⑨奇跡の歌姫
ーーー季節が一巡りし、魔王を倒してから二度目の春先。
日も暮れかけたアーテアの街の、人が行き交う石畳通りを、一際目を引く男女が歩いていた。
一人は、無精髭を生やした精悍な顔立ちの青年。
もう一人は、この街で顔を知らない者はいない、奇跡の歌姫。
彼女は通りを歩くだけで声をかけられ。
その一人一人に、柔らかく笑いながら答える。
歌姫の両手には抱えきれないくらいの花束があり。
その数が話しかけてくる人々によって少し増えると、青年はそっと、持ちきれない分を彼女から受け取った。
「全部、自分で持って帰りたかったのに」
不満そうに頬をふくらませる歌姫に。
「背中にくくりつけるか?」
どこかからかうような調子で、青年が言う。
「……服がしわになるからいい」
二人は街の人々が暖かく見守る中で、自分たちの住まいである集合住宅の入り口へと消えた。
※※※
「そういえば、今日はラストがいたよ」
トニカが歌う時に、たまに姿を見せる彼のことを伝える。
彼女自身には会いに来ないけど、マルテのところにはたまに行ってるみたいで。
疲れた顔をして帰って来るときは、だいたいラストに精気を強奪されているらしい。
『マルテの精気が一番合う』って。
「あのクソ悪魔め……」
マルテが眉をしかめた。
「本当に腹立たしい」
「ちゃっかりしてるよねー」
そうやって、ラストの話が出るたびに不満を口にするマルテに。
トニカは、飽きもせずに笑う。
彼女は無事に最後の公演を終えて、マルテとともに帰宅したところだった。
家の中には荷造りされた大きな皮袋が二つあり、それ以外のものが何もない。
がらんとした部屋の中に入ると、マルテが、トニカの髪に触れた。
「切ることはなかっただろうに」
頭を撫でる手が少し寂しそうなマルテに、トニカは上目遣いに問いかける。
「短いのは嫌い?」
「いいや。似合っている」
「ありがと」
トニカはマルテの言葉に、笑みを大きくした。
※※※
あの後、開拓者の街の病室で。
静かに、ラストがトニカの記憶を奪うのを待っていると。
彼が不意にクック、と喉を鳴らした。
「さて、では楽しんだことだし。本当の種明かしをしよう」
「なんだと?」
そして彼が続けた言葉に、全員が唖然とする。
「実は、俺は願いを一つしか叶えた覚えがなくてね」
いたずらに成功したような顔のラストは、ニヤニヤといつもの笑みを浮かべていた。
「困ったことに、記憶を奪ってやりたくても……叶えてもいない願いの代償を、払わせる方法がわからないんだ」
首をかしげるラストに、マルテが顔をゆがめてうめいた。
「どういう、意味だ……」
「俺が叶えた、自身の封印解放のための願いは〝トニカを幸せにする手段を〟だったかな?」
手を合わせて、何かを思い出すように、うんうん、とラストがうなずく。
「俺はその願いを、君が勇者として魔王を倒すことで為される、と解釈した。だからとりあえず、君の中にかかっていた勇者としての力を押さえ込んでいた『鍵』を外した」
君がより頑健に、より俊敏に、動けるようになるためにね、と。
両手の指で輪を作って知恵の輪のように重ねたラストが腕を引いて、パッと手を顔の両脇に広げる。
「そうして解放された俺は、次に自分の目的のために、君の『心の鍵』を解かなければならなかった。これは強固だった。勇者に必要な真の勇気……〝愛すべき者を自らの手で守りたい〟という気持ちを、君に持ってもらうのは、骨が折れた」
幼い頃から磨いた剣の技術。
封印を解かれた肉体の強さ。
そして真の勇気を秘めた心、と。
ラストは一本ずつ指を立てる。
「これらを兼ね備えた君は、真なる勇者として覚醒した。そして、その力をもって魔王を倒した。おめでとうマルテ。かつて俺が、興国の勇者と交わした約束……『国に脅威が迫った時に、新たな勇者を助けろ』という約束は果たされた。俺も、真の自由を得たんだ」
ラストの手で、ちゃらりと音が鳴り。
編み輪と共にマルテの腕にはまっていた古ぼけた銀の腕輪が、いつの間にかラストの手の中に収まっていた。
「俺がやったことは、それだけさ。魂を代償にした奇跡の歌声だって? なんのことか、さっぱり分からないな!」
快活に笑うラストに。
ギルド長が笑いをこらえるような顔をして。
ロザリンダが安堵したように、彼の横の壁にもたれた。
「茶番か……」
「趣味が悪いですね。流石は悪魔です」
トニカは、ようやく、ラストが何を言っているのかを理解して。
―――じゃあ、マルテは死なないの?
