⑥名もなき勇者
「いいだろう。教えよう」
ラストは優雅に胸に手を当て、もう片方の手でトニカのノドに触れた。
「君には、君にしかないものがある。トニカ・ルッソ。……その、奇跡の歌声が」
マルテのものとは違う、なめらかな手の感触は。
ひんやりと、冷たくて。
「歌うんだ、トニカ。その歌声がマルテの力になる。勇者と心を通わせ、その愛を一身に受けるならば。彼を責める前に、受けただけのものを、今こそ返すべきだ」
そうして、顔に楽しげな笑みを戻して、ラストはトニカのノドから肩に手を滑らせた。
「トニカ。……君はもう、籠の鳥ではない。マルテと番となる、自由な青い鳥だ」
ラストはトニカに、戦うマルテたちを示す。
手で示された戦いは、一進一退で。
どっちが勝つか、トニカには分からない。
1対1なら、きっと魔王が一番強い。
ギルド長が、マルテが、薙ぎ払われて吹き飛ぶたびに、ロザリンダと残ったほうが援護して。
それでようやく、相手と同じくらいで。
「欲するものは、自らつかみ取れ。奴は矜持を見せた。真にマルテを欲するなら、今度は君も頑張るんだ」
ラストの言葉に、トニカはうなずいた。
「君が、本当にマルテを想って歌えば、全てが変わる。俺の作った歌を歌えるのは、君だけだからな」
「ラストの?」
彼の作った歌なんか知らない……。
そう思うトニカに、ラストは答えをくれた。
「君が二度目の公演で披露したあの歌は、俺の作った歌だ。この戦場に相応しいだろう?」
あの曲を、ラストが、と。
トニカは彼の美貌をまじまじと見つめる。
有名な、でも作者の名前がない、謎の楽譜。
その作者の顔を。
二度目の公演で歌った歌曲は、優美で、繊細で、それでいて艶のある楽曲で。
言われてみれば、あの曲は。
ラスト以外には書けないものだと、トニカは納得した。
そのまま大きく息を吸い込んで、前に出る。
呼吸を整えながら、トニカは思う。
歌う練習は、いっぱいした。
周りは騒がしいけど。
広場で、観衆を前にした時と、同じだと思えば。
いつものように。
いつものように、マルテのために……今度こそ本当に、自分のためじゃなく、彼だけを想って。
トニカは、心が落ち着くのを感じた。
姿勢を整え、自分が一番得意な声を発する。
ロングトーン。
自分の声が、鍛えたそれが、戦場の喧騒を引き裂いて広がっていくのが分かる。
トニカは、歌い始めた。
曲は、歌曲のうち、最も勇壮にして繊細な一節。
ーーー『興国の勇者と大悪魔の舞踏』。
本来。
この歌曲は歌い手を付けないで演奏されるか、原意を変えて歌われる。
それをトニカは、楽譜に記されたとおりに歌う。
彼女だけが、その楽譜を譜面通りに歌えることがーーートニカの受けた名声を、さらに高めた。
世界で唯一、トニカだけが歌える歌。
「そう、それでいい……」
ラストの言葉とともに。
清浄な空気が、トニカの周りに渦巻いた。
歌に合わせて波のように広がるそれがなんなのかを、トニカは知らないけど。
トニカの気持ちが、見つめる先にいるマルテに届くのがわかった。
「……!」
死闘の中にいるマルテと、一瞬だけ目が合う。
おどろいたような彼に、歌いながら笑みかけると。
マルテの体が、青い輝きに包まれた。
同時に、ギルド長と、ロザリンダも。
「これは……」
「……トニカ?」
波は、歌声の盛り上がりとともに、さらに広がっていく。
青い輝きは、トニカ自身の感覚となって寄せては返す。
マルテの勇気が。
ギルド長の意志が。
ロザリンダの想いが。
まるで我が事のように感じられる。
戦場に立つ人々を飲み込み、ついに歌声と輝きが戦場となる広場を包み上げると。
魔王や人狼たちが、苦しみ始めた。
「聖結界、だとぉ……!? まさかあの女ァ……!」
動きを止めたマルテとギルド長の前で、ウェアウルフが苦悶の声を上げた。
