③二つの贈り物
「誰?」
翌日現れたマルテを見て、トニカは目を丸くした。
「……マルテだ」
かすかに眉根を寄せて答えるマルテに、トニカは首を横に振って毛布で口もとを隠しながら、にらみつける。
「嘘だろ。騙されないぞ」
「……あのな」
本当は、トニカにも分かっていた。
声音も目の色も形も、抑揚のない口調も、何もかも昨日と変わっていない。
マルテはヒゲを剃り、髪を切り、服装が変わっていた。
トニカの感じた印象通りに、マルテは若かった。
といっても、20代後半だろう。
トニカは自分の正確な年齢は知らないが、マルテとは10かそこらは離れているに違いない。
ヒゲは剃られてはいるものの、無精髭がうっすらと残っている。
髪も相変わらず乱雑ではあるものの、耳が見えるくらいに切られていた。
床屋で整えたのではなく、自分で切ったのかもしれない。
でも、引き締まった口元と。
スッと通った鼻筋の精悍な面差し。
それらは、無精髭と相まって野生的な色気を感じさせるもので。
目の色はより深みが際立ち、髭面の時には目立たなかったが、意志の強そうな美形だった。
街中の平民のような格好は、浮浪者に見える格好をしていた時よりも体格の良さを強調していて。
その格好であれば、彼がラストと呼んだあの時の男と並んでも、違和感はなさそうだった。
「似合ってるな。なんかすごいなー……」
人間は、服装や髪型を整えるだけでここまで変わるものなのか。
彼の変身にトニカが毛布から顔を出しながら感心すると、マルテは目を逸らした。
さらに居心地が悪そうにしかめられた眉に、もしかして怒らせただろうか、と彼女はちょっと後悔する。
マルテは、彼の殺した男達……トニカを虐げていた男達よりも優しい人なんだろうと思う。
でも、姿を整えても、やっぱり怖さはあった。
男の人は、怖い。
たくましい腕から漂う暴力の匂いは、暴力で支配されていたトニカの心を簡単に縮こまらせる。
「……あの、ごめん」
謝ると、マルテは軽く目を開いてトニカを見た。
「何がだ?」
「その……軽口なんか叩いて」
マルテは、何に驚いたのだろうか。
トニカには分からなかったが、彼は昨日のように椅子に腰掛けて。
彼女の頬と腕に、目を向けた。
「傷は痛むか? 寒さは?」
気づかうようなマルテの言葉に、トニカは首を横に振った。
昨日は簡単に湿布を貼られただけだったが、どうやら右手にはヒビが入っているらしく、今日は板で固定されていたのだ。
病室の窓は換気のために開け放たれており。
柔らかいお日様の光以外にも、冷たい空気が風に乗って流れてくるので、小さな暖炉で火を焚いていた。
マルテが来るまでの間、トニカは。
暖炉で揺れる炎をぼんやりと見ながら、何もしていなかった。
殴られた後の重だるさが取れず、ベッドから動くのが億劫だったのだ。
痛みはもちろんあるが、慣れた痛み。
この疼くようなだるさと痛みを感じない日の方が少なく、今までは怪我をしていてもゆっくりさせてもらえる日なんかなかった。
それを思えば大した事じゃない、とトニカは思っていた。
どうやらマルテはトニカの軽口に怒ってはいないみたいなので、ほっとしながら問いかける。
「その格好、どうしたんだ?」
「あんな汚いままじゃ、契約は取れないだろう」
「契約?」
きょとんとするトニカに、マルテは軽く息を吐いて答えた。
「住む部屋の契約だ。街の集合住宅だが、それなりに治安の良い街中の方が良いだろうと思った。アーテアは辺境だからな。金さえ払えば住む場所くらいはどうにでもなる」
「あ……」
一緒に住むという話だったのだから、当然だった。
しかし昨日の今日で住む場所を確保したというマルテを、トニカはまた、すごい、と思った。
「しばらくお前は入院だと、医者が言っていただろう。家具をその間に揃えておく。これに着替えろ」
マルテの渡してくれた袋の中には、服が入っていた。
広げてみると古着のようだが、今までの継ぎを当てた男物のボロではなく、女性用の衣服だ。
「……これ」
「ラストとやり取りしていた時に、その格好を指摘されるのを嫌がっていたからな。金がある間に買っておいた。丈は自分で合わせろ」
「……うん」
マルテの、無表情ではあるが、トニカの事を考えた言葉。
その言葉に何故か泣きそうな気分になって、トニカは自分で驚いた。
おかしい。何でだろう。
理由が分からなくて、トニカは渡された服を撫でながら、何度もまばたきをした。
ワタの入った冬用の服は今までのものより布地も遥かに厚手で……暖かそうだった。
マルテの気持ちみたいに。
「……なるべく来る。必要なものがあれば言え」
「分かった」
トニカの気分が落ち着くのを待ってくれていたらしいマルテは、しばらくして出て行った。
改めて服を見ると、スカートの布地が青く染められていて、綺麗だ。
トニカは気付いていなかった。
思わず口元が緩んでしまうような、久しく感じていなかったその気持ちの名前が、嬉しい、という気持ちである事に。
※※※
「よう、気の強いお嬢さん」
マルテがいなくなると、今度はラストが現れた。