って、信じられないまま、ぼんやりと考える。
私の歌も。
記憶も。
全部、元のまま?
と、思ったところで。
トニカは、マルテの体がぶるぶると震えていることに気づいた。
「……マルテ?」
額に青筋を立てて、怒った顔をしているマルテが、笑い転げるラストをにらみつける。
「なら、俺の精気を吸っていたのはなんだったんだ!」
「腕輪をはめた時から、君の膨大な精気をちょっとずつ分けて貰っていたのを、ただ多めに吸ったりしてただけだ」
あっさりと言ったラストは、手で卑猥な形を作る。
なんだか、今までに比べてすごく楽しそうだ。
「俺は悪魔だからね。精気を吸わないと死んでしまう。これからは、トニカの体が辛いことになるかもしれない……マルテは本来、絶倫だよ。トニカ」
トニカは、思わず顔を赤らめる。
今までも、マルテは興奮してる時は激しかったのに、これからはもっと……?
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
危うくまた、話を逸らされるところだった。
「なら、アタシの歌声は」
「当然、君本来のものだ。君と出会った日に、君が聖女だと思った。掃除をしながらの歌声を聴いて、確信した」
そう。
すっかり遠い記憶だったけど、そういえば最初にトニカの歌声を聞いたのは、ラストだった。
マルテが、ついに吼える。
「ダマしやがったな!」
ラストは、うるさそうに耳に小指を突っ込んで、顔をそらす。
眉をしかめているけど、口のはしに笑みを残しながら、赤い目だけをマルテに向けた。
「人聞きが悪いね。俺はウソを言ったわけじゃない。契約を結ぼうとした時に、こう言っただけだろう? 〝トニカが歌を歌えば、多くの人が彼女を愛するだろう〟とね。君がそれを、俺がトニカに歌声を与えるんだと勝手に勘違いしたのさ」
顔を真っ赤にしたマルテが、歯をきしらせてからまた怒鳴った。
「この、クソ悪魔が!」
「結局最後まで罵倒か。やれやれだ。俺のおかげで君はトニカを得たというのに」
呆れ顔で、これ見よがしにため息を吐いたラストは、クルリと背を向けてドアに向かって歩いて行った。
「まぁ、俺も楽しんだからよしとしよう。人が愛し合うのを見るのは、いつでも楽しいものだ」
ドアノブに手をかけたラストが、トニカとマルテに向かって微笑む。
「さようなら、勇者の務めを果たした者、マルテ・ベルトラーニ。そして、聖なる歌姫の役目を終えた奇跡の少女、トニカ・ルッソ。いつまでもお幸せに」
そう言って、あっさり去ろうとするラストに。
「ねぇ、ラスト」
トニカは、彼が歌曲の作曲者と知ってから、疑問に思っていたことを投げかけた。
「ラストは―――女王様のことを、愛していたの?」
興国の勇者。
この国の、初代の王となった勇者は、女性だったと。
トニカは二度目の公演で歌う時に知った。
そして歌曲の流れから、そこに込められた想いを。
トニカは感じ取っていた。
あの歌は。
そして『興国の勇者と大悪魔の舞踏』で、ラストが歌い手に贈った言葉は。
ラスト自身の、女王に対する気持ちだったんじゃないかって、トニカは思った。
優しくいとおしく、かつ情熱的に。
ラストも、女王を愛したんじゃないかって。
あの歌から、トニカはそう思った。
