閑話:マルテの想い
トニカと、事を終えた後。
マルテは眠れず、ベッドの上で身を起こした。
トニカは寝息を立てている。
マルテは夜目は利く方だったが、それでも窓を閉め切った真っ暗闇の中で何かが見えるわけもなく、彼女の音を聞いていた。
トニカの姿を手で探るが、指先が体に触れると、ピク、と彼女の体が震えて寝息が止んだ。
手を引くと、しばらくしてまた寝息を立て始める。
彼女を盗賊団から救い出して、まだ一月も経っていない。
傷は癒えても、服の裾や袖から見える痣や痕が、消える訳もない。
ましてトニカの心に染み付いた暴力への恐怖など、抜けている筈もなかった。
それでも、トニカはマルテを受け入れた。
どうしてお前は、と彼はいつも思ってしまう。
彼のそばで眠るトニカは、今まで見たことのない少女だった。
警戒心が強いかと思えば無防備で。
マルテの感情に、いつもさざなみを立てる。
いつしか彼は、トニカと出会った時の事を、思い返していた。
※※※
最初の出会った時は、小汚い子どもがラストに絡まれているのだと思った。
だが、声を聞き、その目を見た瞬間に。
マルテは、射すくめられたように動けなくなった。
ソバカスだらけの顔も。
周囲を威嚇するように細められた三白眼も。
ボサボサの手入れすらされていない髪も。
ガリガリに痩せた体と、それを包むボロの服も。
なにもかも、女性としての魅力なんかを持っていなかった。
その時のトニカは、そんな風に、美人ではなかった。
荒んだ表情をしていて、一見すれば男の子に見間違うくらいだった。
ーーーなのにマルテは、どうしようもなくトニカの目に宿る光に、惹かれた。
何がそんなに彼を惹きつけたのか、など、説明出来る訳もない。
ただトニカと出会い、暴言を吐かれた。
起こった事は、それだけだ。
彼女が本当は怯えていることなど、見ただけで分かった。
首や腕に浮かんだ青アザから、良くない生活を強いられている事も。
だが、そんな状態でもトニカは……『抗う』目をしていた。
負けてたまるか、と。
幼くとも強い色が、その目にはあった。
強気の皮をまとい、必死で自分を守りながら、生きているように見えた。
マルテは最初、かつて逃げた自分と彼女を重ね、自分にないものを持つ彼女に興味を持ったんだ、と思い。
今は、そうじゃない、と否定する。
違うのだ。
そんな、理屈じゃない。
ーーー多分、これは一目惚れだ。
だからマルテは、トニカを追いかけたのだ。
そして虐げられる彼女を見た瞬間に、頭が沸騰した。
「あの男ども……!」
開いた窓から半地下の部屋を見下ろして、マルテはギリ、と歯を噛み締めた。
「中々に胸糞悪い景色だな」
付いてきて、横で同じように見るラストは、相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべている。
その顔すらも、無性に腹が立って、マルテは腰の剣に手をかけた。
頭の中の冷静な部分が、彼にささやく。
10人を超える男たち……おそらくは盗賊団を相手に。
準備も仲間もなしに、立ち回れるのか?
マルテは、群を抜いて強いわけではなかった。
傭兵や冒険者の中では腕が立つ方だが、それでも一人で超人的な活躍が出来るほどに熟達してはいない。
しかし、トニカが暴力を振るわれるのを、ただ見ているのだけなのは耐えられなかった。
「……ラスト」
「どうした?」
抜いた剣を握りしめて。
心の中で、気持ちが二つ湧き上がる。
ーーー願え。お前には彼女を救う手段がある。
ーーー願うな。この悪魔を世に解き放つのか。
そして、勝ったのは。
「お前に、願う。腕輪の悪魔。ーーーお前の力で、あの子に幸福を与えろ!」
自分では勝てない。
だが、何でも願いを叶えるという、この悪魔なら。
マルテが強い目を向けると、ラストは。
コートのポケットに両手を突っ込んだまま、今まで見せたことのないような笑みを見せた。
凶悪に牙を剥き、唇をめくれ上がらせ。
その禍々しく赤い目が、深い血の色に染まる。
「いいぜ、マルテ。その目だ」
色気のある舌先で唇を舐めて、ラストは言う。
「惚れた腫れたは人の常……ようやく口にしてくれた願いを、俺は嬉しく思うぜ」
そうして、彼の腕に手を添えて。
腕輪の悪魔は、歓喜に満ちた声を上げる。
「あの子に声を掛けたのは正解だった!」
「何……?」
言葉を聞きとがめるマルテを、無視して。
「マルテ。お前にーーー魂の奥底まで痺れるような、力を与えてやる」
そうして、赤い目の悪魔、ラストは。
今までを超える剣の腕を、マルテに与えたのだ。
※※※
彼女を救い出し、盗賊団壊滅の換金へと向かう道で。
マルテは、ラストに噛み付いた。
「これでどうやって、あの子が幸せになる!」
与えられたのは、剣の腕だけ。
救い出したはいいが、まるで何の解決にもなっていなかった。
「自分で考えろよ」