マルテたちに力を与える輝きは、魔物にとってはそうではないみたいで。
「奇跡の歌声の、正体は……まさか、トニカが」
ロザリンダの言葉を肯定するように。
背後のラストが、満足そうな声を発した。
「愛を胸に、歌う乙女。奇跡の歌姫……その、勇者に限りない力を与える存在を、本来なんと呼ぶか」
トニカはラストの声を聞きながらも、歌うのをやめない。
魔王は苦しみながら、ふたたび挑み始めたマルテとギルド長に、必死に応戦している。
「教えてやろう、トニカ・ルッソ。人は、それを」
でも、マルテたちの動きは、今までよりも速く、鋭くて。
ウェアウルフに、深い傷を刻み始めた。
「―――聖女、と呼ぶのさ」
歌が、最高潮の盛り上がりに達する。
この歌の作曲家は……ラストは、ここで歌い手に一つの想いを託していた。
その想いこそが。
誰にもこの歌を、原曲どおりに歌えない理由。
ーーーやさしく愛おしく、かつ情熱的に。
この二つの指示は、本来かけ離れたもので。
人の歌声では表現しきれないと、言われていた。
ゆえに、この曲の入った一連の歌曲は、神が歌うための楽譜、と呼ばれて。
でも、トニカだけは歌える。
やさしく愛おしく、情熱的な、マルテへの想いを乗せて。
その歌が、マルテに力をもたらすなら。
トニカは何でも、歌ってみせる。
ついにマルテが、魔王ウェアウルフの肩から腰を斜めに断ち斬り。
その巨体が、音を立てて倒れた。
「ガァ……カハッ! せっかく滾ってたのによォ……」
終演に向けて、少しずつ声をひそめるトニカに。
ウェアウルフが忌々しそうな目を向けた。
「とんだ邪魔が、入ったぜ……!」
その声を受けて。
トニカが最後の息を吐くと、青い輝きが薄れて。
同時に魔王の姿が光の粒に変わって、弾けるように消えた。
※※※
戦いを終えて。
マルテはおぼつかない足取りでトニカに歩み寄ると、その前に立った。
視界のすみで、肩を押さえて立ち尽くすギルド長に、ロザリンダが駆け寄っていく。
その背中を支えて、トニカたちの方を見るのが映る。
マルテは真剣な眼差しでトニカを見すえて、剣を落とすと。
「すまなかった、トニカ」
そう言って、彼女を抱きしめた。
マルテから、土と、木と、汗と、血の匂いを感じたトニカは。
彼と出会った、あの日を思い出す。
「謝って、許されることではないかもしれないが。……俺は間違っていた」
「マルテ……?」
その声が泣きそうなものに聴こえて、トニカはそっと、マルテを抱き返した。
「無事で、よかった……」
素直な気持ちを、震える声で。
マルテの腕に込められた力は、強いけど、トニカを傷つけない。
むしろその強さに安堵を覚えて、彼女は目を閉じた。
マルテが、言葉を続ける。
「俺は、お前の気持ちを聞くべきだった。俺の気持ちを、きちんと伝えるべきだった。黙って消えることを、正しいと思っていた俺は……愚かだった」
マルテは体を離すと、ヒザをついてトニカを見上げる。
「怖い想いを、させた。ひどく、傷つけた。それを、本当の意味で理解した。だから、受け入れてくれなくてもいい。……トニカ」
彼は。
不安そうに、一度だけ瞳を揺らして。
すぐに、はっきりと意思を込めた目になり、微笑みを浮かべて、トニカに告げた。
「お前を愛している。出会った時から、ずっと。俺はお前のそばを、離れるべきではなかった」
「マルテ……」
トニカは、マルテの首に今度は自分から抱きついた。
涙がこぼれて。
でも、トニカも言わなくちゃいけない。
だって、今までのままじゃ、ダメだから。
マルテの言うことを聞くだけのトニカは、終わりにしないといけないから。
「黙っていなくなるなんて、ズルい……」
「ああ」
「いつも、一人でなんでも勝手に決めつけて。私、怒ってるんだから」
「ああ」
「ウソつきなマルテなんか、きらい」
