⑧大悪魔イレイザー
眠っていたマルテが、いつのまにか目覚めていた。
ゆっくりと、うめきながら体を起こすマルテを、トニカは近寄って支える。
「大丈夫?」
「ああ」
起き上がったマルテは、ニヤニヤ笑いを浮かべるラストをまっすぐに見た。
「お前のことだ。どうせ、俺が生きるための手段はあるんだろう?」
「おや、あれほど死に急いでいた君が、今更生きたいのかい?」
はぐらかすようなラストに、マルテはあっさりうなずいた。
「ああ、生きたいな」
その素直さに、ラストがヒュウ、と口笛を吹いたけど、マルテは静かな顔のままだった。
ギルド長たちにうなずきかける彼に、ラストはさらに言いつのる。
「身勝手過ぎるとは、思わないか?」
「そうだな。俺の愚かさで多くの人に迷惑をかけた。どう言われようと、そもそもが身勝手だ。今更だろう」
ギルド長が、そんなマルテをばっさりと切り捨てる。
「居直るな、このバカが」
マルテは苦笑した。
そのまま、彼を支えるトニカの腰に手を回す。
どうしたんだろう、と思って。
その手が少しだけ震えているのを、トニカは感じた。
でも、マルテは悪魔のささやきから、諦めて逃げようとはしていなかった。
「格好を気にするつもりは、もうない。トニカが求めてくれた。間違った俺を許し、共にあって欲しいと。なら俺は、それに応えなければならない。……ラスト。教えてくれ」
「本当に素直になったね。憑き物が落ちたようだ。憑いていた悪魔が、字面通りに悪かったとしか思えない」
「いいや。俺の心に憑いていたのは俺自身の愚かしさだ。お前のせいではない」
マルテとラストは。
トニカよりも長い時間を共に過ごしている。
2人のやり取りには、トニカの分からない何がか、秘められているように見えた。
「しかしマルテ。本当に、君が生きるための手段があると思うのか?」
「思うさ。お前は『必要がなければ、トニカの前には出てこない』んだろう?」
「おや、ようやく、正しい方向に頭を使うようになったな。感慨深いよ」
ラストは笑ったまま両手を上げて降参を示し。
マルテはイヤなことを思い出したように、顔をしかめた。
「最後は荒療治だったがな。……お前は、ずっと、俺を教え導いてくれた。最初に出会った時からずっとな。お前の忠告は、いつだって正しかった」
そう言って、マルテは頭を下げる。
「……感謝している」
ラストは、トニカが初めて見る顔をした。
頭を下げているマルテには見えない、わずかな時間に浮かべた表情は。
懐かしむような、表情だった。
「男の感謝なんか、いらないな。だが、君が自らの愚かさに気づいたご褒美として、特別に教えてあげよう」
全員が見守る中で、ラストは提示する。
「まずは、君とトニカが同時に俺に願えば、俺の気も変わるかもしれん。……マルテ。『彼女と共に過ごしたい、だから助けてくれ』と、命乞いをするんだ。そしてトニカ。『歌声はいらないから、彼の命を返してほしい』と。だが、君たちはすでに歌を使ってしまっている」
ラストは片手をコートのポケットにつっこんで、もう片方の手を横に振った。
「さっきも言ったが、都合のいい時だけ使って、いらなくなったから返す、は通らない。だから条件に加えて、さらに代償をもらおう」
「何を欲する」
「渡せるものなら、なんでも」
即座に答えたトニカとマルテに、悪魔は慈悲深い顔でささやいた。
「トニカ。君の記憶を。ーーー君のマルテとの思い出を、寄越すんだ」
その言葉を聞いて。
トニカは意味がとっさに理解出来なかった。
マルテは、厳しい表情を浮かべて。
ギルド長とロザリンダが、それぞれの獲物に手をかける。
「ああ、俺を殺そうと考えるのはやめることだ。君たちや、仮にマルテが万全でも、俺には勝てない」
その言葉は本当なのだろう。
ギルド長もロザリンダも、それ以上動けないでいる。
ラストから放たれる気配が変わり、部屋の空気が刺すように鋭くなっていた。
「いいんです、ロザリンダさん。ギルド長。……受け入れるわ、ラスト」
トニカは、ちゃんと選んだ。
マルテとの思い出を失う。
今まで共に過ごした日々を。
それは、心が凍りつくほど怖いこと、だったけど。
それでも。
「トニカ嬢?」
「ラストは、ずっと私たちを助けてくれた。これはきっと、それでも間違ってしまった私たちへの、罰だから」
