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このキスで、さよならを。  作者: メアリー=ドゥ
第1話『歌姫に聖夜の祝福を』
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⑥暴力は怖いから


 唇に触れた感触を。

 暖かくて、少し湿っていて―――と思ってから、トニカはようやく、自分が何をされているのかに気付いた。


「―――!?」


 そのまま、唇を割ってなにかが口の中に入り込む。


「ふ……ぐ……!?」


 混乱しながら、思わずマルテの首に回した手を緩めたトニカの唇から、感触が離れた。

 離れぎわにちくっとしたのは、マルテの無精ヒゲだ。


 トニカは、マルテにキスをされたのだ。


 一気に、頬が熱くなる。


「な、ななな……」

「分かるか、トニカ」


 離れたマルテの真剣な顔が、トニカの目の前にあった。

 苦しそうな表情が残っていることに、胸の奥でちりっと何かが爆ぜる。


 トニカの頭を支える大きな手の力と。

 のしかかるマルテの重みに。


 彼女は、自分の心が少し冷えて。

 腹が立ちすぎて忘れていた怯えが、浮かび上がるのを感じた。


「あ……」


 マルテは、男だ。


 興奮して『一緒に寝る』なんて口走ったけど。

 トニカは、一緒になんて眠れない自分に気づく。


 体が、かすかに震えだす。


 トニカが自分の言った事を理解したのが、マルテには分かったみたいで。

 彼は、皮肉な笑みを浮かべた。


「そう、男が怖いんだろう? ……何で、一緒に暮らすなんて提案に乗った?」


 静かに言ったマルテは彼女を解放して身を起こすと、あらためてトニカの頭に手を伸ばした。


「ひっ……」


 さっきは自分でつかみに行った腕。

 なのに、相手から伸ばされるだけで。


 恐怖で、口の中が一気に乾く。


 怖い。

 怖い。


 マルテは、伸ばした手をすぐに引っ込めた。

 そして、ヒュ、と詰めていた息を吸い込むトニカに。


「……頭を撫でようとしただけだ。それすら、怖いんだろう?」


 トニカは、バクバクと大きな音を立てる自分の心臓に両手を重ねて、必死に気持ちを落ち着かせる。


 唇に、口の中に。

 まだ、マルテの感触が残ってる。


 その感触がいやだなんて、思わないのにーーーどうして、こんなに怖いの。


 一気に、頭の中で疑問が荒れ狂う。


 マルテは、どうしてちゅーなんか。

 マルテが殴ったりしないって思ってるのに。


 なんでちゅーしたの?

 なんで怖いの?


 アタシに教えるため?

 アタシが、またバカなことを言ったから?


 男が怖い―――その、マルテの言葉に、トニカが答えられずにいると。


「……無防備になるな。お前は、女だ」


 トニカがまばたきも出来ないまま見上げているマルテの顔は、まだ皮肉げで。


 でも瞳の中に、少し悲しそうな光が浮かんでいるのを見た瞬間。

 トニカはさらに、混乱した。


 なんで。

 マルテは悲しんでるの。


「寝ろ」


 寝る。

 マルテを、悲しませたまま、で?


 そう思うと、一方的に言って起き上がったマルテに対する、恐怖よりも。

 このまま行かせちゃいけないって気持ちのほうが、強くなって。


 トニカは。


 動くようになった体で、マルテの腕をーーー自分でもよく分からないままに、掴んでいた。


「ま、待って……」


 トニカは、ガチガチと震えながら。

 なぜかは分からないままに、それでも彼を引き止める。


 このまま、行かせちゃ、ダメ。


 何か。

 何か言わなきゃ。


 でも結局、出てきた言葉は。


「ごめん……」


 だった。


「なんで謝る。お前は、何も悪い事はしていない」


 そう言いながらも、マルテの声は固い。

 トニカは、自分の心を締めつける恐さがゆるむのを感じた。


 マルテ、傷ついてる。

 なんでマルテは、傷ついているの?