そう口にした言葉に、マルテが肩をふるわせる。
「……分かっている。俺がバカだったんだ」
トニカがどれだけ罵っても、マルテは謝るだけで。
だから彼女は言った。
「でも、私もワガママばっかりだった。ワガママばっかり、マルテに言ってたんだって、私も今まで、気づいてなかった」
マルテが、おどろいたような声で否定する。
「そんなことは」
「あるよ。マルテが優しいから、甘えてたの。甘え過ぎたから、マルテはいなくなったんだって、分かったから」
ラストが、教えてくれたから。
トニカは彼の暖かさを感じながら、首を横に振る。
「でも、私はもう、マルテを助けられるよ。頼りないかもしれないけど。何にも知らないトニカじゃなくなったのは、マルテがあの日、私を助けてくれたから」
だからおあいこ、って、トニカは顔を上げて、マルテの頬に手をそわせた。
「もう、ウソをつかないで。私も、これからは、マルテを助けてあげられるように頑張るから。辛いことがあるなら、そう言って。私が気に入らないことをしたら、言ってくれていいから。私もマルテの気持ちを、分からない、って勝手に決めつけるのは、やめるから」
「トニカ……」
トニカは、なぜか救われたような顔をする彼に。
涙を我慢できないまま、笑う。
マルテだって、きっと私と同じで。
私に嫌われるのは、怖かったんだって。
憎んでもいいなんて、ウソ。
マルテは、ウソつきなんだから。
「大好きよ、マルテ。あなたが大好き」
マルテの目が、大きく見開かれて。
まるで信じられないものを目にしたみたいに。
トニカは、初めて見る顔をする彼に、ちゅーをしてから、告げる。
「だからずっと、そばにいて」
これも、ワガママ。
でも、ワガママは言ってもいいんだ。
自分がどうして欲しいかを言うのと、同じくらい。
マルテにも、どうして欲しいかを、聞いてあげれば。
マルテは、すぐに我慢するから。
でも、聞いてあげたら、言ってくれると思うから。
「マルテも、ずっと私と一緒にいたいって、思ってくれる?」
「トニカ」
マルテが、目を伏せた。
魔王が消えて、暗かった気配も消えて。
晴れわたる空を流れる風が、トニカの熱を持つ頬を、流れる涙を冷やす。
「俺が間違ったのに、お前は許してくれるのか……」
「私だって、いっぱい間違ってた。でも、間違いに気づいたら正せるんだって、皆、言って、た……よ……ひっく」
トニカは、もう我慢できなくて。
しゃくり上げながら、力なくマルテの頬を叩いた。
今すぐに、大人のトニカになんてなれないから。
ちょっとだけ頑張ってみたけど、ムリだった。
「生きててくれて、ひっく、よかったよぅ……マルテの、バカぁ!」
「……悪かった。本当に、俺が悪かった……」
マルテは優しく、マルテと同じようにヒザを落として泣きじゃくるトニカを抱きしめ、背中をさすってくれた。
少し、トニカが落ち着いてくると。
マルテは、つぶやきのような声をもらした。
「俺は、これから先も共に、とお前が望むなら……今度こそ、たとえ、地獄の……底から、でも……」
「ひぐ、マルテ……?」
様子が、おかしかった。
背中を撫でるマルテの手から力が抜けて。
そのまま、ぐらりと倒れこむ。
「マル……!」
「こんな時まで格好がつかないな、君は。せめてもう少し、起きておけよ」
呆れ顔のラストが、マルテの襟をつかんで支えた。
そのまま、ひょい、と担ぎ上げるようにマルテの体を持ち上げて。
ラストがトニカと、ギルド長たちと、ミキーに目を向ける。
ため息を吐いて、ラストはミキーも担ぎ上げた。
「まったく、救護院へ行くぞ。男どもは、死なないだろうが治療を受けさせないとな。……なんで俺が、男を背負わなくちゃいけないんだ。汗くさい。服が汚れる」
ブツブツと不満を言うラストを。
トニカは、初めて嫌味ったらしくない、と思いながら、笑いをこらえた。