こちらは以前見かけた時と全く変わらない。
口元の小馬鹿にしたようなニヤけ具合も相変わらずだった。
しかしその皮肉そうな、何かを面白がるような笑みは、憎らしいくらい美貌によく似合っていた。
「……何しに来たんだ?」
トニカは、まさかまたラストに会うとは思っていなかった。
しかし彼を、マルテが相方だと言っていた事を思い出して。
マルテが街に留まるのなら彼も一緒にいて当然だと、今更ながらに気づく。
ラストにいい感情を覚えていないトニカは、マルテに対するよりも数段冷えた目で彼を見た。
でも、ラストはちっとも気にしない。
「本当に口が悪いな。イイもん持ってきてやったんだ。どーせマルテじゃ気が回らないだろうからな」
言いながら、ラストは遠慮なしに近づいてきて、サイドテーブルに持っていた紙袋を置いた。
紙袋なんて。
そんな高級品が、中に入っているのだろうか。
「いらない」
トニカは即答した。
大体、ラストから贈り物を貰う理由がない。
マルテと同じような事を口にして、同じような行動をしているのに、ラストの言葉や態度は何故かいちいち気に入らなかった。
怖さは何故かまるでないのに、このやり取りだけで苛立ちを感じるのだ。
「そう言うなよ、カンの鋭いお嬢さん」
何故か楽しそうに言うラストに、トニカは首をかしげる。
「カンの鋭い?」
「そうさ。俺の色香に惑わない奴は貴重だぜ。中々見る目がある」
確かに、ラストは女を蕩かせそうな美貌の持ち主だ。
マルテの素顔も美形だと思ったが、種類が違う。
だが、トニカは全くなびかなかった。
ムカつく男だと、出会った時からそうとしか感じない。
椅子を引き、完璧な動作で腰掛けて足を組んだラストは、腹の上で指を絡めた。
「お前、マルテの相方なんだろ? まさか一緒に住むのか?」
「ある意味ではな。だが普段は見えないから安心しろ」
見えない、というのはどういう意味だろう。
しかしトニカが質問する前に、ラストは言葉を続けた。
「俺は腕輪の悪魔だ。マルテとの契約に縛られている。契約を果たすまで、あいつについて行かなきゃならなくてな。今はせいぜい、このアーテアの街中くらいまでしか離れられない」
「……あんた、魔物なのか?」
トニカは、思いがけないラストの言葉に目を丸くした。
彼は、どう見ても人間にしか見えないからだ。
腕輪、と言われて、マルテの左腕にはまった古ぼけた銀のそれを思い出す。
悪魔は人間の敵のはずで。
しかも強い力やツノや翼を持っていると、トニカは聞いたことがあった。
獣みたいな顔だとか、猿みたいな顔だとかも。
目の前のラストは、そんな不気味な想像とはまるでかけ離れていた。
嘘だろうか。
本当なら、何故そんな魔物がマルテにくっ付いているのだろう。
「悪魔にも色々あってね。俺は元人間で、魔王とかに従っている訳じゃない。ヘマして封印されて、憑いた人間の願いを果たさないと解放されない」
元は人間の悪魔。
そんな話は全く聞いた事がなかった。
しかし、トニカの口から出たのは、疑問ではなかった。
「あんた、もしかして間抜け?」
「返す言葉もないな。泣きそうな顔でマルテにすがったお嬢さんには言われたくないけどな」
トニカは、ラストの言葉で恥ずかしさとともに頬にカッと血を上らせた。
「見てたのか!?」
「おっと、悪魔は嘘がつけなくてね。もちろん、見てたとも」
「ッこの覗き野郎!」
ニヤニヤ笑いがムカついてトニカは枕を投げるが、それはひょいと避けられた。
「乱暴なお嬢さん。そういうのは良くないな」
ラストがパチンと指を鳴らすと、床に落ちる前に枕が空中にとどまり、トニカの腹の上に戻ってきた。
びっくりするトニカに、ラストはサイドテーブルの紙袋を指さす。
「この度、無事にマルテが願い事を口にしてくれたんだが、中々に条件が難しい。どうせしばらくは離れられないから、少しおせっかいをした方が楽しいかと思ったんだ」
しばらくトニカはラストを睨みつけていたが、それきり彼は口をつぐんでしまった。
待っているみたいだったので、しかたなく紙袋に手を伸ばして、指先で中をのぞくと。
大小の瓶やケースが、紙袋の中に入っていた。
見覚えのないもの。
いや、見覚えのあるものもある。
カミソリや、短い筆のようなもの、クシなんかも一緒に入っていた。
一番驚いたのは、小さな手鏡だ。
「……何、これ。食べ物? じゃ、ないよな……?」
物を食うときに鏡やクシが必要なんて話は聞いたことがない。
カミソリはもしかしたら、肉を切り分けるのに使えるかもしれないけど。
トニカの問いかけにラストはニヤニヤと笑ったまま、はぐらかすような答えを返した。
「ある意味では調味料だな。お嬢さんが『食べられる』準備として必要なものさ」
「なに、それ」
思わず素の口調でつぶやいて、トニカは指を紙から離した。
この悪魔は、トニカを食うつもりなのだろうか。
「君は、自分の事をブスだと思っているみたいだが」
ぶしつけな言葉を吐いたラストが。
いつの間にか、トニカの横に立っていた。
「……!?」
いつの間に?