敵であるはずの、勇者を。
倒される運命にあった大悪魔が。
ラストはドアを開け放つと、こちらを振り向かないままに、言った。
「大悪魔イレイザーは、かつて勇者を返り討ちにした」
彼が話し始めたのは、大昔の話。
「人をやめ、魔物を縛り、殺されるつもりで勇者と対峙し……そして気を変えた」
ラスト自身の。
伝承には記されない話。
「かつて勇者であり、魔王の死に際の呪いを受けて大悪魔になった男は。聖女でありながら、自分を勇者だと偽って大悪魔の前に立った元は恋人だった女性に、ほだされた」
彼女は大悪魔と戦う前に、条件を出したという。
「もし彼女が勝てば、彼女は自決すると。そして大悪魔が勝てば、彼女を大悪魔の花嫁に迎えて欲しい……とな」
かつての聖女が、愛した勇者は。
悪魔になっても、愛しい相手だったのだ。
「そして彼女は女王となり、死に際に願いを託して俺を封印した。起こったことは、たったそれだけのことだ」
彼の語る言葉は短くて。
本当はもっと、色々なことがあったんだと思う。
でも、ラストはそれ以上何も言わずに、本当に姿を消した。
※※※
公演を終えた後に。
トニカが、劇場専属の服飾師に頼んで、髪を切り落としたのは。
旅には邪魔だから、という、ただそれだけの理由だった。
マルテと出会った頃みたいに、短くしてもらったから、頭がすごく軽い。
彼は、トニカの首筋を撫でて顔を寄せる。
「うなじがよく見える。噛みつきたい」
「湯屋に行ってからにしてね。しばらくお風呂に入れないんだし」
「我慢できない」
「ダメだってば」
顔を寄せるマルテの無精髭にくすぐったさを覚えたトニカは、身じろぎしながら言った。
トニカはマルテと、ケンカするようになった。
彼は、少しだけ意地悪になって、少しだけ甘えん坊になって。
そして今まで以上に、トニカに甘くなった。
明日、トニカはマルテとともに旅立つ。
開拓者の街の、その先にできた村へ。
トニカは今日をもって劇場をやめた。
ギルドの受付にも、戻らない。
美しい歌姫は、もういない。
ここにいるのは。
ただ、マルテが好きなだけのトニカ。
マルテと二人で、トニカの顔を知られていない街へ行く。
それが、トニカの意思だった。
「……この街で、歌を続けてもいいんだぞ」
「未練なんかないわ。私は、マルテと大切な人のために歌えれば、それでいいの」
最初から、ずっとそうだった。
後ろから抱きしめてくれるマルテの胸に頭をあずけ、トニカは彼の顔を見上げる。
「ねぇマルテ」
「ん?」
「……私たち、馬鹿だったわね」
気持ちがすれ違っていた日々を思い返すトニカに、マルテがうなずく。
「そうだな」
好きなのに、黙って別れようとしたマルテ。
好きなのに、甘えてばかりで何もしなかったトニカ。
「ね、マルテ。……ちゅーしよ?」
トニカは、マルテから体を離して振り向き。
あらためて、かがんだ彼の首に抱きついて、まっすぐな目の彼を見る。
大好きな人が、小さく笑う。
たったそれだけで、トニカは幸せな気持ちになる。
彼女もマルテに微笑み返して、顔を寄せた。
「今までの、馬鹿な私たちに」
そして、自分自身の幼さに。
「このキスで、さよならを―――……」
END.
明日おまけ投稿して終わりです。