「あ、アタシが、何も考えてなかった、せいで……マルテ、こんな事、したんでしょ……?」


 自分のことも、マルテのことも。

 考えていたつもりで、何も考えていなかった。


 マルテは顔を逸らしたまま、トニカを見ない。


 彼が傷ついた理由は分からないけど。

 それが自分のせいだってことは、分かる。


「マルテが、もし……」


 その言葉を。

 口にするのは、怖い。


 怖いけど。

 このままマルテを行かせるのは、やっぱり絶対、ダメだと思った。


「もし、その……そういうこと、したいなら」


 お前は女だ、とマルテは言った。

 そう、トニカは、女。


 今までは、自分がそういう対象として見られることなんか、なかったけど。


 でも、トニカは。

 マルテに嫌われるのはいやだって、思った。


 思ったから、言った。




「そういうことしたいなら……言うこと、きくよ……」




 その、トニカの必死に口にした言葉に、マルテから放たれたのは。



 

 ーーー凶暴な、気配だった。




 顔を逸らしていた彼は。

 急に振り向いて、またトニカを押し倒す。


「!」

「……お前は」


 マルテは、歯を剥いていた。

 抑えきれない怒りと、何か別の感情を獣のように瞳の奥に浮かべながら、トニカに覆いかぶさり、彼女の頭を大きな両手で掴む。


 強く、じゃない。

 でも、力を込めて。


 マルテの指先が、震えてる。

 目が、怒りすぎて、光ってる。


 怖い。

 怖いよぅ。


 トニカは、抵抗出来なかった。


 マルテは、彼女をすくませる、暴力の気配をまとっている。

 じわりと、トニカの目尻に涙が浮かんできた。


 泣いちゃいけない。

 暴力の気配に、心の傷がうずく。


 ーーー泣いたら、余計に面白がって、殴られる……!


 身を竦ませたまま、頭が真っ白になって涙だけを堪えるトニカに、マルテは怒った声で告げた。




「お前は、少しお前に優しくする奴がいたら、誰にでもそんな言葉を吐くのか……!」




 マルテの声は、悲しみに荒れていて。

 トニカは、恐怖とは別の感情が心に浮かび、もっと泣きそうになった。


 また、間違えた?

 なんでマルテは怒ってるの?


 だって、アタシは、マルテに嫌われたら、いやだから。


「ち、がう……」

「何が違うんだ」


 トニカは、少し考える力が戻った頭で、腕を動かした。


 マルテが、トニカの頭を掴んでいるのと同じように。

 また胸元で握りしめていた両手を、そろっと、彼の顔に手を伸ばす。


 ゆっくりと、右手で無精ヒゲの残る固い頬をなぞり。

 硬い髪に覆われた頭を、左手で触る。


 マルテはなすがままになっている。

 怒っているのに、怒りを抑えている。


 押し倒していても、トニカを傷つけないように、気づかってくれる。

 こんな時でも。




 ーーーマルテは、あいつらとは、違う……。




 トニカは、カチカチと食いしばった歯を鳴らしながら。ー

 ドアの近くに置かれたランタンのかすかな明かりだけで照らされた、怒りに燃えていても綺麗な瞳を、見続ける。


 そして、彼の顔を指でなぞる。


 真剣な目元の脇も。

 深い鼻筋も。


 そしてさっき、トニカの唇を奪った、薄いのに暖かい唇も。


 怖い。

 ……でも、怖くない。


「ちがう、の……あ、アタシは、マルテ、だから……」


 トニカは、声が震えるのは抑えられなかったけど。

 せめて泣き声にならないように、ささやいた。


「やさしくして、くれたのが、マルテ、だったから……だから」


 最初会った時は、マルテの事も怖いと思っていた。

 今も、すごく怖い。


 でも、マルテは怖くないんだ、って、そうも思う。


 だってマルテは、トニカにいろんなことをしてくれる。

 それが自分のためじゃなくて、トニカのためにしてくれたことだって、分かるから。


 今怒ってるのだって、トニカを傷つけようとしてるからじゃなくて。

 

 ーーーきっと、アタシのせいで、傷ついたから。


「ま、マルテだから……なんだよ……」


 出会ってから一緒にいた時間は、すごく短いけど。


 助けてって思ったら、助けてくれたマルテ。

 二回も、助けてくれた。


 男たちからも、一人の不安からも。


 だから、トニカは何も出来ないけど。

 マルテのために、出来る事があるなら、してあげたくて。

 