とっさに身構えて毛布を引き寄せるが、ラストはそれよりも先にトニカの顎を持って目をのぞき込む。
赤い瞳が血の色に見えて、トニカの脳裏にはじめてラストへの危機感が芽生えた。
この男は、もしかして本当に悪魔なのだろうか。
「確かに目つきは鋭い。しかし、切れ長でいい形をしている。眉も、細く形を整えれば見違えるだろう」
ラストは、楽しそうにトニカの顔を眺め回す。
「肌は確かに日に焼けていて、荒れているな。だが手入れの仕方も知らないんじゃ仕方がない。これから覚えればソバカスも薄くなる。化粧下地で隠せるだろう」
トニカはそこでようやく、抵抗しようとしたが。
見透かしたような動きでラストは顎に指をすべらせ、彼女よりもはるかにキメの細かい指先の感触を残して、離れた。
「顎のラインも悪くはない。体の肉付きは薄いが、これから食えば良くなるだろ。鼻の小ささは愛嬌だ……マルテの好み的に、デカイよりは良い」
引いた手を再びこちらに伸ばして、ラストはトニカの耳の脇にある髪に触れて、指先で束をねじる。
こそばゆさと不快感を感じて、今度こそその手をはねのけた。
「触んな!」
「髪も手入れされてなくてパサパサのボサボサ。クシを通す時に一度香油を塗ろうか。見違える艶が出る。……おお、痛い痛い」
わざとらしく手を振りながら、踊るような足取りで椅子を引き寄せてサイドテーブルの紙袋を取り上げたラストは、中身を取り出して広げた。
「どうかな、お嬢さん。マルテは君のために自分が嫌いな素顔をさらした。君は逆に少し……化粧を覚えてみないか?」
「化粧……」
トニカは、改めてサイドテーブルの上にある様々な道具や容器を見た。
ようやく、それが何なのかに気付いたのだ。
「これ、化粧道具……?」
「そういう事だ」
化粧品は高級品から粗悪なものまで様々にあるが、目の前のそれはどう見ても高級品だ。
アタシが、化粧?
あまりにも今までの生活からかけ離れた道具の存在に、トニカが尻込みをしていると。
「マルテに贈られたその服も、より似合うようになると思うけどね。そしてマルテも、契約とはいえ、少しは『見れる』女と住む方が嬉しいと思うしな」
「いちいちカンに触るものの言い方だよな……」
今まで、オシャレに気を使うような生活なんかしていなかったのだ。
言いながらも、トニカは化粧品から目を離せなかった。
別に綺麗になりたい訳じゃない、と心の中で、誰にともなく言い訳する。
ーーーちょっと化粧したくらいでアタシが可愛くなれるわけがない。
そう思いながらも、トニカは化粧道具から目を離せなかった。
でも、もしかしたら。
ちょっとでも、今よりはキレイに。
「マ、マルテは」
自分の浅ましい、化粧でキレイになることへの期待を悟られたくないと、トニカは言い訳を口にする。
「マルテがどうした?」
「……マルテは、今のままのアタシと一緒にいたら、恥ずかしい、よな……?」
そう、今のままでは、マルテ、が。
トニカは、両手を上に向けて肩をすくめるラストに対し、後ろめたさから目をそらす。
「……マルテに、恥ずかしい思いをさせたくないけど……」
しかしうじうじとどうでもいい事をいうトニカに、ラストは答える気がないようだった。
う〜、と唸りながら、上目遣いで恨みがましく化粧道具とラストの顔に視線を行き来させて……トニカは話を逸らした。
「マルテは、自分の顔が嫌いなのか?」
その問いかけには、ラストは首をかしげる。
「顔がよくて得をした事がないらしい。むさ苦しさが消えて俺はありがたいと思っているが」
「……何で、マルテはそこまで?」
理由が全く分からないトニカが言うと、ラストはおかしそうに答えた。
「本人に聞いてみたらどうだ? まぁ、答えないだろうな。それより、俺の質問の答えが欲しいんだけどね」
クックック、と喉を鳴らすラストから、トニカは苛立ちと共に顔をそらした。
ラストは分かっている。
分かっていて、トニカをからかっているのだ。
「……アタシ、化粧の仕方とか知らないよ」
負け惜しみに、教えてくれ、とは絶対に言わない。
実際に化粧品に触れたこともないトニカの発言に、それでもラストは満足そうにうなずいた。
「これから俺が教えるさ。悪魔は割と知ってる事が多い。退院まではまだ、間があるからな。それまでは君にやり方を教えるとしよう。退院した後は、俺はなるべく姿を見せない。必要になるその時までな」
トニカがラストの言葉にうなずくと、彼はさっそくカミソリとナプキンのような布を手に取った。