある事も多い」
賢いからな、と。
マルテは、いつもに比べて口数が多かった。
トニカが、話題をそらした事に気づいたのか、あるいは自分の仕事に関わる事だからだろうか。
両方かも、と思う。
でもトニカは、マルテの話に興味があった。
彼の性格は分かってきているけど、ふつうに話しているだけじゃ仕事のことまでは分からない。
今までマルテは、どんなことをして、生きてきたんだろう。
「マルテは、字を書けるの?」
「ああ、書ける。最初はそういう仕事で腕を磨いた。今はもっぱら、魔物狩りをしているが」
魔物狩りは、きちんとこなせれば街の取り締まりの日当より実入りが良いのだ、という。
「あぶない仕事だから?」
「それもあるが、魔物自体が金になるんだ。外皮が硬いものや、頑丈な毛を備えたものが多いからな。加工されて、冒険者の装備になる」
マルテや冒険者たちの着ている、頑丈そうな布や鎧。
鉄に見えないものが中にはあったが、それは魔物から作ったものなのだと、トニカは思い出しながら納得した。
「他にも、魔法を使う触媒になるものもいる。そういう類の狩りは常に、冒険者への依頼をまとめたり、金を支払ったりするのを取り仕切っている『冒険者ギルド』と呼ばれるところが買い取りをしてくれる」
「そうなんだ……マルテ、強いもんね。アタシがいなかったら、今もいっぱい、お金、稼げてるのにね」
ごめんね、とトニカが謝ると。
「……気にするな、そんなこと。俺が決めたことだ」
マルテは少し表情を暗くして肩をすくめた。
「それに、俺の剣の腕なんて、大したもんじゃない」
でも、アタシをあいつらから助けてくれたよ、という言葉をトニカは呑み込んだ。
さっきと同じだ。
マルテが嫌がるような話を、続けたくなかった。
「ねぇマルテ。この本は、面白いの?」
トニカには書かれていることは読めないが、さっき見えたところには、絵みたいなものが書いてあった。
本っていうのは、どんなことが書かれているものなんだろう。
「面白い、とは少し違うな。この本は、このあたりにいる魔物の分布を書いたものだ」
「ぶんぷ、って?」
知らない言葉にトニカがきょとんとすると、マルテは分かりやすく言い直してくれた。
「街の外の、水辺にはこういう魔物が多い、とか、森で魔獣と呼ばれる少し強い魔物を見た、とかの情報が書いてある本だ、という意味だ」
「それが分かると、何かあるの?」
「依頼目的の魔物を狩りやすいし、強そうな魔物のいる場所を避けることが出来る。自分の命に興味がない無謀な者や、自分の力を過信しているような奴以外は、大体読んでいるだろうな」
危険を避ける、というのは、旅では最も大事なのだと、マルテはいう。
行商キャラバンの護衛で移動する事も多いのに、あえて危険は選ばないのだ、と。
「そっかぁ……旅って、ただ歩くだけでも楽じゃないもんね」
トニカも、幼い頃、母に連れられて旅をしていたことを、また思い出した。
その頃は冒険者と顔を合わせる事もあった。
彼らはいつも楽しそうに見えていたけど、そんな訳はないのだと知る。
トニカだって、旅の間は不安だった事もあるし、歩くのが辛かった事もあった。
「楽しい事も、辛い事もある。街に住む奴らとそうは変わらないな。お前も、旅をしたことがあるのか?」
「お母さんに捨てられるまではね」
置いていかれる前の事はあまり思い出したくないけど、マルテのことが少し分かったみたいでうれしい、とトニカは複雑な気持ちになる。
街の片隅に、置いていかれた時は。
泣きながら母親を探しても、結局見つからず。
さらうように拾われた先で待っていたのは、地獄の生活だった。
トニカは母親にとっていらない存在だった。
だからマルテに、トニカだから、と言われて、うれしかった。
軽く言ったつもりだったのに、マルテはこめかみを掻いた。
気づかれたのかな、と思う。
マルテの察しがいいのも、いい事ばっかりじゃない。
「……安心して体を休める場所がない、という面を差し引いても、俺には性に合っていた」
遠くを見るような顔をするマルテに、トニカはまた、寂しさを覚えた。
マルテは根無し草だ。
トニカとの契約が終わればいなくなってしまう、という事もあらためて思い出すと、調子が悪くなってきた。
「頭痛い……」
トニカが言うとマルテは立ち上がって、胸元まで下げていた毛布をトニカの首まで覆うように掛けてくれた。
「暑いよ……」
トニカが毛布をどけようと身じろぎするが、マルテは首を横に振ってから彼女の首筋に触れた。
さっきから、手を伸ばされているけど。
マルテに触られるのは、もう、怖くない。
「汗をかき始めているな。暑くても被っておけ。熱が下がり始めているんだろう」
仕方なくトニカがうなずくと、マルテは部屋に干してある洗濯物を見て、それから窓に近づいてカーテンのすきまから外をのぞいた。
どうも、雨が降っているらしい。
カーテンをどかされた窓から漂ってくる空気が、しめっていた。
「起きたら一度寝巻きを変えなきゃならんが。この天気じゃ洗濯屋に頼むしかないな」
「何を?」
そんなものは使ったことのないトニカが聞くと、マルテは説明してくれた。
「洗濯屋は、洗い仕事の他に、乾きの魔術を使って早く洗濯物を乾かしてくれる仕事もしている」
世の中には、いろんな仕事があるなぁ、とトニカは思った。
「別にアタシ、このままでいいよ……」
「湿った寝巻きで、熱がぶり返したらどうする。差配人に手配を頼んでくる」
マルテは、干してある中からトニカの寝巻きを取って、彼女の顔を覗きこんだ。
また少し眠くなってきたトニカは、毛布から少しだけ指を出した。
「すぐ帰って来てね……」
「ああ」
指を少し握ってくれたマルテの言葉を、トニカはぼんやりした意識の中で聞いた。
「元気になったら、お前も読み書きと計算を覚えてみるか?」
「なん、で……?」
「また、説明してやる」
マルテが出て行く音を聞きながら、トニカは眠りに落ちた。
その間際に、彼の言葉を思い返す。
読み書きに、計算。
アタシがそんなものを覚えて、どんな意味があるんだろう、と。