 でも、言葉が出てこない。

 伝えたい事の半分だって、口から出てこない。


「わかって、マルテ……」


 子どものように、わがままなだけの言葉だと、自分でも思う。

 それでも、分かって欲しかった。


 トニカは賢くないから。

 自分の気持ちを、どう伝えたらいいのか、分からないから。


 伝わってほしいと思って、マルテから目を逸らさないように、見続けると。

 目のはしから、涙がこぼれて、頬を流れる感覚がした。


 泣いちゃった。


 そう思うトニカに対して、やがて、マルテが口を開く。


「俺は、善人じゃない」

「……?」


 マルテがボソッと低い声で言うのに、背筋がゾクリと震える。

 体がさらにこわばって、また動けなくなる。


 その声に、トニカは自分が何を感じているのか、よく分からなかった。

 でも、怖いだけじゃない。


 男の人は、怖い。

 でもマルテは、怖くない。


 すぐそばでささやかれた声に感じたのは、怖さじゃない。


 伝わったのかな。

 分かってくれたのかな。


 トニカには、マルテの言葉を待つことしか、出来なかった。


 彼は、すごく苦しそうな顔になっていた。

 もう怒ってない。悲しんでもいない。


 でも、辛そうで。

 トニカは、喋れないけど。


 マルテ、と声もなく口を動かす。


 彼の名前を、呼ぶことしか出来ないけど。

 マルテが、辛そうな顔をしてる理由も、分からないけど。



 トニカは、マルテだけは……怖いけど、怖くないから。




「お前が怖がっても、これ以上誘うなら止まらない」


 マルテの言葉の意味が、分からない。


 誘う?

 誘うって、何……。


 トニカは、マルテの口元に目を向ける。

 その口元が、また、動く。




「トニカ。……俺がお前を助けたのも、お前だから、だ」




 その言葉に。

 彼女は、嬉しさを覚えた。


 ……トニカだから。

 他の誰かじゃなくて、トニカだから……!


 トニカは、どうにかこの気持ちをマルテに伝えようと、彼に対して笑ってみせる。


 怖い気持ちは、ずっとある。

 今も。


 でも。

 マルテに対しては、怖い気持ちよりも、嬉しい気持ちの方が、強くなって。


 笑みとも呼べない笑みを浮かべながら、トニカはどうにかうなずいた。


「うん……」

「トニカ」


 ドクン。

 心臓がひときわ大きく脈打つ。


 マルテの声が、トニカを呼ぶ。


 呼んだまま、トニカの顔から手をはなして、覆いかぶさって、顔が見えなくなる。

 耳元で、息遣いが聞こえる。


 頬に、彼の唇が触れる。


「マ、ルテ……」


 呼びかけると、ゆっくり、頭を撫でられる。

 

 怖く、ない。

 優しい。


 トニカは、マルテが顔を伏せて行き場がなくなった自分の手を、そっとマルテの首に回した。

 彼の片手がトニカの薄い胸に少し乱暴に触れて、ビクリ、と体が勝手に跳ねる。


 怖い。

 でも、いやじゃ、ない。


 だから、マルテ。

 

「……マルテ。怖い。……怖いけど、いやじゃ、ない、から……」


 一言ごとに大きく息を吸いながら、トニカが口にしたのは。

 拒絶……では、なく。


「いつもみたいに、優しく、して、欲しい……よぅ」


 暴力の気配は、怖いから。

 まだ、夢でうなされるくらい、怖いから。


 少しくらい乱暴でも、我慢するけど。


 せめて。

 暴力の気配が、しないやり方で、して欲しかった。


 ーーーマルテの優しさを、感じたかった。


「……」


 マルテは答えなかったけど、胸をまさぐる手にこもる力が、少し緩む。


「マルテ……」


 ありがと、と目を閉じたトニカが彼の耳にささやくと。

 そのまま、唇を塞がれた。

 

同日18時に、閑話を投稿します。

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