マルテが死んでしまうくらいなら、受け入れようと思った。
これはトニカだけの罰じゃない。
全てを忘れてしまったトニカを見続けなければいけない、マルテへの罰でもある。
「……トニカ」
マルテも、それを理解してるだろうって、トニカは思った。
だって、目を見交わしたマルテが『自分が代わりに』って言わないのは。
忘れるほうも、忘れてないほうも、同じくらい辛いって気づいているから。
また、何も知らないトニカに戻るのは。
すごく怖い。
でも、彼女は信じられる。
もしマルテが全部忘れてしまったら、トニカは彼を、守ってあげられないかもしれないけど。
彼は、何も知らないトニカが幸せになれる方法を、もう知ってるから。
だから、トニカはマルテに対して微笑む。
「思い出が消えても、私はトニカよ、マルテ。きっとまた、あなたを愛すわ」
マルテは。
大きく息を吐いた。
「受け入れたくは、ない……だがラスト。それ以外の条件を提示することは、ないんだろう?」
「そう。これ以上は理由がない。だって俺は、勇者である君の魂を手に入れる機会をみすみす失うのだから」
そんなマルテに、トニカはささやく。
「思い出は、これからまた作ろう? 私を愛してくれるなら……私が全て忘れてしまっても、あなたをもう一度愛させて。それくらい、マルテならできるでしょう?」
「……わかった」
トニカは、マルテのそばを離れてラストの前に立った。
優しく、厳しい悪魔。
でも、彼は甘い。
「最後にもう一度だけ、歌わせて。ラスト」
「いいだろう。それくらいは待とう」
トニカに部屋の真ん中をゆずったラストの代わりに、トニカはそこに立つ。
歌は、たしかにトニカに多くのものを与えてくれたけど。
これでお別れだ。
それでもやっぱり、私が自分の気持ちを一番伝えられるのは、歌だと思うから。
全霊を込めて歌うのは。
マルテから習った歌曲【遥かに隔てて】。
でも、冒頭の悲しい別れの歌じゃなくて。
間にある、幸せな、ひと時を過ごす2人の歌を。
ーーー『幸せは、春風とともに』。
青い輝きに、自分の想いを乗せて歌い上げた時。
ギルド長は顔を伏せて。
ロザリンダは涙を流して。
マルテは目を離さずに、トニカを見つめ続けてくれた。
一度しか、劇場で歌うトニカを見てくれなかったけど。
彼に、歌に乗せた私の気持ちは、きっと届いた。
「……お金だけあったって、歌を歌ったって。マルテがいなくちゃ意味がないの」
そう告げるトニカに。
「俺は。お前には、俺でなくてもいいと思っていた」
マルテは、正直な気持ちを言ってくれた。
「そうじゃないって、今のマルテには、わかるでしょう?」
「ああ。分かる。……もう、自分にも、お前にも、嘘はつかない」
「それで十分」
マルテは、最初に抱かれた夜にトニカに言った。
『少し優しくされたら、誰にでも抱かれるのか』って。
違うって、今ならはっきり言える。
私はきっと、最初から分かっていた。
私は。
アタシは。
「好きよ、マルテ。この世で一番、あなたが好きなの。最初に抱かれようと思った日から、きっとアタシの心が、あなたが『アタシの幸せ』なんだって、知ってたのよ」
きっと、あの夜から。
アタシは、マルテと一緒にいたい、って、思ってた。
マルテに近づいて、その大きな手を取って、自分の頬に当てる。
そして、マルテの目をのぞきこむ。
トニカをちゃんと見てくれる、貴石のような深い色合いの瞳を。
「他の誰も、マルテの代わりにはなれないの。そしてアタシは、それ以外、何もいらないわ」
「……分かった」
マルテはラストに目を向けて。
トニカの手を取って、包むように指を曲げた。
「ラスト……慈悲を請う。俺に、トニカをふたたび幸せにするだけの時間をくれ」
「いいだろう。君がトニカを、愛しているのならば」
ラストが即座に応え、マルテは誓うように伝える。
神ではなく、悪魔に向かって。
「この世の誰よりも、愛している。出会った時からずっと」
そして、トニカも。
「アタシも。忘れてしまっても、ずっと、マルテが大好き」
ラストは大きくうなずいた。
「トニカ。その言葉は、君の魂に刻んでおくことだ。俺は、記憶は奪えても、君の魂までは奪えないから」
そうして悪魔は。
二人の願いを、叶えた。