美貌の悪魔はマルテの横を歩きながら、からかうように喉を鳴らした。
外は寒い。
夜も更けると、街灯の明かりは周囲の全てを照らしはしない。
家々も祝いを終えてすでに寝静まり、遠い繁華街の微かな喧騒だけが、風に乗ってマルテらの歩く通りへと運ばれてくる。
「俺は願いを叶える手段を与えたのさ、マルテ。叶えば、俺はお前のそばから離れられる。自由だ」
つまりは、ラストがマルテの前から消えた時が、トニカが幸せになった時だと。
ラストはそう言った。
「なぜそんな回りくどいことを……」
「人の人生を操るのは好きじゃない。知ってるだろ? マルテ。俺は人間が好きなんだ」
ラストはマルテを丸め込もうとしている、と思った。
「人が苦労するのを見るのが、自分の解放より大事か」
直接願いを叶えない理由を、マルテはそう解釈したが。
「いいや、俺はモノを考えて生きてる奴が好きなんだ。願いは叶う。必ずな。ただ、ちょっと時間がかかるだけだ」
マルテは、カッとなって剣を引き抜き、横薙ぎに振るった。
しかしその軌跡は、宙を切る。
ラストの姿は、刃に引き裂かれる前に消えていた。
「怖い怖い。気が立ってるな。しばらく消えるよ」
笑いを含む言葉だけを残したラストに一人捨て置かれたマルテは、苛立ち交じりに石畳を蹴りつけてから、剣を収めた。
悪魔なんかに、善意を求めたのが間違いだった。
「俺は、どうすれば……」
人を幸せにする方法など、マルテは知らなかった。
救い出した彼女になぜと問われ、下手くそな言い訳をして治療院へ連れて行ったが。
このままでは、トニカはすぐに元の生活に戻ってしまう。
下手をすれば、今までよりも、さらに悪く。
身売りなどをし始めるかもしれない。
どうすれば彼女が幸せになるのか、途方に暮れながら、とりあえず得た報奨金を全額、彼女に与えた。
なのに、それではダメなのだと。
どうすればいいのか分からない、と、去り際に同じように途方に暮れたトニカを見て悟る。
だから今度は、『一緒に住もう』と提案した。
男を怖がっている少女に、だ。
浅ましい、と我ながら思う。
別に彼女の生活を助けるのは自分でなくても良く、他にも手段はあっただろう。
彼が悪魔憑きだとバレれば、彼女まで危険に晒されるというのに。
だがマルテは、自分の欲望に抗えなかった。
ーーー頼りなくマルテに助けを求めているトニカの、そばに居たいと、思ってしまった。
せめても彼女の拒絶を得ようと。
嫌だと言われれば撤回して、譲歩したふりをして、自分が我慢するための言い訳にしようと。
『一緒に住む間はいう事を聞け』と言えば、まるで救われたような顔をしたトニカに。
マルテは、本当にどうすればいいのか分からなくなった。
※※※
マルテは、ベッドの上で後悔に頭を抱える。
どうすればこの子は幸せになる。
マルテは、あれからずっと考え続けているが、答えは出ない。
出ないままに、初日だというのに。
呆気なく、マルテの我慢は限界を超えた。
自分はこんな意思の弱い人間だったかと、マルテは自分を不甲斐なく思う。
横に眠るトニカの笑顔が、頭の中に浮かぶ。
服を与えれば、まるで花がほころぶような笑みを見せ。
ありがと、と口にするたびに照れくさそうで、嬉しそうで。
退院の時に迎えに行けば、まるで人が変わったかのように美しくなり。
荒い口調を直そうとして、言い直すところまで、可愛くて思わず口元が緩みそうになる。
ーーー出会った時からずっと、惹かれ続けていく想いを、止められない。
トニカから与えられる喜びと、彼女を騙したように手にした後悔は。
マルテの欲望を際限なく刺激してくる。
このまま永遠に自分のものにしたい、と。
でも出来ない、と。
そう苦悩する彼に、トニカはあまりにも無防備で。
まるで餌のように自分を放り出すトニカに、怒りさえ覚えた。
だが、誰でもいいのか、とそう問う彼に、トニカは。
マルテだからだ、と。
そうして、止まれなかった。
トニカを求めてしまった。
「お楽しみで羨ましいね」
不意に暗闇から声が聞こえて、マルテは殺意に歯を軋らせる。
いつもいつも、必要もないのに出てきては彼を逆なでするように言葉を吐く、不愉快な悪魔。
「一体、これでどうやってトニカが幸せになる」
マルテの声に、神出鬼没の悪魔が笑う。
奴はまだ、マルテから離れない。
トニカはまだ、幸せにはなっていない。
「少なくとも、今までよりは遥かに幸せだろう?」
「詭弁だ」
何も解決しちゃいない。
大体、怯えている対象である男に襲われて、それの何が幸せだと言うのか。
「悪魔は嘘はつけない。何度でも言ってやろう。……トニカは幸せになるさ、いずれな」
そして、ラストの声が、遠ざかった。
「その時こそ、俺が解放される時だ。それも、何度でも言ってやる。せいぜい、頑張れよ」
嘲笑うような言葉と共にラストの気配が消え、マルテは太ももの上で拳を握りしめた。